差別について
天皇のばばを競って探した農民がいた。明治天皇は奈良県において実施された陸軍大演習を閲兵した際、下痢していたため、現地で用を足した。その噂が広がり奈良の農民たちが天皇のウンコを競って探した農民たちがいた。
小説『橋のない川・第一巻』の初めに出てくる話である。天皇崇拝が農民たちに起こした悲喜劇の一つである。天皇崇拝は呪物崇拝、フェテシズムであることを作家、住井すえは表現している。天皇崇拝があるから被差別に対する差別があることを表現している。明治維新後の被差別の存在は天皇制にあることを住井すえは見抜いていた。
明治維新前の江戸時代にあっては、差別が当たり前の身分制社会であった。人間には身分という差別があって当たり前の社会であった。なぜ、人類は身分という差別を人間社会に作り上げたのか。
平塚らいてうは、雑誌『青鞜』の出発にあたって、創刊号に次のような文章を書いた。
「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。/今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である。/さてここに『青鞜』は初声を上げた。/現代の日本の女性の頭脳と手によって始めて出来た『青鞜』は初声を上げた。/女性のなすことは、今はただ嘲りの笑を招くばかりである。/私はよく知っている、嘲りの笑の下に隠れたる或ものを。」
男女差別の歴史は古い。平塚らいてうは「原始女性は太陽であった」と書き、原始時代にあっては男女を差別することはなかったという歴史認識だったようだが、事実は違っている。狩猟採集の時代に男女差別の起源はあるというのが現在の歴史認識のようだ。なぜなら男が狩猟採集社会にあっても大きな力、役割を持っていたからだというのが大きな理由のようだ。人間の生存を支える大きな役割、力が差別を生んだ。
男と女、単なる身体の違いに過ぎないものが差別になっていく。区別が差別に転化していく。区別がなぜ差別に変わっていくのか。例えば、白人と黒人、黄色人、単に皮膚の色が違うという区別に過ぎないものが差別になっていく。単なる人種の違いに過ぎないものが差別になっていく。同じ白人であってもドイツ人とユダヤ人との間には大きな隔たり、差別が生み出された歴史がある。イギリス人やドイツ人、フランス人とイタリア人、スペイン人との間には大きな言語の違いがある。民族の違いがある。この違いが差別になる。中国人、モンゴル人、朝鮮人、日本人は、みな同じ黄色人種であるが民族が違う。言語が違う。この違いが差別になっていく。区別が差別に転化していく。
区別が差別に転化していくには、それなりの理由がある。人間の生存に必要なものを獲得するうえで大きな役割をするものが敬われる。この当然なことが身分として定着すると単なる区別に過ぎなかったものが差別になっていく。父親が有能な政治家であったからその子供が政治家として尊敬を受けるようになるとこれは差別の始まりだ。誤解される恐れがあるが、書いてみる。現在本当に有能な政治家は少ないという。なぜなら現在日本で政治家になるには、今までのキャリアをすべて捨てなければ政治家になることはできない。だから二世議員が増えていくという話を政治学者が話していた。有能な政治家の子供が有能な政治家になる素質を持っているとは限らない。北朝鮮の最高指導者の存在は封建社会の専制制度のようだ。差別制度そのものだ。
単なる区別に過ぎなかったものに意味を与えると区別は差別に転化していく。例えば、血筋に意味を付与すると単なる人の違いが差別になる。あの人は血筋が良いとか、悪いとか、血筋に意味を与えると区別は差別になっていく。姓という血筋によって奈良時代の支配層の人々は差別されていた。もちろん、被支配層の人々は対等な人間として扱われることはなかった。
現代社会にあっても絶えず単なる区別に過ぎないものが差別に転化していくことがある。しかし、それが差別として制度化されることはない。ここに前近代社会と現代社会の違いがある。現代社会にあっても職業の違いが差別であるような対応の違いがある。例えば医者とか、学者とか、弁護士とか人から敬われる職業人がいる一方、人から軽く見られるような職業の人がいる。職業には貴賤があるからこそ職業に貴賤はないといわれているのだろう。ただ今は父の職を息子が継いでも父と同じような扱いをうけるとは限らないのが現代であろう。丸山眞男が言うように現代は「・・である社会」から「・・する社会」に代わっているから。