醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより  903号  白井一道

2018-11-06 11:06:59 | 随筆・小説


  雲の峰幾つ崩れて月の山 芭蕉  元禄二年


句郎 「雲の峰幾つ崩れて月の山」、『おくのほそ道』に載せてある句を鑑賞したい。
華女 この句の季語は何なのかしら。「月」でいいのかしらね。
句郎 「山の月」だったら季語は「月」ということになるのかもしれない。この句は「月の山」になっている。「月の山」とは、出羽三山(でわさんざん)の一つ、月山のことを言っている。
華女 出羽三山とは、山形県村山地方・庄内地方に広がる月山・羽黒山・湯殿山のことを言うのよね。
句郎 そう、日本古来の山岳信仰をもとに仏教が融合した神仏習合の権現信仰が修験道のようだ。その本場が出羽三山なのかな。
華女 出羽三山はパワースポットなのよね。だから今でも若い女性に人気のある山みたいよ。
句郎 江戸時代にあっては「西の伊勢参り、東の奥参り」といわれていたようだ。その「東の奥参り」とは、出羽三山だったようだ。一生に一度は参りたいと言われていた。
華女 江戸時代の庶民にとって神社や寺参りは数少
ない娯楽だったんでしょう。信仰は同時に遊びでもあったんだと思うわ。
句郎 芭蕉の陸奥の旅『おくのほそ道』は当時にあっては冒険の旅であった。また別の見方をすれば信仰に基づいた遍路の旅、巡礼であった。
華女 芭蕉は出羽三山への宗教登山をしたのね。修験道の山岳信仰というと熊野三山とも言わているわよ。
句郎 熊野にもまた日本全国にある熊野神社の総本社である熊野本宮大社がある。今も修験道が行われている。
華女 芭蕉が月山に宗教登山したときのことを詠んだ句が「雲の峰幾つ崩れて月の山」ということなのね。
句郎 そのようだ。この句は俳諧の発句ではないようだ。自立した俳句だと言えるように思う。
華女 深山幽谷の神仏の世界に入ったという感慨を詠んでいるということね。
句郎 「雲の峰」とは、入道雲のことを言うようだから、いくつもの入道雲、雲の峰が崩れていくのを越え権現様のいる世界に入った。そこは月の山だった。
華女 雲の上の神仏のまします世界を詠んだということなのね。
句郎 「雲の峰」という季語には光の輝きがあるでしょ。その光の輝きに昔の人々は神の世界を感じたと同時にそこは死の世界でもあった。森敦は小説『月山』の中で「長らく庄内平野を転々としてきた「私」にとって、この山はまず死者の行くあの世の山として捉えられる。
  月山が、古来、死者の行くあの世の山とされていたのも、死こそはわたしたちにとってまさにあるべき唯一のものでありながら、そのいかなるものかを覗わせようと  せず、ひとたび覗えば語ることを許さぬ、死のたくらみめいたものを感じさせるためかもしれません。」とね。
 「雲の峰」の彼方は神の世界であると同時に死の世界でもあった。
華女 この「雲の峰」の句は芭蕉の宗教登山をした経験が生んだ句なのね。
句郎 芭蕉にとっては、初めての月山登山、神秘体験に基づく句だったということなのかな。

醸楽庵だより  902号  白井一道

2018-11-06 11:06:59 | 随筆・小説


  五月雨をあつめて早し最上川  芭蕉  元禄二年


句郎 「五月雨をあつめて早し最上川」、『おくのほそ道』に載せてある有名な句を鑑賞したい。
華女 高校の古典の教科書に載せてある句よね。何を教わったのか、すべて忘れてしまったけれどもこの句は記憶に残っているわ。
句郎 この句は元禄二年五月二九日(七月十五日)、山形、大石田の高野平右衛門(俳号一栄)亭で巻かれた歌仙の発句「五月雨を集めて涼し最上川」を推敲し『おくのほそ道』に載せた句のようだ。
華女 この句は、主人の一
 栄への挨拶句ね。「今日はお招きいただきありがとうございます。五月雨を流す最上川からの風が涼しゅうございますね」と、芭蕉は一栄に挨拶をしたわけね。
句郎 俳句は挨拶だと山本健吉が述べている。ほんとにそうだと思うね。
華女 俳句は挨拶よ。だから日本人の挨拶は、天気のことなのよ。私、初任の頃ね。事務室にいたのよ。そのときお客さんが入ってきて「お暑うございます」と言ったのよ。事務長も「ほんとに暑いですね。どうぞ、こちら
に」とソファーを勧めたのよ。あぁー、これが大人の挨拶というものなんだと思ったわ。
句郎 挨拶は国によって違うようだから、日本の挨拶は天候から入るから。日本の挨拶文化が俳句を生んだということが言えるようにも思うな。
華女 日本の挨拶文化と俳句とは関係があるのかもしれないわね。
句郎 挨拶というわけじゃないけれども子規の句にあるんだ。「毎年よ、彼岸の入りの寒いのは」。「母の詩、自ら 句となりて」という前書きがある。 亡きお母さんの生前の口癖がそのままこんな句になった。「お母さん、お彼岸だというのに寒いなあ」と言うと「毎年よ、彼岸の入りの寒いのは」と子規の母は答えられたという。
華女 挨拶にもなるような言葉よね。「彼岸の入りが寒いのは毎年ね」と挨拶できるようにも思うわね。
句郎 挨拶文句は俳句になるということかな。
華女 口頭の挨拶文句を書いたとき俳句になったのかもしれないわ。
句郎 俳諧の発句「五月雨を集めて涼し最上川」を『おくのほそ道』に載せるとき、芭蕉は推敲し「五月雨をあつめて早し最上川」と修正したことによって俳諧の発句は俳句になった。
華女 俳諧の発句は『おくのほそ道』という紀行文の載せるという営みの中でそれまでなかった新しい文学、俳句が誕生したということなのね。
句郎 それまでのアンソロジーとしての俳諧集ではなく、『おくのほそ道』のような紀行文というか、俳文を芭蕉が書くことによってそれまでの俳諧というものから俳句という新しい文学を創造してしまったということなのかもしれないな。
華女 芭蕉は意識的に新しい文学を創造したいと思ってしたことではなく、ただ書きたいから書いていたら偶然、新しい文学俳句が生れてしまったということなのね。
句郎 そうだと思う。俳文を書くという営みが俳句を生んだ。「五月雨を集めて涼し最上川」は俳諧の発句だが、「五月雨をあつめて早し最上川」は、この一句だけで自立した一つの世界を表現している。