有明も三十日にちかし餅の音 芭蕉 元禄六年
この句には「月代や晦日に近き餅の音」という異型の句が知られている。この句が発案の句か。路通が著した『芭蕉翁行状記』には「今は夢、師去年の歳暮に、ことしかぎり成べき教なるべし」とある。また、土芳の『三冊子』に「此句は兼好、有とだに人にしられて身のほどやみそかにちかき明ぼのの月、とある本歌を余情にしての作なるべし」とある。
兼好法師の「ありとだに人に知られぬ身のほどやみそかに近き有明の月」を本歌して芭蕉が換骨奪胎した句が「有明も」の句のようだ。
有明の月が細くなってきたなぁー、いよいよ三十日に近くなったわけだ。餅つきの音が聞こえてくるようになった。ひとり者の芭蕉にとって餅つきは他人の家のこと、自分には関係がない。故郷の家族を芭蕉は思っていたのだろう。
江戸に出てほぼ十年、三十八歳になった芭蕉は小名木川のたもとの芭蕉庵に一人住まっていたころ、餅つきの音を詠んだ句がある。「暮れ暮れて餅を木魂の侘寝哉」である。侘びて住む芭蕉には、浮世の人々がする正月を迎える餅つきに縁は無い。餅搗きの音がひとり者をわびしくさせる。
餅搗きをしない、いやできない家があった。餅搗きをする家は恵まれた家であった。餅搗きをしない者は独り者だけではなかった。大半が餅搗きなどできない家であった。餅搗きの音は憧れでもあった。