鞍壷に小坊主乗るや大根引 芭蕉 元禄六年
「大根引という事を」。このような前詞がある。『炭俵』に載せられている。
この句について去来が書いている。『去来抄』に次のような文章がある。
「蘭國曰、此句いかなる處か面白き。去來曰、吾子今マ解しがたからん。只圖してしらるべし。たとへバ花を圖するに、奇山幽谷霊社古寺禁闕によらバ、その圖よからん。よきがゆへに古來おほし。如此類ハ圖の悪敷にハあらず。不珍なれバ取はやさず。又圖となしてかたちこのましからぬものあらん。此等元より圖あしとて用ひられず。今珍らしく雅ナル圖アラバ、此を畫となしてもよからん。句となしてもよからん。されバ大根引の傍に草はむ馬の首うちさげたらん、鞍坪に小坊主のちよつこりと乗りたる圖あらば、古からんや、拙なからんや。察しらるべし。國が兄何某、却て國より感驚ス。かれハ俳諧をしらずといへども、畫を能するゆへ也。圖師尚景が子也。」
嵐国がこの句のどこが面白いのかなと言った。
吾子にはまだ分からないだろうな。ただ絵にしてみると分かるかもしれないよ。例えば花を描くとするなら、珍しい山、深い谷、霊験ある社、伝統のある寺、「禁闕(きんけつ)」とは皇居、宮廷の門、禁門などのことだから宮廷の門に咲く花を描くならその絵は良いだろう。良いが故に古来多く描かれてきた。このような絵は悪くない。今では珍しくないから描かれなくなってきた。また絵にして好ましくないものではないが珍しいものではないから描かれなくなった。今、珍しく雅なる絵になるならば、これを絵としてもよいのだ。句に詠んでもよいのだ。そこで、大根を収穫しているお百姓さんの傍で馬が一頭首を下げて草を食べている。その鞍坪に子供がちょっこりと乗っかっているなんて情景があったら、これは古くからあるもので珍しくもないというの、それともくだらんというの。考えてほしい。君の国のお兄さんは、この句を読んで感動したと言っている。彼は俳諧はやらないけれど絵を描くからね。よく句の情景が思い浮かぶからなんだよ。この兄弟は水墨画の巨匠片山尚景の子供である。
大根畑の傍らに農耕馬が草を食んでいる。その農耕馬の鞍壺に小さな子供が乗っている。この農民の姿に芭蕉は詩を発見した。今まで誰も農民の働いている姿に詩を発見した人はいなかった。芭蕉が初めて農民の働く姿に詩を、美を発見した。誰もが今までごく普通にどこでも目にした光景である。その光景に詩を、美を芭蕉は発見した。
私はミレーの絵を思い出す。『晩鐘』『落穂拾い』。『晩鐘』『落穂拾い』が表現している光景は農村に生きる者にとっては珍しくもない当たり前のごく普通の光景であった。その当たり前な農民の生きる姿にミレーは絵を発見した。人間の真実を発見した。貴族の生活の優雅さや美しさにではなく畑に働く農民の姿に人間の美をミレーが発見したように芭蕉は大根畑に働く農民家族の姿に俳諧を発見した。このことを芭蕉は「軽み」と表現している。「軽み」とは、農民や町人、誰でもがごく普通にどこでも普段に見ることのできる風景の中に見つけた真実、俳諧を言う。このように私は「軽み」を理解した。