醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより 136号  聖海

2015-03-30 10:46:20 | 随筆・小説

    古代日本人はお酒を楽しむ人々だった

     古人(ふるひと)の食(たま)へしめたる吉備(きび)の酒
病(や)めばすべなし貫簀(ぬきす)賜(たば)らむ
             巻第四 554 賀茂女王(かものおほきみ)の歌

 昔の人が炊いた黍を噛み、醸した酒ですから悪くなっていたらどうしようもありません。そのときはやむを得ず貫簀(ぬきす)で酒を漉していただきますので貫簀(ぬきす)をいただけませんかというような意味である。貫簀(ぬきす)とは細い竹で編んだすだれをいう。
 当時の女性が詠んだ歌である。今から1250年くらい前、天平時代と呼ばれる時代に詠まれた歌であるが現代の女性と変わらない心得であろうか。女性がお酒を楽しむ文化がこの時代にはあった。人の気持ちは千年前も今も変わらないが、酒の造り方、飲み方は大きく変わった。
 若い女性が炊いた穀物を口で噛み、吐出し、それを甕に溜め、水を加え発酵を待つ。若い男が噛んだ酒は発酵しなかったという。唾液で穀物のデンプンを糖分に変える。その糖を空気中に存在する酵母が食べる。酸素のない所で生きる酵母はアルコールを吐出し、炭酸ガスを放出する。これが酵母の生命活動である。酵母が生きることがお酒を生成する過程でもある。出来上がったものが今でいう濁酒(どぶろく)である。この濁酒は食べることはできても水を飲むように飲むことはできない。古代日本人にとってお酒は飲む物ではなく、食べるものであった。
 現代の日本酒は古代の日本人が食べた濁酒に更に水を加え、蒸した米を加える。このことを「掛け」という。一般的には三回、「掛け米」をする。こうしてアルコール度数を上げたものを「醪(もろみ)」という。この醪を木綿布で絞ったものが清酒である。
 賀茂女王(かものおほきみ)が食べたお酒のアルコール度数は4~5%位のものであったろう。三段掛けの技法が発見されてからアルコール度数が20%近くに達するお酒が造られるようになった。
 万葉集の同じ巻に次のような歌がある。
 君がため 醸(か)みし待酒(まちざけ) 安の野に独りや飲まむ友無しにして  大伴旅人
 あなたがお出でなると聞きましたのでお酒を造って待っておりましたのに、あなたが見えませんでしたので一人でお酒を楽しんでおります。このような意味でしょうか。本当に人の気持ちは変わらないものです。酔いを楽しむ文化が万葉の時代にはあった。ところが、時代が下ってくると共にお酒を楽しむ文化が無くなっていった。
 8世紀聖武天皇が東大寺を建立し、鎮護国家の宗教として仏教に帰依するようになるとお酒が仏教の戒律に触れるということになる。10世紀初めに編まれた『古今集』になるとお酒を飲んで酔いを楽しむ歌は一つもない。仏教思想に影響を受けた禁酒の文化はなんと江戸時代中ごろまで続く。しかし仏教の禅宗に強い影響を受けた芭蕉は禁酒の思想を継承していない。酔いの楽しみを詠んだ句が芭蕉にはある。元禄時代にお酒の酔いの楽しみを味わっていたのは豊かになった町人たちであった。この町人の文化を詠んだのが芭蕉の俳句であったからである。
花にうき世わが酒白く飯黒し 花を愛で、酔いに親しむうき世万歳
扇にて酒酌むかげやちる桜   散るさくらの蔭にお酒が楽しめる
花に酔へり羽織着て刀さす女  酒に酔った女が刀を差して踊り始めたよ
酒のみに語らんかかる滝の花  滝の音を聞いて酒が呑める。あぁーいいもんだ
二日酔いものかは花のあるあいだ  こうして酒が呑めるのも花が咲いている間のことじゃないか
酔うて寝ん撫子咲ける石の上  あぁーいい気持ちだ。撫子が咲く石の上でひと寝入りだ
芭蕉は酔いの楽しみを詠んでいる。