遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『震える牛』 相場英雄 小学館

2013-11-24 11:54:01 | レビュー
 本書は2012年2月に、雑誌連載に加筆改稿して単行本として出版された。そのタイトルが示すとおり、かつてしばらくの間世界を戦慄させたBSE感染牛というテーマが根底にある。だがそれに併せて周辺の要因が複合され様々な事象が組み立てられている。今、世間で料理メニューの誤表記、利益確保のための虚偽表示が大きく脚光を浴びている。本書は一言でいえば牛肉の「偽装」をテーマに絡めた警察・刑事小説である。殺人事件それも継続捜査となった案件を捜査する刑事の物語である。ストーリーの展開に引き込まれていくことは保証する。その構成はかなり周到であるように感じる。

 本書にはいくつかの視点があるように思う。3つに絞ってみる。
1つは、継続捜査となった殺人事件を一から再捜査し、事件を解決に導く刑事の活躍ストーリーという視点。これは、初動捜査における管理官の筋の読み違えでおろそかにされた鑑取り、地取り捜査の弱点に気づき、一から捜査をやり直すメモ魔の田川刑事と相棒の池本刑事の捜査展開ストーリーである。この視点は、警察機構の持つ問題点は何かという視点に繋がる局面を持っている。
2つめは、食肉を使った加工食品の問題点という視点である。食肉の加工が一線を越えて、虚偽表示まで突っ走った事象が本書では取り上げられ、食品の「虚偽表示」という視点を持ち込んでいる。それは、裏を返せば「消費者の知る権利」という視点になる。
3つめは、SC(ショッピングセンター)の展開がもたらした社会経済構造に対する変化と影響という視点だろう。そして巨大SCが成長の陰りの中で、利益追求主義に囚われたらどうなるかという視点に繋がっていく。これは現在のホットな料理メニューの誤表示、偽装に直結していく組織体質的局面を持つ。

 そこで、著者がこの警察・刑事小説を通して描きたかったテーマは、殺された二人の中の一人、赤間が愛読書からフレーズを引用したという形で書き込まれたそのフレーズにあると思う。これらのフレーズが、本書のストーリーでどのように描き込まれているかを分析的に楽しんでもらいたい。そのフレーズは、プロローグとエピローグの中に書き込まれた次の文章である。

*幾度となく、経済的な事由が、国民の健康上の事由に優先された。秘密主義が、情報公開の必要性に優先された。そして政府の役人は、道徳上や倫理上の意味合いではなく。財政上の、あるいは官僚的、政治的な意味合いを最重視して行動したようだ。 p5
*そもそも消費者とは、われわれ全員のことだ。この国最大の経済的集団であり、どんな経済決定にもことごとく影響を受ける。消費者は重要視すべき唯一の集団である。しかし、その意見はないがしろにされがちだ。政府はいかなるときも、消費者の①知らされる権利 ②選ぶ権利 ③意見を聞いてもらう権利 ④安全を求める権利を擁護しなくてはならない。 p6
*直面している大きな課題は、市場の道徳観念の欠如と効率性とのあいだで、しかるべき落としどころを探ることだ。自由を謳う経済システムは、しばしばその自由を否定する手段となってしまう。20世紀の特徴が全体主義体制との闘いであったとすれば、21世紀の特徴は行き過ぎた企業権力をそぐための闘いになるだろう。極限まで推し進められた自由主義は、おそろしく偏狭で、近視眼的で、破壊的だ。より人間的な思想に、取って代わられる必要がある。 p5、p346

 この「行き過ぎた企業権力をそぐための闘い」を個人で試みた赤間が殺されてしまったのだ。被害者のうちの1人として。初動捜査では全国チェーンの居酒屋「倉田や」に入った強盗事件に巻き込まれた殺害で、被害者2人の間の関係は全くないと判断される。キャリアの管理官の筋の読み違えから、地道な鑑取り、地取りに手抜かりも発生して、犯人逮捕に至らなかったのだ。その事件が、ノンキャリアの宮田課長から、捜査一課継続捜査班の田川信一刑事に持ち込まれる。田川は迷宮入り濃厚な目立たない未解決案件ばかりを扱うベテランの警部補である。それを若手32歳の池本警部補が相棒としてサポートする。彼は捜査一課第三強行犯係の警部補である。

 田川は宮田課長からA4サイズのファイルが5,6冊入った包みを渡される。
 事件は『中野駅前居酒屋強盗殺人事件』。JR中野駅の北口商店街で2年前の9月16日午前2時半に発生。不良外国人が鋭利な刃物で店員を傷つけ、現金58万円を奪取した。そしてレジ近くの隣合わせの席に居合わせた客2人の首を次々に刺し、殺害して逃走したというもの。特別捜査本部が野方署に設置され、迅速な動きがあったにも関わらず、初動捜査で目撃者不十分、未解決にとどまる事件である。凶器は「鋭利な刃物、レジ係目撃情報:刃渡りが長い柳刃包丁のようなタイプ」であり、「凶器(非公表=厳重保秘)」の一文が捜査資料に記されていたのだ。
 被害者は獣医師・赤間裕也(31)と、産廃処理業者の西野守(45)である。共に繰り返し同じ箇所を刺されほぼ即死。
 
 その事件を担当した第二強行犯係担当管理官は矢島達夫であり、今は前任捜査一課長により、捜査一課の特命捜査対策室理事官に昇進しているのだ。後任の捜査一課長には、ノンキャリアの宮田がノンキャリアトップの座を得る。この事件の捜査継続を、それを担当した管理官が所属する特命捜査対策室に持ち込むわけにはいかず、宮田は一課内の摩擦回避策として、同じ課内の継続捜査班の田川に持ち込んだのだ。田川としては、最初からやりにくい立場に立たされる。

 田川は勿論、丹念な捜査資料読みから始めていく。その過程で捜査の進展のしかた、そこに潜む捜査の問題事象が徐々に見えてくる。自分の捜査メモを作りつつ、捜査資料分析をする田川の手許にどんどんと書き込みメモが累積していく。愛用の折り畳みナイフ、肥後守で鉛筆を削りながら、資料をじっくり読み、考え、メモしていく田川は、自分流に鑑取り、地取りを一からやりなおしていく結果となる。妥当な筋読みと思われた事件が、筋の読み違えではないかという疑問に到達し、そう見ると様々な捜査不足が目につき始めるという次第だ。田川が「倉田や」に出向き、再聞き込みを始めることで、初動捜査では対象にもされなかった目撃者と出会う。その情報から事件が意外な方向へと導かれていく。捜査プロセスは紆余曲折を経ながらも、断片情報がつながりを見せはじめ、捜査展開が全く違った筋読みになっていく。この進展が実に興味深く、おぞましいほどのリアル感をある局面で醸し出す。そこがおもしろいところでもある。

 本書には追跡調査という観点で、2つの流れが同時併行で進展していく。
 1つが本書の主流である刑事捜査としての追跡調査。迷宮入りになりかけた事件の捜査を田川・池本の2人の刑事が進めて行くというストーリー展開の流れ。
 もう一つが、経済記者鶴田真純がオックスマートという企業の事業の進展とその事業にまつわる陰の部分・問題点を執拗に追跡調査するプロセスの流れである。

 オックスマートは、良質な和牛を畜産家から直接買い付け、安価で売るというビジネスモデルを創った柏木友久(現在CEO兼会長)が柏木商店から国内最大手のスーパー事業に育て上げたという企業だ。次々と国内に大規模SCを展開し、不況長期化で大規模SCの凍結、都心向け低価格店舗網の構築、さらには中国への積極的事業展開を考えている。 このオックスマートの事業展開の拡大が地方経済における中小規模商店街の凋落を含め地方に様々な影響を及ぼしている。その強引な事業拡大戦略が生み出す事業の成功という光に対し、常に付き従う影の如く、光が生み出す陰の部分を暴き出し、オックスマートのやり方を批判し、警鐘を鳴らすために、追跡を続けるのが鶴田記者だ。
 その鶴田は日本実業新聞という巨大メディアで先鋭的な記事の掲載を進言するが聞き入れられず、インターネット専業メディアに移る。ここにも、巨大企業が巨大メディアに広告掲載などで形成する影響関係が描かれている。鶴田は『Biz.Today』に己の書きたいスタンスでの情報発信を行い、大型スーパー事業のオックスマーとをターゲットにしていく。なぜそこまで・・・・?その動機の底流に鶴田の経験した私怨があるのだ。それがおいおいわかってくる。
 インターネットで『Biz.Today』に掲載された鶴田のオックスマート批判記事を読んだ人物が鶴田に意味深長なEメールを送信してくることで、両者が接触し、そこからオックスマートのメイン事業である牛肉を扱う低価格商品群にまつわる陰の部分が明るみに出てくる。

 この鶴田記者の追跡調査する第2の流れは、日本経済の発展拡大過程で発生してきた問題事象が明らかにフィクションの筆を通じてえぐり出されている。オックスマートの事業拡大と停滞、その方向転換には、現実に存在する巨大スーパー企業数社の実態が凝縮されて投影されていると思われる。柏木友久の次男が政界に進出し現職大臣であるなどという設定や、大型SCの新規開店凍結、東南アジアや中国での新規事業参入・拡大などは、まさにリアル感を生み出す。このあたり、日本経済を考える上での材料にもなる。
 巨大スーパー事業が食肉分野の低価格路線を推し進める一端がすごくリアル感を感じさせる形でフィクショナルに描き込まれているが、これがフィクションとは言い切れないだろうな・・・と思わせるところが恐い。それは、現に食肉加工品事業における食材料偽装事件が存在するからという面もあるだろう。これは私個人の感想だが。

 この2つの流れがあるステージから交差し始めるのだ。そして、事件の核心は思わぬ方向へと進展していく。

 田川の鑑取り、地取り捜査が進むに従って、蛇腹のメモには様々なキーワードが累積していく。そして、その関連性について思考実験を繰り返し、試行錯誤で関係線が見え、つながりが徐々に明瞭になっていくというところが、おもしろい。
 こんな言葉が累積されていくのである。全国チェーンの居酒屋、鋭利な刃物、産廃処理業者、獣医師、特殊部隊経験者、逆手持ち、ベンツ、箱根、豪勢な宿、モツ煮を食べるな、練馬、などなどと・・・・。

 そして、事件が解決する段階で、迷宮入り事件の万々歳の解決のはずが、警察機構の組織の力がいずこからか加わるという意外な、だが、実にリアル感を感じさせる横やりが入るというひねりがある。田川刑事がそれに一矢報いる行動に踏み込もうとするところで本書は終わる。

 この作品も一気に読ませる牽引力があると感じる。おもしろく読了した。

 最後に、リアル感のある章句をいくつか引用しておきたい。
*クズ肉に大量の添加物を入れ、なおかつ水で容量を増すから雑巾なのです。 p150
*摘発されればの話です。ミートステーションのように露骨な業者はわずかだとしても、多かれ少なかれ食品加工業の現場はこんなものです。  p151
*添加物を大量に混ぜた際のリスクは、国ですら把握していない。 p152
*もはや、添加物なしの食生活なんて絶対に無理です。中身を知る、リスクが高そうなものを避ける知恵を持てばいいのです。  p154
*「全容を公表しなければ、被害者が浮かばれません」
 「そんなことをしたらオックスマートの経営を直撃する。・・・・オックスマートがおかしなことになったら、ただでさえ疲弊している地方経済を直撃する。おまえ、東北地方の失業率を知ってるか? 全国平均よりずっと高いんだ。震災の傷が癒えていない。オックスや関連企業に勤めている地元の人間を路頭に迷わす気か? 責任持てるのか? ・・・という筋については、総理官邸からも指示が来ている。俺たち公務員が総理に逆らうわけにはいかんのだよ。  p330-331
 
 ご一読ありがとうございます。

 本書に出てくる化学分野の用語その他派生関心事をネット検索してみた、一覧にまとめておいたい。
 
乳化剤  :ウィキペディア
乳化成分 :「化粧品成分辞典」
ブドウ糖果糖液糖 -食品添加物- :「color harmony feal(Yokohama)」
異性化糖  :ウィキペディア
異性化糖って、何だろう? :「日本甜菜製糖株式会社」
果糖ブドウ糖液糖などのジュースやお菓子、ヨーグルトなどの成分表示にご注意を!判断はあなた自身で。 :「大和心眼-ヤマトシンガン-」
「増粘多糖類」って何? Q&A :「食品のQ&A」
増粘安定剤 :ウィキペディア
よく見る表示「増粘多糖類」:「東京ガス」
次亜塩素酸ナトリウム :ウィキペディア
アスコルビン酸ナトリウム ほか  :「森村商事株式会社」
アスコルビン酸 :ウィキペディア
食用接着剤 :「Alibaba.com」
結着剤 :ウィキペディア
成型肉 :ウィキペディア
【韓国】食用接着剤で肉と骨をくっつけた「偽カルビ」が横行! 大量に市場に出回り大問題に!! :「ロケットニュース 24」
食用接着剤でつなげた“整形カルビ”が韓国で流通している・・・ :「NAVERまとめ」
 
牛海綿状脳症(BSE) :ウィキペディア
牛海綿状脳症(BSE) :「農研機構」
牛肉偽装事件 :ウィキペディア
 

  インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。


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