閑(しづか)さや岩にしみ入蝉の聲 芭蕉 元禄二年
句郎 「閑(しづか)さや岩にしみ入蝉の聲」、『おくのほそ道』に載せてある有名な句を鑑賞したい。
華女 中学生なら誰でも知っている句だと言えそうな句よね。
句郎 曽良の『俳諧書留』には「立石寺」と前詞を置き「山寺や石(いわ)にしみつく蝉の聲」とある。
華女 上五が「山寺や」じゃ、素人の句の域を出ないわね。
句郎 この句の他にも伝わっている句形がある。「さびしさや岩にしみ込蝉のこゑ」、淋しさの岩にしみ込せみの聲」がある。
華女 芭蕉は推敲する人だったのね。
句郎 推敲の結果、「「閑(しづか)さや」の句は文学になった。
華女 蝉の大きな鳴き声を山寺の林間に聞きながら芭蕉の心の底に静かさが染み渡っていっているのよね。
句郎 蝉の鳴き声を詠んで静かさを表現した名句中の名句の一つなんだろうな。
華女 神々しい荘厳な静かさよね。仏様がおられる静かさよ。そのような心の世界が表現されているように思うわ。
句郎 「閑さ」とは芭蕉の心の世界だ。心の世界を表現した「閑さ」と「岩にしみ入蝉の聲」との取り合わせの句になっている。
華女 座禅をくんだ時に広がってくるような静かさをこの句を読むと感じるわ。
句郎 蝉の声はしているのに静かだということだよね。これは矛盾している。にもかかわらず蝉の鳴き声と静かさとは一体のものとして感じられる。
華女 般若心経の世界のよね。
句郎 そう、そう、絶対矛盾の自己同一のようなものなのかな。般若心経の「色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。」を表現しているとも言えるように思うな。
華女 「閑さや」とは、「空」ということね。「蝉の聲」とは「色」ということね。
句郎 そう、蝉の声は聞こえているのだから「色」゛だよね。「閑さ」とは、目に見えるものじゃないから「空」かな。
華女 蝉の聲は岩に染み入ってしまって無くなってしまっているということなのよね。
句郎 蝉の鳴き声が岩にしみ入るはずがないから岩とは、芭蕉の心の中の岩に蝉の聲は染み入って静かになったということかな。
華女 「色即是空。空即是色」とは、そのようなことなのね。
句郎 芭蕉は禅の師匠仏頂和尚に『おくのほそ道』の旅の途中、那須黒羽の雲厳寺を訪ね、佛頂の修業跡で「啄木鳥も庵は破らず夏木立」と詠んでいるくらいだからね。芭蕉には禅の素養が備わっていたのじゃないのかな。
華女 「閑さや」の句は禅の世界を表現した句だといえるということなのかしらね。
句郎 そんな気がしてきたな。禅の世界のリアリティーのようなものが「閑さや」の句にはあるように考えているんだ。
華女 芭蕉には禅の教養があったからこのような句が詠めたということなのかしらね。
句郎 そうなのかもしれない。「閑さや」の句には禅宗の教養の影響があるのではないかと私は考えている。
華女 そのような教養が俳諧を文学にしたのかもね。