この本が再文庫化されたということを新聞で知った後、しばらくしてから買い求めていたのだが、ついつい読み始めるのが遅くなった。
本書は3つの大津波について記録している。明治29年の津波、昭和8年の津波、そしてチリ地震津波である。三陸沿岸を愛する著者が、或る婦人の体験談に触発されて、津波の資料を集め、体験者の話をきいてまわった内容を記録している。史実として記録されたデータを基礎にして、現地を歩き、著者が聴き取りした体験談、また子供たちの津波体験作文の紹介を織り交ぜている。当時の時代背景や体験談を語った人々の背景などをリアルに描きながら、記録に徹しつつ、その中で津波のすさまじさを描きだした。
津波襲来による災害の状況が当時の社会情勢と併せて記録され、様々な体験談が著者の描写を通して動き出す。その全体性の中で想像力を働かせていくと、津波襲来の仮想的世界が読み手のなかに築かれ、そのプロセスを追体験し大津波のすさまじさを感じることになる。
ある事実の局面をポンと目の前に提示される写真・動画が訴えてくるものとは異なった全体性の次元において訴えてくるものが本書に存在する。ここに記録文学の存在価値と役割があることに思いを馳せた。
この記録文学を読みながら、3.11の東日本大震災のことを重ね合わせてみて、思ったことを列挙してみる。
*著者は昭和8年の津波の高さについて、伊木常識博士と宮城県土木課の手で算出され発表された数字から、宮城県と岩手県の各地の主だったデータを拾っている。これらの津波の高さというものが、3.11の津波対策、シミュレーション作成・検討において考慮されていたのだろうかという点である。一方、3.11の事後の検証としても、改めて比較分析することが、今後のために必要だろうとも思う。
*明治29年と昭和8年の大津波の前に、幾つかの前兆のような現象が共通して発生していたことを、体験談や資料から著者は引き出している。大津波の襲来する数ヶ月前あたりから、三陸海岸一帯で大豊漁となっていたこと。沿岸一帯の漁村で井戸水に異変が起こっていたこと。井戸の水に混濁が発生し、井戸水が著しく減少したということ。各所で普段とは異なる大干潮がみられたこと。津波の襲来する直前には、沖合でドーンという鳴動があったり、怪火、閃光などの現象が観測されていたという。こういう諸現象の原因の解明はなされていないということだが、今回の3.11において、同様の前兆的現象が発生していたのだろうか。マスメディアの報道ではその種の話を見聞しなかったが・・・・自然現象が繰り返される中で、科学的に解明がされていないとしても、今回も同種の現象が存在したのかどうか、気になるところだ。
*明治29年の津波の章には、『風俗画報 大海嘯被害録』の上巻から二葉、下巻から四葉の挿画が引用されている。「唐桑村にて死人さかさまに田中に立つ図」「広田村の海中網をおろして五十余人の死体を揚げるの図」「釜石町海嘯被害後の図」「溺死者追弔法会の図」など。3.11の津波については、ビデオ撮影や写真による津波襲来の映像が様々に報道され、動画としても数多くアップロードされている。即物的に津波の状況を知ることができ、その恐ろしさを感じとった次第だ。しかし、津波とその渦中にある人々を描いた挿画をじっと見つめていると、そこに想像力が加わり、違った意味でのリアリティを深く感じる。ストレートな写真・動画が撮られてもマスメディアで公開できない、あるいはしない方が望ましいという場面があるだろう。挿画ではそれを描き出し読者の感性に訴えることができるという側面があることにあらためて気づいた。
*チリ地震津波は、明治・昭和の両津波とは異質である。太平洋を挟んだ遠いかなたで発生した地震が、三陸沿岸に被害をもたらした事実の記録だ。この時は津波にありがちな前兆の諸現象がみられなかったという。昭和35年5月時点の話である。「気象庁では、チリ地震による津波が日本の太平洋沿岸に来襲するとは考えず、津波警報も発令しなかった。」(p158)と事実が記されている。
だが、チリ津波来襲の5年前、昭和30年、科学雑誌『自然』に、当時の東京水産大学の三好寿氏が、チリ津波が日本の太平洋沿岸に押し寄せる可能性が高い点について意見を発表していたという。だが、それは、事前警告という形で採り入れられなかった。この箇所を読み、『科学』誌に石橋克彦氏が「原発震災-破滅を避けるために」という論文を1977年10月に寄稿され、意見を述べておられた。だが、3.11により原発事故が発生した。同じパターンが繰り返されていることに気づく。
また、海のかなたの地震が及ぼす日本沿岸への影響をニュースで耳にするようになったのは、このときの悲惨な結果が契機になったのかと思った次第である。
著者の文章そのものを引用しておきたい箇所がいくつかある。
*「もともと三陸沿岸各地への物資輸送は海上からおこなうのが最も適していたのだが、津波とその余波で舟のほとんどが流失又は破壊されていて、意のままにならなかった」(p148)
昭和8年当時と比べ、現在は陸上輸送網がはるかに発展していたはずだ。しかしその道路網が3.11では寸断された。地震・津波発生の想定対策において、海上輸送と陸上輸送のリスク/可能性はどのようにシミュレーションされ検討されていたのだろうか。災害対策リスクの想定がどうだったのか気になる。
*「被災地は一種の無法地帯と化していて、住民の不安はたかまっていた。全・半壊した家に忍びこんで家財をかすめとるなど、意識的に盗みをはたらく者も多かった。そのような盗難や漂流物などの横領が各地でみられ、また物資不足に乗じて暴利をむさぼる商人の横行も目立った。」(p148)
3.11の当初の新聞報道は、この著者の昭和8年時点の記録からすれば、盗難という観点で報道の実態は本当だろうかという思いがあった。また、フクシマの警戒区域の状況についてなぜかあまり報じられなかったように思う。しかし、2011.10.16付の朝日新聞が「原発20キロ圏 空き巣30倍 住民『賠償を』東電『泥棒の責任』」という見出しの記事を報じた。昭和8年の記述と比較できるだけのそれぞれのデータはない。新聞記事は「50軒に1軒が被害にあった計算だ」という。やはりそうかという思いと併せて悲しい思いが湧いてくる。
*「この高所への住居移転の実施は困難な問題をかかえていた。災害を受けた住民も津波を避けるためになるべく高い場所に居住するのが最善の方法だということは十分知っていて、事実明治29年の大津波後には、高所への住宅の移転が目立ち、昭和8年の大津波後にはこの傾向はさらに増して、町はずれの高台にあった墓所がいつの間にか住宅地になった所さえあった。しかし、この高所移転も年月がたち津波の記憶がうすれるにつれて、逆もどりする傾向があった。漁業者にとって、家が高所にあることは日常生活の上で不便が大きい。そうした理由で初めから高所移転に応じない者も多かった。」(p150)
3.11以降、復興問題のテーマとして同じ問題が論じられている。生活の場と仕事の場。日常生活の営為という課題の難しさが既にここに記録されている。理念と現実。歴史は再び同じ問題を投げかけていると感じる。
*「しかし、自然は、人間の想像をはるかに超えた姿をみせる」(p176)
この一文の直前に、昭和43年5月の十勝沖地震による津波襲来の際の、田老町の防潮堤の働きと津波警報対策を描いている。比較的災害が少なかった事例だ。だが、この一文の後に、田老町の防潮堤の高さを明記した上で、田野畑村羅賀の高所に海水が50メートル近くもはい上がってきた事実を記す。その一方で、著者は明治29年の大津波以来の経験を経てきた田野畑村の古老の言も併記する。「津波は、時世が変わってもなくならない、必ず今後も襲ってくる。しかし、今の人たちは色々な方法で十分警戒しているから、死ぬ人はめったにいないと思う」という述懐である。
だが、この古老の希望は3.11で潰えてしまった。やはり「自然は、人間の想像をはるかに超えた姿をみせ」たのだ。
2011.10.13付の朝日新聞は、「津波高さ 防波堤で差なし」という見出しの記事を載せていた。岩手県釜石市を例にした試算を海洋研究開発機構などの研究チームがまとめ、「巨大地震による津波は、海上の防波堤があっても波高に大差はない」という。記事によると、「釜石湾口防波堤は、総工費約1200億円かけ2009年に完成。北堤(長さ990m)と南堤(同670m)があり、・・・・津波で北堤の8割程度、南堤は半分が損壊した」と記す。「一方、港湾空港技術研究所は、釜石港検潮所に到達した波高が防波堤により、防波堤がなかった場合の13.7mから8.0mに低減したと試算している」という。津波についてはまだまだ現在の科学では計り知れないところがある証拠だ。
最後に、一つ腑に落ちない箇所がある。
著者は、明治29年の大津波について、岩手県・宮城県・青森県の被害データを28ページに一部記録している。本書の参考文献は巻末に掲載されている。
宮城県 死者3,452名、流失家屋3,121戸
青森県 死者343名
岩手県 死者22,565名、負傷者6,779名、流失家屋6,156戸
一方、参考資料をネット検索していて、後のリストに加えた資料に該当データが載っていた。「岩手県地震・津波シミュレーション及び被害想定調査に関する報告書(概要版)」だ。このⅡ-3ページに、「表2.1-1 明治三陸地震津波の被害(渡辺、1998)」という一覧表が載っている。こちらも章末に文献リストが載っている。
本書の著者が記録している宮城県と青森県のデータは、両者で一致している。しかし岩手県のデータにかなりの違いがあったのだ。
死者 本書22,565名 概要版18,158名
負傷者 本書 6,779名 概要版 2,943名
流失家屋 本書 6,156戸 概要版 4,801戸
明治29年のデータだ。本書が出版されたのは1970年7月だった。概要版のデータの出典とされているのが1998年の出版である。なぜ、データがこれほど違うのだろうか。この種の統計データもそのソースがいくつかあるということなのだろうか。それぞれのデータのソースにアクセスできないので、疑問の提示にとどめておく。
著者は「三 チリ地震津波」中の「津波との戦い」の冒頭にこう記す。
「津波は、自然現象である。ということは、今後も果てしなく反復されることを意味している。・・・・三陸沿岸は、リアス式海岸という津波を受けるのに最も適した地形をしていて、本質的に津波の最大被災地としての条件を十分すぎるほど備えているといっていい。津波は、今後も三陸沿岸を襲い、その都度災害をあたえるにちがいない。」
3.11に、想像を絶する地震と津波がやはり襲来した。
「温故知新」という言葉がある。本書という記録文学から、自然と人間の営為の関わりについて、学べるもしくは学び直すべきことが多いような気がする。
本書を一読いただきたい。
3.11の被害がなぜこれほどに激甚なものになってしまったのか・・・・・
ご一読、ありがとうございます。
本書を読みながら、参考情報を得るためにネット検索をしてみました。
2011.3.11 まだTVでは放送されてない大津波動画
東日本大震災 岩手県田野畑村の津波被害 羅賀周辺
田老町津波防災資料集 :国会図書館の収集による過去のページ「ようこそ田老町へ」から
ここに、資料の一つとして、”語り継ぐ体験・・・紙芝居「つなみ」(昭和8年の津波体験者が作成)”というのが掲載されています。
田老町の津波画像
本書は3つの大津波について記録している。明治29年の津波、昭和8年の津波、そしてチリ地震津波である。三陸沿岸を愛する著者が、或る婦人の体験談に触発されて、津波の資料を集め、体験者の話をきいてまわった内容を記録している。史実として記録されたデータを基礎にして、現地を歩き、著者が聴き取りした体験談、また子供たちの津波体験作文の紹介を織り交ぜている。当時の時代背景や体験談を語った人々の背景などをリアルに描きながら、記録に徹しつつ、その中で津波のすさまじさを描きだした。
津波襲来による災害の状況が当時の社会情勢と併せて記録され、様々な体験談が著者の描写を通して動き出す。その全体性の中で想像力を働かせていくと、津波襲来の仮想的世界が読み手のなかに築かれ、そのプロセスを追体験し大津波のすさまじさを感じることになる。
ある事実の局面をポンと目の前に提示される写真・動画が訴えてくるものとは異なった全体性の次元において訴えてくるものが本書に存在する。ここに記録文学の存在価値と役割があることに思いを馳せた。
この記録文学を読みながら、3.11の東日本大震災のことを重ね合わせてみて、思ったことを列挙してみる。
*著者は昭和8年の津波の高さについて、伊木常識博士と宮城県土木課の手で算出され発表された数字から、宮城県と岩手県の各地の主だったデータを拾っている。これらの津波の高さというものが、3.11の津波対策、シミュレーション作成・検討において考慮されていたのだろうかという点である。一方、3.11の事後の検証としても、改めて比較分析することが、今後のために必要だろうとも思う。
*明治29年と昭和8年の大津波の前に、幾つかの前兆のような現象が共通して発生していたことを、体験談や資料から著者は引き出している。大津波の襲来する数ヶ月前あたりから、三陸海岸一帯で大豊漁となっていたこと。沿岸一帯の漁村で井戸水に異変が起こっていたこと。井戸の水に混濁が発生し、井戸水が著しく減少したということ。各所で普段とは異なる大干潮がみられたこと。津波の襲来する直前には、沖合でドーンという鳴動があったり、怪火、閃光などの現象が観測されていたという。こういう諸現象の原因の解明はなされていないということだが、今回の3.11において、同様の前兆的現象が発生していたのだろうか。マスメディアの報道ではその種の話を見聞しなかったが・・・・自然現象が繰り返される中で、科学的に解明がされていないとしても、今回も同種の現象が存在したのかどうか、気になるところだ。
*明治29年の津波の章には、『風俗画報 大海嘯被害録』の上巻から二葉、下巻から四葉の挿画が引用されている。「唐桑村にて死人さかさまに田中に立つ図」「広田村の海中網をおろして五十余人の死体を揚げるの図」「釜石町海嘯被害後の図」「溺死者追弔法会の図」など。3.11の津波については、ビデオ撮影や写真による津波襲来の映像が様々に報道され、動画としても数多くアップロードされている。即物的に津波の状況を知ることができ、その恐ろしさを感じとった次第だ。しかし、津波とその渦中にある人々を描いた挿画をじっと見つめていると、そこに想像力が加わり、違った意味でのリアリティを深く感じる。ストレートな写真・動画が撮られてもマスメディアで公開できない、あるいはしない方が望ましいという場面があるだろう。挿画ではそれを描き出し読者の感性に訴えることができるという側面があることにあらためて気づいた。
*チリ地震津波は、明治・昭和の両津波とは異質である。太平洋を挟んだ遠いかなたで発生した地震が、三陸沿岸に被害をもたらした事実の記録だ。この時は津波にありがちな前兆の諸現象がみられなかったという。昭和35年5月時点の話である。「気象庁では、チリ地震による津波が日本の太平洋沿岸に来襲するとは考えず、津波警報も発令しなかった。」(p158)と事実が記されている。
だが、チリ津波来襲の5年前、昭和30年、科学雑誌『自然』に、当時の東京水産大学の三好寿氏が、チリ津波が日本の太平洋沿岸に押し寄せる可能性が高い点について意見を発表していたという。だが、それは、事前警告という形で採り入れられなかった。この箇所を読み、『科学』誌に石橋克彦氏が「原発震災-破滅を避けるために」という論文を1977年10月に寄稿され、意見を述べておられた。だが、3.11により原発事故が発生した。同じパターンが繰り返されていることに気づく。
また、海のかなたの地震が及ぼす日本沿岸への影響をニュースで耳にするようになったのは、このときの悲惨な結果が契機になったのかと思った次第である。
著者の文章そのものを引用しておきたい箇所がいくつかある。
*「もともと三陸沿岸各地への物資輸送は海上からおこなうのが最も適していたのだが、津波とその余波で舟のほとんどが流失又は破壊されていて、意のままにならなかった」(p148)
昭和8年当時と比べ、現在は陸上輸送網がはるかに発展していたはずだ。しかしその道路網が3.11では寸断された。地震・津波発生の想定対策において、海上輸送と陸上輸送のリスク/可能性はどのようにシミュレーションされ検討されていたのだろうか。災害対策リスクの想定がどうだったのか気になる。
*「被災地は一種の無法地帯と化していて、住民の不安はたかまっていた。全・半壊した家に忍びこんで家財をかすめとるなど、意識的に盗みをはたらく者も多かった。そのような盗難や漂流物などの横領が各地でみられ、また物資不足に乗じて暴利をむさぼる商人の横行も目立った。」(p148)
3.11の当初の新聞報道は、この著者の昭和8年時点の記録からすれば、盗難という観点で報道の実態は本当だろうかという思いがあった。また、フクシマの警戒区域の状況についてなぜかあまり報じられなかったように思う。しかし、2011.10.16付の朝日新聞が「原発20キロ圏 空き巣30倍 住民『賠償を』東電『泥棒の責任』」という見出しの記事を報じた。昭和8年の記述と比較できるだけのそれぞれのデータはない。新聞記事は「50軒に1軒が被害にあった計算だ」という。やはりそうかという思いと併せて悲しい思いが湧いてくる。
*「この高所への住居移転の実施は困難な問題をかかえていた。災害を受けた住民も津波を避けるためになるべく高い場所に居住するのが最善の方法だということは十分知っていて、事実明治29年の大津波後には、高所への住宅の移転が目立ち、昭和8年の大津波後にはこの傾向はさらに増して、町はずれの高台にあった墓所がいつの間にか住宅地になった所さえあった。しかし、この高所移転も年月がたち津波の記憶がうすれるにつれて、逆もどりする傾向があった。漁業者にとって、家が高所にあることは日常生活の上で不便が大きい。そうした理由で初めから高所移転に応じない者も多かった。」(p150)
3.11以降、復興問題のテーマとして同じ問題が論じられている。生活の場と仕事の場。日常生活の営為という課題の難しさが既にここに記録されている。理念と現実。歴史は再び同じ問題を投げかけていると感じる。
*「しかし、自然は、人間の想像をはるかに超えた姿をみせる」(p176)
この一文の直前に、昭和43年5月の十勝沖地震による津波襲来の際の、田老町の防潮堤の働きと津波警報対策を描いている。比較的災害が少なかった事例だ。だが、この一文の後に、田老町の防潮堤の高さを明記した上で、田野畑村羅賀の高所に海水が50メートル近くもはい上がってきた事実を記す。その一方で、著者は明治29年の大津波以来の経験を経てきた田野畑村の古老の言も併記する。「津波は、時世が変わってもなくならない、必ず今後も襲ってくる。しかし、今の人たちは色々な方法で十分警戒しているから、死ぬ人はめったにいないと思う」という述懐である。
だが、この古老の希望は3.11で潰えてしまった。やはり「自然は、人間の想像をはるかに超えた姿をみせ」たのだ。
2011.10.13付の朝日新聞は、「津波高さ 防波堤で差なし」という見出しの記事を載せていた。岩手県釜石市を例にした試算を海洋研究開発機構などの研究チームがまとめ、「巨大地震による津波は、海上の防波堤があっても波高に大差はない」という。記事によると、「釜石湾口防波堤は、総工費約1200億円かけ2009年に完成。北堤(長さ990m)と南堤(同670m)があり、・・・・津波で北堤の8割程度、南堤は半分が損壊した」と記す。「一方、港湾空港技術研究所は、釜石港検潮所に到達した波高が防波堤により、防波堤がなかった場合の13.7mから8.0mに低減したと試算している」という。津波についてはまだまだ現在の科学では計り知れないところがある証拠だ。
最後に、一つ腑に落ちない箇所がある。
著者は、明治29年の大津波について、岩手県・宮城県・青森県の被害データを28ページに一部記録している。本書の参考文献は巻末に掲載されている。
宮城県 死者3,452名、流失家屋3,121戸
青森県 死者343名
岩手県 死者22,565名、負傷者6,779名、流失家屋6,156戸
一方、参考資料をネット検索していて、後のリストに加えた資料に該当データが載っていた。「岩手県地震・津波シミュレーション及び被害想定調査に関する報告書(概要版)」だ。このⅡ-3ページに、「表2.1-1 明治三陸地震津波の被害(渡辺、1998)」という一覧表が載っている。こちらも章末に文献リストが載っている。
本書の著者が記録している宮城県と青森県のデータは、両者で一致している。しかし岩手県のデータにかなりの違いがあったのだ。
死者 本書22,565名 概要版18,158名
負傷者 本書 6,779名 概要版 2,943名
流失家屋 本書 6,156戸 概要版 4,801戸
明治29年のデータだ。本書が出版されたのは1970年7月だった。概要版のデータの出典とされているのが1998年の出版である。なぜ、データがこれほど違うのだろうか。この種の統計データもそのソースがいくつかあるということなのだろうか。それぞれのデータのソースにアクセスできないので、疑問の提示にとどめておく。
著者は「三 チリ地震津波」中の「津波との戦い」の冒頭にこう記す。
「津波は、自然現象である。ということは、今後も果てしなく反復されることを意味している。・・・・三陸沿岸は、リアス式海岸という津波を受けるのに最も適した地形をしていて、本質的に津波の最大被災地としての条件を十分すぎるほど備えているといっていい。津波は、今後も三陸沿岸を襲い、その都度災害をあたえるにちがいない。」
3.11に、想像を絶する地震と津波がやはり襲来した。
「温故知新」という言葉がある。本書という記録文学から、自然と人間の営為の関わりについて、学べるもしくは学び直すべきことが多いような気がする。
本書を一読いただきたい。
3.11の被害がなぜこれほどに激甚なものになってしまったのか・・・・・
ご一読、ありがとうございます。
本書を読みながら、参考情報を得るためにネット検索をしてみました。
2011.3.11 まだTVでは放送されてない大津波動画
東日本大震災 岩手県田野畑村の津波被害 羅賀周辺
田老町津波防災資料集 :国会図書館の収集による過去のページ「ようこそ田老町へ」から
ここに、資料の一つとして、”語り継ぐ体験・・・紙芝居「つなみ」(昭和8年の津波体験者が作成)”というのが掲載されています。
田老町の津波画像