風かをる羽織は襟もつくろはず 芭蕉
句郎 今栄蔵著『芭蕉年譜大成』によると芭蕉は元禄4年6月1日(新暦6月26日)、曽良・去来・丈草らと石川丈山詩仙堂を拝観している。「丈山之像ニ謁ス」と前詞を置き、この句を詠んでいる。
華女 詩仙堂は今でも観光の名所ね。近くに曼殊院があるわ。
句郎 宮本武蔵が吉岡一門と決闘をしたという伝説がある一条寺下り松の近くに詩仙堂はあるよね。
華女 若かった頃、あのあたりを巡り歩いたことがあるわ。芭蕉も庭を見学し、座敷に座って薄茶などを啜ったのかしら。
句郎 狩野探幽が描いたと言われている「石川丈山像と向かい合い詠んだ句が「風かをる羽織は襟もつくろはず」だったのかな。
華女 「風かをる羽織は襟もつくろはず」は芭蕉の丈山像だったということね。
句郎 薫風を愉しむことができるならそれで満足と、いうことかな。
華女 ゆったりと自分の生活を楽しんでいるということね。
句郎 芭蕉も俳諧師仲間と詩仙堂を拝観させていただくだけで満足だという気持ちがこのような句を詠ませているのじゃないかと思うな。
華女 江戸時代は身分制社会なのよね。芭蕉の身分は農民よね。曽良は伊勢長嶋藩に仕えた武士身分よね。丈草の出自は何だったのかしら。
句郎 出身身分ということかな。
華女 そうよ。
句郎 丈草は尾張犬山藩士内藤源左衛門の長子として生まれているから、武士身分かな。
華女 曽良も丈草も身分としては武士よね。牢人しているといっても武士と農民とが連れ立って石川丈山の山荘詩仙堂が見物できたということは身分としては武士が二人いたからなのかもしれないわ。
句郎 身分制社会であっても俳諧師という世界には身分差別が緩やかだったんじゃないのかな。
華女 芸能界には男女差別がないという話を聞いたことがあるわ。
句郎 現代社会の話かな。
華女 そうよ。芸能人の社会よ。人気のある人が敬われる社会なんじゃないのかしら。人気があり、力のある女性は男性を手足のように使っているのよ。そこには女だからということはないみたいよ。
句郎 男だからという理由だけで敬われるということはないということかな。
華女 そうよ。男女平等の社会が芸能界なのよ。
句郎 俳諧師の世界は身分制社会の秩序外に生きている人々の世界だったんだろうからね。
華女 俳諧師だったから詩仙堂の見物ができたんじゃないのかしら。
句郎 単なる町人や農民だったら、そもそも詩仙堂など見物しようという気持ちなどないだろうからね。
華女 そうよ。俳諧師だからこそ、詩仙堂もまた見物を許したのじゃないのかしら。
句郎 座敷に案内され、庭を見ることができたのか、どうか分からないな。武士身分の高い方からの紹介があって初めて見物できたんだと思うよ。
華女 きっと身分の高い方からの紹介状を持参していたのよ。そのような紹介状なしには見物はできなかったと思うわ。
句郎 詩仙堂と懇意にしている人を芭蕉は知っていたんだと思う。それは誰なのかは分からないが。
華女 芭蕉は狩野探幽が描いた石川丈山を見て自分の人生に満足している姿をそこに発見し、感動したのよ。
句郎 「羽織は襟もつくろはず」と詠んでいる。漢字の羽織、羽織を着ている。漢字の襟、襟は正しているがつくろっていない。平仮名で書いている。この姿に芭蕉は自分の人生に満足している人間を見たのだと思う。
華女 芭蕉はきっと腰の低い人だったんだと思うわ。だから芭蕉にはたくさんの弟子がいたのよ。この弟子たちがたくさんいたからこそ芭蕉は芭蕉になったのよ。
句郎 そうなんだと思うな。