醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより  912号  白井一道

2018-11-17 12:17:42 | 随筆・小説


 行く秋や手を広げたる栗のいが  芭蕉  元禄七年 


句郎 元禄七年、芭蕉が詠んだ句だ。『芭蕉翁追善之日記』には、「五日の夜なにがしの亭に会あり」とあるから俳諧の発句として掲出した句なのかもしれない。
華女 「行く秋」と「栗のいが」の季重なりになっているわ。でもこの句は「行く秋」を詠んでいるのよね。
句郎 発句なのかもしれないが一句として自立した俳句になっているように思うな。
華女 長谷川櫂氏の説に従
えば「行く秋」の前と「栗のいが」の後で切れているように思うわ。
句郎 季語「行く秋」と「手を広げたる栗のいが」との取り合わせの句のようだ。
華女 季語「行く秋」の情緒には今まであったものが無くなっていく哀しみのようなものがあるわ。
句郎 「行く秋」には人と人との別れの情趣を芭蕉は詠んでいるように思う。
華女 そうね。『おくのほそ道』の最後の句は「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」よね。芭蕉は大垣で門人と別れるのよね。
句郎 「長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて」。この言葉が『おくのほそ道』の言葉だから。旅立つ人があとにとどまる人への別れの情が「行く秋」にはあるように思う。
華女 また人との別れには心の中に吹く寒い風。寒くなっていく心細さのような気持ちもあるように思うわ。
句郎 そう思うよ。貞享五年、45歳になった芭蕉は「行く秋や身に引きまとふ三布蒲団(みのぶとん)」と詠んでいる。身幅の狭い布団に包まって行く秋を寝ているということなのかな。
華女 身近にあったものが薄れていく哀しみね。それが「行く秋」の情趣なのね。
句郎 栗の木は落葉広葉樹の大木になる木かな。北関東の山国では栗の木が繁茂している。
華女 日本全国に繁茂している木なんじゃないかしらね。
句郎 芭蕉の郷里、伊賀上野にも栗の木が繁茂していたのかもしれないな。
華女 そうよ。この句を芭蕉は郷里・伊賀上野で詠んでいるんでしょ。
句郎 そうか。芭蕉は郷里、伊賀上野の仲間、門人たちとの別れの挨拶を詠んだ句なんだろう。
華女 「手をひろげたる」とは、手のひらを思いっきり広げて別れの挨拶をしたということなんじゃないのかしらね。
句郎 栗のいがを剥く時のわくわく感は栗のいがを剥く難しさにあるように思うんだ。棘に刺されないよう細心の注意をして茶色の皮を取り出した時の喜びがある。
華女 秋の日の喜びね。栗のいがが醸しだすわくわく感が行く秋の気持ちと響き合うのよ。心温まる別れなのよ。人との別れはこのような別れがいいと私は思っているわ。
句郎 そうだと思うな。
華女 そうでしょ。芭蕉のこの句、私、好きよ。
句郎 いいよね。このカラッとした明るさがいい。「麦の穂を便りにつかむ別れかな」。留別吟として読むなら、この句の方が力強さがあるように思うけれども、「行く秋や手をひろげたる栗のいが」もいいなぁー。この軽さがいいのかもしれないな。
華女 名人の句なのよ。