醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1493号   白井一道

2020-08-18 14:42:47 | 随筆・小説



   戦争責任について



侘助 何年か前の事だった。将棋の終局の場面から羽生名人とアマチュア将棋の有段者が対戦するテレビ番組があった。アマチュア将棋有段者は悉く勝負の付いた盤面から将棋をしても羽生名人に勝つことができなかった。
呑助 分かりますね。確かに負けましたと頭を下げた盤面からどうしたら勝つことができるのか、素人には分からない状態でプロの棋士たちは自分の負を認めていますからね。
侘助 自分の負を認めるにはそれなりの棋力が必要だと言う事のように思う。
呑助 素人の将棋は最後の最後まで戦い、打ち負かされて王様の上に金が打ち付けられて、「畜生」なんて言って持ち駒を将棋盤の上に投げ捨てたりしますね。悔しさに耐えられない。そんな気持ちですかね。
侘助 それと同じようなことが日本の敗戦にもあったように思っている。日本が第二次世界大戦に敗戦したのはいつの事であったのか、覚えているかな。
呑助 学校で教わった記憶がありますよ。1945年8月15日のことだと記憶していますよ。
侘助 連合軍はポツダム宣言を1945年7月26日にアメリカ大統領、イギリス首相、中華民国主席の名で日本に対して降伏を要求した。
  このポツダム宣言を日本が止むを得ず受け入れたのがいつだったのかと言うとそれはいつだったのかな。
呑助 それは明確に覚えていますよ。1945年8月15日、天皇陛下の玉音放送があり、日本は連合国に無条件でポツダム宣言を受け入れたわけですよね。
侘助 ポツダム宣言が出された1945年7月26日から8月15日までのおよそ二十日間にどのようなことがあったか、覚えているかな。
呑助 最大の出来事は広島に8月6日、長崎に8月9日、原子爆弾が投下されたということですか。その余りの惨状に日本は参ってしまったのだと思いますね。
侘助 ポツダム宣言が日本に伝わったのは時差の関係もあり、翌日の27日だった。外務大臣東郷茂徳はまだ交渉の余地はあると考えていた。陸海軍の反発は厳しいものであった。国民に伝わった時は断固抵抗する旨発表するべきだと主張した。
呑助 まだ交渉の余地はあるというのはどういうことですか。
侘助 日本政府はソ連を仲介者として連合国との和平工作を行っており、ポツダム会談直前の7月13日には昭和天皇の特使として元内閣総理大臣の近衛文麿をモスクワに派遣して和平の仲介をソ連の首脳に依頼することを決定し、その日のうちに佐藤大使からモロトフ外務大臣の留守を預かるソロモン・ロゾフスキー外務人民委員代理に伝達した。従って、日本としてはソ連側から特使受入れの可否の回答が来るのを待っている状態であり、東郷茂徳外務大臣はポツダム宣言が出された時にこれを受諾すべきとしつつも、ソ連が宣言に加わっていない以上、特使派遣に関する回答を待つべきと考えていたが実際はポツダム会談の中でソ連のスターリン首相とアメリカのトルーマン大統領らの間で特使問題も協議され、アメリカ側は日本側の話を聞く意味はないとソ連側に伝えていた。日本政府がソ連の対日宣戦を知ったのは8月9日午前4時(日本時間)である。
呑助 日本はソ連を通じて連合国との和平を工作していたということですか。
侘助 日ソ中立条約を日本はソ連と結んでいたからね。
呑助 頼りにしていたソ連から対日参戦を言い渡された時のショックはいかほどのものだったでしょうね。
侘助 腰を抜かすような出来事だった。有能な政治家だったら、ポツダム宣言が出された時に受け入れることができれば、ソ連の参戦を防ぐことができた。負けを受け入れることができなかった。少しでも有利に停戦できないものかと、負けの受け入れが潔くなかった。原子爆弾を落とされ、ソ連から対日宣戦布告を受け、万策尽き、無条件降伏という最悪の結果を招いてしまった。