寒菊や粉糠のかかる臼の端 芭蕉 元禄六年
この句は元禄六年十一月上旬ごろ、野坡と芭蕉は芭蕉庵で両吟俳諧を巻いた発句であると今栄蔵は『芭蕉年譜大成』の中で書いている。
山本健吉はこの句を芭蕉名句の一つとして挙げている。江戸下町に生きる町人の生活が表現されているということであろう。元禄時代に生きた町人たちにとってご飯を炊くということは大変なことであった。まず米を搗くことから始めなければならなかった。臼と杵で米を搗く。こうして精米をして、それから井戸端に行き、米をとぐ。ご飯を食べるということは大変な労働を伴う営みだった。
冬、米を搗く。力の入った男の腕が杵を持ち上げ、臼に打ち下ろす。朝日の中で男の腕から湯気が立ち上る。男の声と息が聞こえてくる。杵を打ち下ろす度、粉糠が舞い上がる。江戸庶民の家ではどこでも行われていた日常生活の一部であった。その江戸庶民の生活の一断面を切り取り、人間の生きる姿を芭蕉は表現している。
寒菊と米搗きとを取り合わせることによって生命力の漲る庭先の風景を芭蕉は表現した。米を搗く。この生命力に芭蕉は美を、俳諧を発見した。