醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより  975号  白井一道

2019-01-22 12:45:58 | 随筆・小説


  大寒の朝


 大寒の朝である。「いつ寒に入りしかと見る陽ざしかな」。星野立子の句を思い出させるような朝日を受けてごみ置き場に向かった。
 一列になった小学生が登校する。小学生と一緒にごみ置き場までの2、30メートルを歩いた。ごみ置き場は県道の横断歩道脇にある。横断歩道には小学生の交通安全補導員が制帽と制服を着て黄色の旗を持ち、立っている。
 定年退職後生ゴミを朝、指定されたごみ置き場まで持っていくことが私の仕事として定着している。年恰好が同じぐらいということなのか、交通安全補導員が私に話かけるようになってもう十数年がたったようだ。
 小学生が安全に県道を渡りきるのを確認すると補導員が私に話かけてきた。今年3月末に交通安全補導員を辞めることにしました。家内が屋敷から県道に出る深い側溝に落ち、手首を折ってしまったんですよ。県立病院で手術をし、骨を補強するものを入れ、終えたんですがね。家事ができなくなり、私が全面的に家事全般をしなくちゃならなまなったんです。私には三人の子供がいます。娘は結婚し、家をでています。長男も次男も家を出て一家を構えているんです。家は私と妻の二人きりなんですよ。ボランティアを辞めてくれと家内に懇願されましてね。実はもう4年前から言い続けられていたのです。今回は娘に強くお母さんの面倒を見てねと、言われましてね。
家内には何とか断ることができても、娘に強く言われると断り切れなくなりましてね。とうとう三月をもって交通安全補導員を辞める決断をしました。この県道の交通安全補導員を14年しました。朝、7時20分から7時50分まで朝の補導員をしました。
この近くの人とも知り合いができ、小学生のお母さんとも話ができるようになったんですが、残念です。
このような話を聞いた。私だったらこのような交通安全補導員をしないだろうなと、思った。年一回、市の交通安全協会から謝金が出るという話だった。小学校の卒業式には来賓として迎えられ、教職員、父母らの代表者から感謝の言葉をいただくようだ。
彼はどんなに寒い朝であっても交通安全補導の場所に出向くことが億劫だと思ったことはないと常日頃話していた。俺には仕事があると思うだけで元気がでるという。朝、顔を洗い、髭を剃り、制服を着る、制帽を被ると体に力が籠るという。75歳までは思ってきたがやむなく、一年前倒しで辞めることになりしたと元気な声で話してくれた。
彼は市役所職員として40年近く勤め定年退職後は交通安全補導員として14年間務めたようだ。健気にひたむきに市民に尽くす人生をおくった。
私は彼の話を聞き、柳田国男の常民の文化を思った。地域の文化というものは彼のような人々が担ってきたのだということを思った。まったく損得を考えることなく、人の役にたつことを無償で引き受けていく人々がいる。このような人々が公共財というものを築いていく。そのようなことを実感した。日本の文化を支えてきた常民の姿に触れた今朝のゴミ出しだった。