醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより  910号  白井一道

2018-11-14 07:33:34 | 随筆・小説


  汐越(しほごし)や鶴はぎぬれて海涼し  芭蕉  元禄2年

  

句郎 「汐越(しほごし)や鶴はぎぬれて海涼し」。この句を芭蕉は象潟で詠んでいる。また伝わっている『真蹟懐紙』には「腰長(こしたけ)の汐というふ処はいと浅くて、鶴下り立ちてあさるを」との前詞を置き「腰長や鶴脛ぬれて海涼し」とある。
華女 「汐越」とは、潮水を引き入れている浜をいうのかしら。
句郎 遠浅になっているところでいいんじゃないのかな。
華女 家の近くを流れる古利根川に入って餌を探すアオサギをよく見かける
わ。細く長い足をゆっくりゆっくり動かし、長い嘴で小魚や泥鰌などを捕まえるのよ。
句郎 古利根川の川底は浅いね。私もよく見かけるな。
華女 アオサギは一年中いるわよ。鶴は見かけたことはないわ。鶴は渡り鳥なんじゃないの。
句郎 鶴が日本に渡ってくるのは冬なんじゃないのかな。
華女 芭蕉が『おくのほそ道』の途上、象潟でこの句を詠んだのは夏よね。
句郎 「海涼し」と詠んでいるのだから、「涼し」は夏の季語だよね。
華女 三百年前の元禄時代の象潟には鶴がいたのかしらね。
句郎 当時、象潟は松島と同じような海の中に小嶋がたくさんある潟湖だった。九十九島・八十八潟の景勝地だった。だから芭蕉は象潟を訪ねた。
華女 その後、地震でもあって土地が隆起したのかしら。
句郎 そうなんだ。文化元年(1804年)の象潟地震で海底が隆起し、陸地化した。その後、本荘藩の干拓事業による水田開発が進み、歴史的な景勝地は破壊されていった。その時、当時の蚶満寺の住職・二十四世全栄覚林の機転や命懸けの呼びかけによって、後に保存運動が高まり、今日に見られる景勝地の姿となったようだ。
華女 当時、象潟が松島と同じような景勝地として名高いところだったということはわかったわ。問題は夏の象潟に鶴がいたのかしらね。
句郎 夏の象潟に鶴がいたとは、どうしても考えられないな。
華女 芭蕉は汐越しの浜を見て、鶴を想像して詠んだ句なのかしらね。
句郎 象潟の汐越しにいる鶴を見て詠んだ句ではない。そうとしか考えられないよね。
華女 だからかしら、芭蕉はこの句を『おくのほそ道』に載せていないわね。『おくのほそ道』に載せられるような句ではないと芭蕉はかんがえていたのじゃないのかしらね。
句郎 そうのかもしれないな。夏の汐越しの涼しさは表現されているようには思っているんだけどな。
華女 この句はヒィクションだと私も思うわ。
句郎 細く長い脚の鶴と象潟の汐越し、一幅の絵になるようにも思うな。
華女 「古利根のアオサギ浅い川涼し」。この句はどうかしらね。アオサギは一年中いるから季語にはならないわ。
句郎 芭蕉はいろいろ創っているね。単なる写生による句を詠むということをしていないね。実際に自分の目で見たことを詠むということではなく、今までの俳諧師といわれる人々の間で慣例的に詠む内容が決まっていた。それに従って詠むようだったからな。