醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1490号   白井一道

2020-08-15 13:15:17 | 随筆・小説



 プロサバンナ事業とは、現代の「囲い込み」か



侘助 ノミちゃん、プロサバンナ事業とは、どのような事業なのか、聞いたことがあるかな。
呑助 日本のОDA、海外援助事業のようなことをニュースで聞いたことがあるような気がしますよ。
侘助 発展途上地域の開発を主たる目的とする政府及び政府関係機関による国際協力活動のことをODA(Official Development Assistance(政府開発援助))と言っているようだ。発展途上国の地域開発の一つとしてプロサバンナ事業がある。
呑助 プロサバンナ事業とはどこの国の発展に寄与する事業なのですか。
侘助 アフリカ、モザンビークへの地域開発援助の一つがプロサバンナ事業のようだ。
呑助 プロサバンナ事業とはどのような援助事業なのですかね。
侘助 モザンビークという国がアフリカのどのあたりにあるのか分かるかな。
呑助 アフリカを東西南北に分けると東側のやや南側の辺りじゃなかったかと思いますね。
侘助 モザンビークの哀しみの歴史の始まりはポルトガル王室の援助を得てインド航路をヨーロッパ諸国に紹介したバスコ・ダ・ガマがモザンビークにやって来たことにある。
呑助 インド航路の発見はモザンビークの原住民にとっては苦しみの始まりであったということですか。
侘助 1498年,ポルトガル人ヴァスコ・ダ・ガマはアフリカの先には間違いなく我々を助けてくれる幻のキリスト教国プレスター・ジョンがあるに違いないと思い込み、喜望峰を回りインド西岸のカリカットに到達した。このことがインド航路の発見と言われていることだ。当時、オスマン帝国の勢力拡大により,ヨーロッパへの香辛料供給が脅かされることへの不安がヨーロッパ各国をアジアとの直接貿易に駆り立てた。その第一陣を買って出たのがポルトガル人のバスコ・タ・ガマである。彼はエンリケ航海王子の奨励によってアフリカ西岸を探検し,喜望峰を回り,アラビア人水夫の水先案内人の力を得てインドのカリカットに到達した。
呑助 ガマは途中、モザンビークに立ち寄り飲み水を得ようとしたのではないですかね。
侘助 その通りのようだ。初めは話し合って水と食料をモザンビークで得ようとしたが、現地の人々がアラビア語を話しているのを知り、イスラム教徒であることに気付き、暴力的に食料と水を奪い、インドへ向かった。後にポルトガル人がモザンビークにやって来て、ポルトガルの植民地になった。その後の苦難の歴史を経て、1962年に結成されたモザンビーク解放戦線(FRELIMO)は十数年にわたる独立戦争を勝ち抜き、1975年モザンビーク人民共和国を成立させた。その後、幾多の困難があったが社会主義国として現在に至っている。
呑助 アフリカの社会主義国モザンビークは日本からの政府開発援助を得て、どのようなことをしようとしたのですかね。
侘助 プロサバンナ事業の正式名称は、「日本・ブラジル・モザンビーク三角協力による熱帯サバンナ農業開発プログラム」という。日本とブラジルが連携して、モザンビーク北部3州の1100万haもの土地(日本の全耕作面積の2倍)を耕地にする事業だ。主に輸出用大豆の栽培を目的としている。
呑助 この事業は日本とブラジルの大企業が投資し、輸出用作物を現地住民に栽培させ、商社が買い上げ、日本やブラジルで売り捌こうというわけですね。
侘助 そうなんだ。16世紀イギリス、トマス・モアが「羊が人間を食う」といったことを日本政府はアフリカ・モザンビークでやろうとしていた。
呑助 モザンビークの農民たちの土地を囲い込み、大農地を作ろうということなんですね。
侘助 一切、現地の農民たちに説明することなく、一方的に土地を囲い込もうとしている。モザンビークは社会主義国だから、個々の農民が土地を所有しているわけではないとモザンビーク政府役人は発言している。