遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『アトミック・ボックス』 池澤夏樹  毎日新聞社

2014-04-04 09:51:21 | レビュー
 このフィクション、実にリアルである。”ある計画の遂行と挫折、それに関与した一人の男のその後の生き様、彼の遺言への判断と選択”がテーマとなっている。
 「事実は小説より奇なり」というから、一般国民の知らぬところで、同種の開発が秘密裏に進行していた、あるいは現実にしているとしても不思議ではない。そんな思いにとらわれる作品である。だからこそ、福島原発爆発事故という事実が突きつけられても、原発再稼働の圧力、プルトニウムの再処理というものにこだわっている一群の人々が存在するのではないか。そんな思いにとらわれてしまう。NUCLEAR=原子力=核兵器というつながりへの回帰を裏がえしにしているように思う。著者はその予兆への警鐘としてフィクションで問題提起しているように感じた。

 戦時下で核分裂連鎖反応の理論を研究していた若い学者・藤原清美が、砲弾型の原爆の原理を独自に考案する。だが、敗戦で戦争が終わる。戦後、国立大学の工学部に潜り込み、機械工学の分野に転身して頭角を現し、日本の重工業に貢献していく。産学協同を体現する藤原教授は、核兵器に関する知的好奇心から、自宅の書斎にリンゴ箱を横にして三段ほどに積み上げて、「アトミック・ボックス」と名付ける。そしてこの箱に、最先端の論文などを集積し始める。教授宅に遊びに来た院生などが仲間を集め、勝手な研究会を始めるのだ。「アトミック・ボックス」、それが実現不可能な原爆製造計画の一歩を進める契機になる。そこへ、その背中を押すような人物が現れる・・・・。ここから本書のタイトルが名付けられているようだ。

 瀬戸内海にある凪島で30年近く漁師をしてきた宮本耕三が、癌により病室で終わりの時を間近に迎えようとする場面からこのストーリーが始まる。耕三は妻洋子と娘美汐(みしお)を呼び、医者に延命を拒否した上で、美汐に最後の頼みをする。「美汐、おまえの手で向こう側へ送ってくれないか」と。
 福島原発爆発事故の後、しばらくして、自分が癌に冒されている事を知る。そして若い時の過ちに改めて気づき、過去の己の行為を悔やむことから、寿命をまっとうする資格がないのだと告げる。二人には何のことか全くわからない。妻の洋子は、夫が東京から故郷の凪島に戻って来て、漁師になった以降のことしか知らないからだ。そういう約束で、二人は結ばれた。耕三は妻に、自分の死亡が知られれば、結婚式の晩に頼んでおいた封筒を誰かが取りに来るので渡すようにと依頼する。
 一方、娘には本箱の文学全集の『万葉集』の箱の中に、CDが入っていて、そのデータの中に美汐宛ての手紙が入っていることと、そのCDは、封筒の中身のコピーなのだと告げる。その手紙は美汐宛ての遺書であり、「それを読めば事情がわかる。大きな間違いのこともわかる。」「読んでみた上で、俺がしたことを世間に知らせるか知らせないか、おまえが判断してくれ」(p13)と・・・・。

 凪島には火葬場がないので、三原市の市営施設で簡素な葬儀と火葬をすることになる。葬儀は少数の人々の参列だけ。その中に凪島の郵便局の行田と生前に凪島の漁師としての耕三を取材し、親しくしていた大和タイムス広島支局の記者竹西オサムが列席していた。
 葬儀後、凪島に戻った宮本母子の前に行田が現れる。宮本耕三と約束していたものを受け取りに来たのだという。美汐の問い詰めに対し、行田は凪島に来て7年にして初めて手帳を示した。「警視庁 警部補 行田安治」。そして、「『あさぼらけ』引き取りの証明」と記され、伊藤博文の描かれた、半分にちぎった千円札が貼り付けてある紙を正当な受取人の証だと提示する。行田は目的の封筒を受け取ると即座に東京に去る。
 ここから、このストーリーが急速に展開していく。

 これで任務を完了したと思う行田にとって、それは始まりだった。科捜研の調べでは、割り印が捺されていない封筒の端が開封された痕跡が発見された。つまり、中身のコピーが作成されたと見なさざるを得ない。国家機密に関わるその中身のコピーの回収は絶対不可欠となる。つまり新たな始まりとなる。
 一方、CDの中身を凪島で読む手段を美汐は持っていなかった。大学で社会学の講師として勤めている美汐は、高松のアパートに戻ってデスクトップのパソコンで見るしか手段がない。「禁開封」として割り印まで捺してあった封筒の中身なら、まずは凪島を出るまでどこかに隠すしかない。
 行田が「捜索差押許可状」を持って急遽凪島の宮本家に現れる。

 CDを携えた美汐の逃亡が始まる。行田と警察に知られずに、密かに凪島を脱出して、どこかでCDに入力されている父からの文書をまず読むことができなければ、美汐にはどうして良いかわからないのだ。父の頼みが何なのか、なぜこんなことになったのか・・・・。
 美汐は瀬戸内海の小島を転々と逃亡しながら、その過程で竹西とコンタクトを取り、CD内にある父の手紙の内容を読む。手紙には、父の前半生において、あるときから「あさぼらけ」と称された原爆を作る計画に関与したこと、計画が挫折した後にとった行動の経緯が記されていた。CDにコピーされたデータは、父耕三が己の生命に対する保険として手許に保管することになったものだったのだ。それは計画の存在と関与への証でもある。
 美汐は父の頼みを果たす判断をするために己の課題を明確化する。世間に知らせるか知らせないかの判断のためには、手紙に記されているある人物に会うことが必要となる。そのためには東京に行かねばならない。竹西は記者生命をかけ美汐の行動を支援することを約束する。
 公安警察は、行田を直接の担当者として、いかなる手段を講じても、美汐の身柄を拘束し、国家機密暴露の起爆となるCDのコピーを回収する行動に出る。
 
 本作品は、2つのストーリーがある時点からパラレルに展開され、そして結びついていく。
 一つは、美汐が東京に居る人物に会うための逃亡ストーリーだ。行田をはじめとする警察組織の総動員で美汐を追跡するという逃亡劇である。これはまさに波瀾万丈の展開になる。美汐は、凪島という小島で漁師の娘として育ち、大学で社会学を専攻し、2009年に『離島における独居老人の生活環境』というリサーチを行い論文を書いている。ストーリーの構想において、これが実に巧妙な設定になっていると思う。
 公安警察は、美汐を追跡し拘束するために、殺人の容疑で指名手配するという手段を持ち込んでくる。美汐が父の死を早める手助けをしたのかどうか・・・・。
 私が巧妙な設定と思う理由は、本書を手にとって読み、確認あるいは評価していただきたい。この逃亡劇のプロセスの自然さと必然性、納得性を高めるベースになっている。はらはらさせられながら、読み応えがある展開なのだ。

 もう一つは、美汐が父の手紙の内容を読むところから始まって行く。
 宮本耕三は、広島の高校を出た後、東京の大学に行き、理学部数学科に学ぶ。彼は工学的現象のシュミレーション・プログラム開発の専門家となった。製造業の大きな会社に就職する。会社勤務の途中で、なぜ、どのようにして、「あさぼらけ」計画に関わるようになったのか。だれが、なぜ、その計画をスタートさせたのか。どのようにしてその計画が進行して行ったのか。そして、計画がなぜ挫折したのか。その一端を語っていく。宮本耕三の半生の行動が明らかにされていくのだ。
 耕三が寿命をまっとうする資格がないと自己認識する背景は、実にシリアスな背景要因があるからでもある。

 「あさぼらけ」計画をある人物が発案し、それを受けた人物を軸に周到な開発計画が推進されるというストーリーには、実にリアルな背景要因を感じさせる局面がある。このリアルさが、この作品の一つの読みどころでもある。
 そこには、国家の論理に対して一人の人間の論理を対置するという問いかけがなされているためだ。ここに著者の問題提起があると思う。

 最後にこの作品から、私がキーセンテンスと思ういくつかを引用しておきたい。

*そういう自分がなんでよりによってこの二年間、原爆の開発に関わってきたのだ?
 「あさぼらけ」は終わった。すべては消されてしまった。それでよかったのかもしれない。少なくとも自分は安斎さんのように殺されはしなかった。  p331
*僕は工学というものから身を引きたいんです。・・・工学は時として罪を犯すから。p339
*炉心融解という見出しの文字を見て、耕三は金田が言っていたことを思い出した。彼は「発電は恐い」と言った。製造後は眠っていればいいだけの原爆に比べたら超臨界状態をずっと維持しまければならない発電所の方が恐い。  p349
*しばらくして、福島第一原子力発電所の崩壊で放出されたセシウムの量は原爆の168.5倍という報道があった。   p352
*さて、第二次世界大戦の後の世界では軍事力の中心は核兵器だった。これを持つものが世界を制する。だからアメリカの後を追ってソ連も核兵器を開発した。  p387
*(「古い言葉だが、愛国心だよ」に対しての美汐の思いとして)
 本当に古い言葉だと思った。
 愛していればわざわざ言う必要はない。勝手に国を担ぐ者がそれを強調する。国への愛を独占する。愛すればこその批判もあるのに。だいたい国のような抽象的なものが愛の対象になるのだろうか?   p417
*国はないかと秘密を作る。しかし国の主体は官僚ではなく国民だから、国が作るものはすべて最終的には国民に属する。   p444

 考えるべき観点を数多く含むフィクションである。いや、リアルなシュミレーションなのかも・・・・・。


 ご一読ありがとうございます。

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いくつか本書関連で語句をネット検索して見た。一覧にしておきたい。

自殺関与・同意殺人罪 :ウィキペディア

機関車先生 :「YAHOO! 映画」
 
ポアンカレ予想 :ウィキペディア
曝縮レンズ :ウィキペディア
爆縮式となったプルトニウム原爆  沢田昭二(名古屋大学名誉教授):「日本原水協」
 
犬島(岡山市) :「岡山県の離島」
犬島アートプロジェクト→ 犬島精錬所美術館 :「ベネッセアートサイト直島」
犬島のご案内 :「ベネッセアートサイト直島」
瀬戸内国際芸術祭 公式サイト
瀬戸内国際芸術祭 :ウィキペディア
5月3日は犬石宮の例大祭で犬ノ島に上陸可能  斉藤 潤氏
  :「旅、島、ときどき、不思議」
 
マッハッタン計画 :ウィキペディア
Manhattan Project  From Wikipedia, the free encyclopedia
日本の原子爆弾開発 :ウィキペディア
日本軍の原爆研究 :「恐るべし[731部隊」の全貌」
日本の核保有、外務省幹部が69年に言及か 西独と懇談 :「朝日新聞」
 
仁科芳雄 :ウィキペディア
荒勝文策 :ウィキペディア
湯川秀樹 :ウィキペディア
 
核兵器の歴史 :ウィキペディア
核兵器の開発  核兵器開発・核軍縮の歩み :「広島平和記念資料館」
軍縮-核廃絶へ 核兵器開発・核軍縮の歩み :「広島平和記念資料館」
中華人民共和国の大量破壊兵器 :ウィキペディア
北朝鮮核問題 :ウィキペディア
 
西山事件 :ウィキペディア
西山太吉 :ウィキペディア
ジュリアン・ポール・アサンジ :ウィキペディア
ウィキリークス :ウィキペディア
ウィキリークス ホームページ
 

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今までに読後印象を掲載した著者の本は次のとおりです。
こちらもご一読いただけるとうれしいです。

『ぼくたちが聖書について知りたかったこと』  小学館
『雅歌 古代イスラエルの恋愛詩』 秋吉輝雄訳 池澤夏樹編 教文館
『すばらしい新世界』
『春を恨んだりはしない 震災をめぐって考えたこと』 写真・鷲尾和彦 中央公論新社