この短編集は、2003年3月に徳間書店から第一刷が出版された。そして、2013年10月には、光文社時代小説文庫として文庫化されている。
手許の本は単行本の第二刷版。タイトルの副題は十二の短編となっているが、単行本としては、十二の短編に短編「仲冬の月」が加えられて十三編が所収されている。作品末尾の記載によれば、茶湯にかかわる十二の短編は、2002年に裏千家の月刊茶道誌『淡交』の1月号~12月号に連載されたのが初出だという。最後の「仲冬の月」は『利休七哲』(1990年3月講談社刊)にものに所収されたものという。
本著者の作品を読むのは初めて。それも本を購入してからかなりの期間積ん読になっていた。なぜ本書を入手したのか? それは京都の今出川通の北にある相国寺を訪れた折りに、境内の鐘楼の北東側に「宗旦稲荷社」というのが祀られていて、その駒札で宗旦狐の伝承を読んでいたからである。
この写真の鐘楼東側の参道奧にあるのが宗旦稲荷社である。
偶然このタイトルを見た時に本を衝動買いで入手した。すぐに読み始めなかったので、ついつい積み上げた本の一冊になってしまっていた。2016年11月に、ブログ記事を掲載していたプロバイダーがサイトを閉鎖するという事前通知を受けたために、別サイトで既に始めていたブログの中に、相国寺探訪の記事を再録していて、俄然本書を読みたくなり、遂に一気に読了したという次第。
宗旦稲荷社付近の拙ブログ記事はこちらから御覧いただけると、うれしいかぎりである。(探訪 相国寺拾遺 鐘楼「洪音楼」・宗旦稲荷社・弁天社・鬼瓦様々 )
さて、前書きが長くなったので本筋に戻る。「あとがき」によると、月刊誌の連載にあたり、「枚数は一篇につき四百字詰原稿用紙20枚」という制約で「一つのテーマに基づいた作品を書く」という連載だったそうだ。「茶湯に関わる話」という設定の枠で何を描き出すか? 「特殊な茶道誌という関係から、血腥い話はタブー」という制約のもとで、短編のモチーフ設定することが必要だったという。枚数制限、題材選択の制約の中で、創作されたのがこの短編集といえる。著者はタブーにより創作上の「苦労を強いられた」ということと、枚数の制約の中で作品を書くことを「スリリングで好きだ」と気している。
一読者としては、短編であることでまず取っつきやすく、ストレートな本道主体のストーリー展開なので一作ずつを短時間に読むことができる。茶湯という対象(山)に対して、それに関わる人間の立場・観点(登り口)が様々であり、そのアプローチを楽しめる。そのあたりが、一気に読ませてしまった根底にあるのだろう。読みやすい文体であるのもよい。各篇の印象を少し述べておきたい。
<蓬莱の雪>
京都・五条大橋近く、伏見街道の1本東の通りの鞘町で小さなうどん屋を営む弥助が登場人物の一人。やきもので知られる五条坂に近いのに、欠けた丼鉢を使っている。ただし、うどんの具を多く汁の旨さを保つのが信条。うどん代の付けが多く、資金回転がうまく行かない。薪炭の支払いにも滞る状態。そんなうどん屋の前に道服姿の男が現れる。弥助は温かいうどんを一杯その男にご馳走する。銭を持たないと男は言うが、弥助は気にしない。男は代金代わりに竹筒に入った掛幅(茶掛け)を預けておくといい置いていく。
薪炭代金支払いの遅滞の督促に来た伊勢屋新兵衛は、借金の形にその掛幅を強引に預かると言って持ち出していく。
人間の連環のおもしろさと、人間としての心の余裕の有り様がモチーフになっている。雪村の茶掛けを目付と思い、床に掛けて茶でもいたし心にゆとりを持てと諭すのがおもしろい落ちである。
<幾世の椿>
竹田街道の東九条村の甚助の家の庭には代々伝わる白椿の木がある。番頭風の男が、桟格子の窓から覗き込んでいた。それを甚助と息子の国松が見咎める。桟格子の内側では、姉のお蕗が竃に火吹き竹でくすぶりつづける枯れ葉に息を吹きつけていたのである。
白椿を眺めていた男は、四条室町の夷屋の助番頭だと名乗る。東九条村の九品寺の和尚を初釜に招くために、店の旦那様の使いで来て、白椿を目に止め、見とれていたという。できればその一枝を初釜の床飾りにいただきたいと言う。甚助はそれを断る。
だが、それが奇しき宿世の縁を知る契機となる。
守り甲斐のあった先祖の遺命と、茶湯の席の恩返しという結末が心温まる一篇となっている。
<御嶽の茶碗>
著者は「あとがき」で、この短編の「最後の部分を二行ほど改稿した」と記す。それは上記の連載の折には制約があったからだという。確かに単行本では血腥い結末にまとめられている。連載ではどういう結末にされていたのか・・・・気になるところである。
茶湯数寄の久左衛門は、お納戸役道具方という役割を担い、茶道具や画幅の目利きでは家中随一と表される。彼はあるとき偶然城下の老婆と猫が居る荒屋で薄汚れた茶碗に目をとめた。それが不幸の始まりとなる。
この短編、血腥いエンディングだからこそ、主人公九左衛門の心の変転が鮮やかになっていると思う。
<地蔵堂茶水>
京の高倉錦小路上ルで小間物問屋を営む菊屋。今は隠居身分になったお貞は、商いが軌道に乗ったころから、毎年、慣例としていることがあった。それは、3月6日、鴨川の源流、大原郷の地蔵堂の傍の高野川から、正午きっかりの時刻に汲んだ水で一服茶を点て、服するという行為だった。その水汲みを代々、店の小僧が行ってきていた。小僧の民之助がその役を担う。理由が分からないままの水汲み仕事。水を汲んでの帰路にハプニングが起こる。それに対して、民之助が取った行動が、お貞に理由を語らせる契機となる。
一服の茶を点て服する行為の背景にあるその意義づけが興味深い。懺悔と感謝、初心を忘れない生き様、誠実さ。お貞の心が民之助の一途な誠実さに共鳴する。
<戦国残照>
本能寺の変の後、明智光秀軍と高松から大返ししてきた羽柴秀吉軍が山崎で合戦をしたのは天正10年(1582)である。この年、秀吉は山の麓の禅刹妙喜庵に、利休に命じて茶室を作らせた。茶室の名は「待庵」。この時、千利休は縦の二尺六寸一分、横二尺三寸六分という大きさの躙口を創意したという。待庵の茶室の創意の一つが荒壁仕立てである。この荒壁にする壁土踏みの作業に二人の子供を厳選して京から来ている棟梁が傭ったという。
その子供の一人が広瀬村の吉十郎だった。吉十郎19歳の折、18歳の小夜と祝言をする。吉十郎は待庵の壁土踏みをしたことを誇りに思い、いつしか上手に茶筅を振るい茶を点て人に振る舞うようになっていた。二人には待望の子が授かり、姑を喜ばせることができ、源太と名付ける。しかし、秀吉の死後であるが、豊臣贔屓の吉十郎は、一度だけ足軽になり、西軍の付いて行くと出かけて行く。それが人生の分かれ目となる。待庵に関わりをもった一人の村の子供・吉十郎と小夜の人生が語られる。
お守り袋と茶にまつわる話としおもしろい短編となっている。「待庵」についてのエピソード話にもなっていて興味深い。
<壺中の天居>
約十年に及ぶ応仁の乱は洛中をほぼ焦土と化して、文明9年(1477)、畠山義就の河内向下で幕を閉じる。そして、下克上の戦国時代に履いていく。洛中には家が徐々に再建されていく。これは手伝い大工・弥吉の目にした東洞院通りの町屋の普請話である。
髪をざんばらにした道服姿の初老の男が普請の指図をしていたという。間口三間ほどのうなぎの寝所と呼ばれるものなのだが、その新建の町屋は出色の出来だった。三軒の町屋に共通するのは壺庭が造られている点である。その庭を珠光が見に行き、感服したという。
程なく弥吉は道服姿の人物を見かけ、後を付けてみるのだが・・・・・。
鴨川の傍まで付けて行ったときに、不可思議なことが起こるという短編。坪庭の坪は壺に通じるという。中国の壺中天地の故事とリンクさせていくのがおもしろい。
<大盗の籠>
東海道筋を長年荒しまわっていた大盗賊日本左衛門の腹心第一と評された中村左膳とふとしたことで関わりを持った籠屋の六蔵の話である。梶井宮門跡の近習として仕える森田宗佑と称する公家侍が、上京・五辻通りの軒下で、お店奉公の小僧の草履の前緒が切れているのを好意で、少し難儀しつつ結び直してやる。それを籠屋の六蔵が籠を編む手を休めふと目撃した。草履の前緒を直し終わり、小僧が礼を言いその場を去ると、六蔵が公家侍に近づき、店に立ち寄るように声をかける。そこから二人の交流が始まる。
森田宗佑は、六蔵の父が編んだ魚籠(びく)を花入にして六蔵が使っているのを目に止める。宗佑は、六蔵に千利休の数寄道具の一つの話を語る。そして、数日後に宗佑は小ぶりな画幅を持参し、六蔵に預けていく。その絵には大きな把手の付いた籠花入が描き込まれていた。六蔵はその絵を見て、竹で籠花入を作りあげる。それが評判になる。
その後、森田宗佑が中村左膳と判明し、左膳は江戸送りとなるのだが、六蔵は西町奉行の総与力が頼まれ事を受ける羽目になる。
この話、史実をうまく取り入れた短編小説で、さまざまな事実情報が凝縮されて書き込まれていて興味をそそられる。日本左衛門、中村左膳は実在した盗賊。
短編の末尾は「中村左膳は『宗旦伝授聞書』まで読んでいたのであった」の一文で締めくくられている。
<宗旦狐>
この短編は著者が独自に創作された話である。「あとがき」に著者はこう記している。「わたしが作り上げた宗旦狐の話が、やがて歳月が経ったとき、かれ(=宗旦:注記)の逸話の一つに数え入れられたら幸いだと思っている」と。
このフィクション、さりげなく江戸時代の伝承として語っても十分面白いと思う。逸話のひとつになったら都市伝説として楽しいと思う。ちょっと本を寝かしすぎた!もっと早く楽しんでいれば良かった・・・・と思う次第。筆に絡んで筆屋太左衛門と宗旦狐との間での駆け引き・化かし合いのお話とだけ述べておこう。
宗旦狐の伝承はこういうものである。駒札にも触れられていたと思う。ここでは別のソースから引用する。
「相国寺境内に一匹の古狐が雲水に化けて住んでいたところ、千利休の孫宗旦が茶会を開くにあたり、狐が宗旦に化け見事なお点前を見せたという。また、門前の豆腐屋の破産を神通力で助けるなどしたことから、人々から宗旦狐と呼ばれ、開運の神として信仰を得て、稲荷として祀られた。」(『京都・観光文化検定試験 公式テキストブック』 監修・森谷尅久 京都商工会議所編 淡交社 p238)
<中秋十五日>
中川安左衛門は篠山藩・青山家譜代衆の一人で、今では郡奉行所の上席である。彼は山根太郎助とは幼馴染みであり、5年前までは刎頸の友としての親交を重ねる間柄だった。太郎助の祖父は、お国替えで青山家が国入りする折に茶を点てて献上したことで、殿様から秋月等観(しゅうげつとうかん)の「月夜山水図」を頂戴したのである。そのとき祖母は殿様からの頂き物の名幅では売り払うこともできないとこぼしたという。しかし、山根家では、中秋の茶会を開くときにはその名幅を掛けて行う慣例となったのだ。安左衛門は招かれるといつも上席に坐らされる仲だったのだ。それが5年前にぱったりと往き来が絶える事態になった。安左衛門には全く思い当たる原因がない。山根太郎助は中秋の茶会をその後も続けているのである。安左衛門は中秋の茶会を夢にまで見る。
安左衛門の嫡男・清一郎は当代青山忠講(ただつぐ)の近習として江戸詰めであるが、主君とともに帰国していた。孫の清一郎が戻っている折から、祖母は中秋の月見の宴をすることにした。そして、祖母は月見の宴にふさわしい画幅を思い出して、床の間に掛けたのである。不審に思った安左衛門は母からある経緯を聞く。その理由が判明したことから思わぬめ事態となるが、めでたい結末を迎えるというエピソード。
一幅の茶掛けがもたらす人間関係の機微がさらりと描き出されている。清一郎の行動と決断が読ませどころとなる。
<短日の霜>
松江藩士岩淵右衛門七(えもしち)と妻のお岩は、父十左衛門の仇討ちのため、二十年も前に国許を出て、諸国をめぐり歩き、仇の所在がつかめないまま、今は京の「本阿弥辻子」も称される町の裏店に住む。右衛門七は心臓を病み、寝たり起きたりの生活。父は仲の良い朋輩だった北山次郎兵衛との間で碁石一つのことで刃傷沙汰となり斬られたのである。
長屋の女たちに何かと親切にされつつ、お岩は呉服屋の枡屋から委された縫い仕事で暮らしをまかなっていた。そのお岩は自分のために、茶碗の仕覆(しふく)を縫い上げていた。それが反物を長屋にとどけにきた番頭の重兵衛が偶然目に止めた。それが縁で、大坂の茶道具商・分銅屋善左衛門が仕覆を仕立てられる職人に死なれて困っているということへの口利きを受けることになる。まず、古瀬戸の茶入れの仕覆を金剛金襴といわれる名物裂で仕立てる仕事が、お岩に依頼されてくる。その後も年に数回、仕覆を仕立てる仕事がもたらされる。
その仕覆が、不思議な縁で北山次郎兵衛に繋がって行くというストーリーである。仕覆が仇討ち話を結末に導くことになる。茶道具の脇役である仕覆がストーリーを展開する仕掛けになるところがおもしろい。
そういえば、茶道に関連した展覧会で、名物裂で仕立てられた仕覆自体が展示品となっているのを時折目にする。
<愛宕の剣>
宇治茶商の一家、上林牛加家の奉公人で、宇治茶の栽培に携わる甚兵衛とその娘和哥にまつわる話である。甚兵衛はお屋形の指図で、愛宕山の威徳院さまにお茶壺をいただきにいくという役目に加わるようにと手代の菊田伊徳から告げられる。お茶壺役に加わる臨時の仕事で畑仕事が遅れるのが気になることに加えて、一緒に従う和哥には、嫌なことがあったのだ。それは宗家味卜家の御茶壺役に気をつかう必要のある事の他に、味卜家に奉公する女癖が悪く評判の良くない安蔵が、和哥に目をつけていて、山道を登る和哥が遅れ気味になると、和哥の尻を触るというふざけをするのである。安蔵に恥をかかせて怨まれるのも嫌だし、宗家や他の御茶壺役衆の手前もあり、今までは我慢をしてきたのである。
だが、お屋形さまからの指図に従い、この臨時の任務につくことになる。今回の役目でも、道中で安蔵がちょっかいを出してくる事態に・・・・。だが、和哥が「蒼白だった顔をぱっとほころばせた」という結末に至り、ほっとさせる短編である。
この短編、茶所宇治の歴史と上林家について、その概要を書き込んでいるところが、初歩の茶人向けとしては、茶道誌の中で楽しみながら学べる短編となったのではないかと思う。長年宇治に住む私にとっても、学ぶことがいろいろある。その副産物がうれしい。
<師走の書状>
十年ほど前までは、四条東洞院近くで扇商「信貴屋」の店を構え、三代目の遣り手として同業者からは恐れられ、事実とは異なる悪い噂や評判に晒された六左衛門が主人公である。その六兵衛がある事件から零落し、上京・御所八幡町の裏長屋住まいとなり、今は病の床につく境遇である。
この短編は、六兵衛の全盛の頃の同業仲間の実態や何故零落する羽目になったかを明らかにしていく。14歳になる娘のお志穂は先斗町遊郭の茜屋に奉公し、10歳の弟、雅之助はろうそく屋の小僧奉公をしている状態である。病床の父の枕屏風の表紙が大きく破れて剥がれた状態になっている。
そんな陋屋に昔、信貴屋の手代をしていた佐吉が用があって奈良から京に出て来て、立ち寄ったのである。彼がその破れて剥がれた枕屏風をふと目にしたことが、師走に吉を呼び込む契機になるというストーリーである。
同業者間の人間関係の機微、人が何を捉えて人物評価するかという局面などを扱うと共に、「猫に小判」の逆バージョン的な面白さの視点を取り込んでいるのが興味深いところである。知が武器になるという結末がおもしろい。
<仲冬の月>
この短編が冒頭に記したが、連載短編とは初出が異なる。ページ数も35ページと連載短編の二倍を上回る短編小説である。利休七哲の一人「瀬田掃部」が主人公に取り上げられている。
利休七哲という言葉と該当する数名の名前は知っていても、その域を出ない。ここに取り上げられた瀬田掃部がその一人とは知らなかった。そういう意味でも興味を持って読めた。著者は瀬田掃部の素性はほとんどわかっていないと言う。近江の「瀬田」を本貫とする武士で、関白秀次の事件に連座して死刑に処せられたことが、多くの茶書で共通するくらいだという。
それ故に、著者は少ない史実を織り込んで、瀬田掃部という人物の一側面を鮮明に描く創作意欲をそそられたのではないかと思う。著者は瀬田掃部が北条氏家臣だったという古伝の立場をとりストーリーを紡ぎ出していく。
冒頭は、瀬田掃部が前年に預けられた西山の地の手入れを怠っている竹藪から、掃部に長年つき従う長吉に指示して、3本の孟宗竹を選び切り出させる場面から始まる。そして、小田原陣中の日々に回想が及んでいく。その回想は千利休が伊豆韮山の竹で花筒を拵えたことに繋がる。
3本の孟宗竹の根元を用い、掃部が一重切れの花入れを三つつくるという作業の過程と掃部の回想がない交ぜになってストーリーが進む。関白秀次の自刃の背景、更に遡り、掃部が北条早雲の第三子である幻庵(=長綱)に仕えていた頃の話、その後の諸国遍歴の一端など。そして、千利休が聚楽第の屋敷で自刃させられたとき、屋敷の警護を瀬田掃部が石田治部少輔に命じられたが、それを断ったことで上杉景勝にその役が回された描いている。この辺りは著者の創作なのか、史実を踏まえているのだろうか。
そして、最後に著者の瀬田掃部像が描き出されていく。
著者は瀬田掃部が死刑に処せられたという通説を捨て、太閤秀吉の俗権に対して、自ら見切りをつけ、行方をくらませるという選択をしたと描き出していく。なるほどと感じさせるうまいまとめ方である。
著者は掃部にこう語らせている。「利休さまが唱えられている茶湯は、宿業をそなえた人間がいかに生きていくかを、それでしめしたものじゃと解している。しかし、茶湯を行うにしても、はっきりした考えをもっておられるお人は少なかろう。ほとんどが俗世への格好だけじゃ」と。その後に続く地の文では、「千利休の唱えた佗び茶の精神は、美的価値の転換をいい、受け取り方を誤れば、人間にとってきわめて危険なものをふくみ、欺瞞となり得る要素を濃く持っていた」と記す。
そして、掃部自身の茶の湯への考えは、「具体的にはわしは緊張を解きほぐすため茶湯を行っている。・・・・閑寂のなかで、一碗の茶を喫して戦いに思いを馳せる。人間の生き方についても同じじゃ。わしの茶湯はそんなものよ」と語らせる。
茶湯に関わる視点をさまざまに変えてアプローチしていて、面白くかつ興味深く読み終えた。
ご一読ありがとうございます。
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補遺
関心を抱いた項目を少しネット検索してみた。一覧にしておきたい。
范寬 「谿山行旅図」 :「國立故宮博物院」
雪村周継 :「MIHO MUSEUM」
妙喜庵待庵 :「山崎観光案内所」
妙喜庵 ホームページ
日本の建築技術の展開-18 の補足2・・・・妙喜庵 待庵の実測図
下山眞司氏 :「建築をめぐる話・・・つくることの原点を考える」
待庵 :「岩崎建築研究室」
日本左衛門 :ウィキペディア
白浪五人男 ← 青砥稿花紅彩画 :ウィキペディア
神沢杜口 :ウィキペディア
秋月等観 作家詳細情報 :「徳島県立近代美術館」
山水図 伝秋月等観筆 :「夜噺骨董談義」
瀬田掃部 :「コトバンク」
茶道についてのお話3,4,5 :「西尾市」
インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。
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その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
手許の本は単行本の第二刷版。タイトルの副題は十二の短編となっているが、単行本としては、十二の短編に短編「仲冬の月」が加えられて十三編が所収されている。作品末尾の記載によれば、茶湯にかかわる十二の短編は、2002年に裏千家の月刊茶道誌『淡交』の1月号~12月号に連載されたのが初出だという。最後の「仲冬の月」は『利休七哲』(1990年3月講談社刊)にものに所収されたものという。
本著者の作品を読むのは初めて。それも本を購入してからかなりの期間積ん読になっていた。なぜ本書を入手したのか? それは京都の今出川通の北にある相国寺を訪れた折りに、境内の鐘楼の北東側に「宗旦稲荷社」というのが祀られていて、その駒札で宗旦狐の伝承を読んでいたからである。
この写真の鐘楼東側の参道奧にあるのが宗旦稲荷社である。
偶然このタイトルを見た時に本を衝動買いで入手した。すぐに読み始めなかったので、ついつい積み上げた本の一冊になってしまっていた。2016年11月に、ブログ記事を掲載していたプロバイダーがサイトを閉鎖するという事前通知を受けたために、別サイトで既に始めていたブログの中に、相国寺探訪の記事を再録していて、俄然本書を読みたくなり、遂に一気に読了したという次第。
宗旦稲荷社付近の拙ブログ記事はこちらから御覧いただけると、うれしいかぎりである。(探訪 相国寺拾遺 鐘楼「洪音楼」・宗旦稲荷社・弁天社・鬼瓦様々 )
さて、前書きが長くなったので本筋に戻る。「あとがき」によると、月刊誌の連載にあたり、「枚数は一篇につき四百字詰原稿用紙20枚」という制約で「一つのテーマに基づいた作品を書く」という連載だったそうだ。「茶湯に関わる話」という設定の枠で何を描き出すか? 「特殊な茶道誌という関係から、血腥い話はタブー」という制約のもとで、短編のモチーフ設定することが必要だったという。枚数制限、題材選択の制約の中で、創作されたのがこの短編集といえる。著者はタブーにより創作上の「苦労を強いられた」ということと、枚数の制約の中で作品を書くことを「スリリングで好きだ」と気している。
一読者としては、短編であることでまず取っつきやすく、ストレートな本道主体のストーリー展開なので一作ずつを短時間に読むことができる。茶湯という対象(山)に対して、それに関わる人間の立場・観点(登り口)が様々であり、そのアプローチを楽しめる。そのあたりが、一気に読ませてしまった根底にあるのだろう。読みやすい文体であるのもよい。各篇の印象を少し述べておきたい。
<蓬莱の雪>
京都・五条大橋近く、伏見街道の1本東の通りの鞘町で小さなうどん屋を営む弥助が登場人物の一人。やきもので知られる五条坂に近いのに、欠けた丼鉢を使っている。ただし、うどんの具を多く汁の旨さを保つのが信条。うどん代の付けが多く、資金回転がうまく行かない。薪炭の支払いにも滞る状態。そんなうどん屋の前に道服姿の男が現れる。弥助は温かいうどんを一杯その男にご馳走する。銭を持たないと男は言うが、弥助は気にしない。男は代金代わりに竹筒に入った掛幅(茶掛け)を預けておくといい置いていく。
薪炭代金支払いの遅滞の督促に来た伊勢屋新兵衛は、借金の形にその掛幅を強引に預かると言って持ち出していく。
人間の連環のおもしろさと、人間としての心の余裕の有り様がモチーフになっている。雪村の茶掛けを目付と思い、床に掛けて茶でもいたし心にゆとりを持てと諭すのがおもしろい落ちである。
<幾世の椿>
竹田街道の東九条村の甚助の家の庭には代々伝わる白椿の木がある。番頭風の男が、桟格子の窓から覗き込んでいた。それを甚助と息子の国松が見咎める。桟格子の内側では、姉のお蕗が竃に火吹き竹でくすぶりつづける枯れ葉に息を吹きつけていたのである。
白椿を眺めていた男は、四条室町の夷屋の助番頭だと名乗る。東九条村の九品寺の和尚を初釜に招くために、店の旦那様の使いで来て、白椿を目に止め、見とれていたという。できればその一枝を初釜の床飾りにいただきたいと言う。甚助はそれを断る。
だが、それが奇しき宿世の縁を知る契機となる。
守り甲斐のあった先祖の遺命と、茶湯の席の恩返しという結末が心温まる一篇となっている。
<御嶽の茶碗>
著者は「あとがき」で、この短編の「最後の部分を二行ほど改稿した」と記す。それは上記の連載の折には制約があったからだという。確かに単行本では血腥い結末にまとめられている。連載ではどういう結末にされていたのか・・・・気になるところである。
茶湯数寄の久左衛門は、お納戸役道具方という役割を担い、茶道具や画幅の目利きでは家中随一と表される。彼はあるとき偶然城下の老婆と猫が居る荒屋で薄汚れた茶碗に目をとめた。それが不幸の始まりとなる。
この短編、血腥いエンディングだからこそ、主人公九左衛門の心の変転が鮮やかになっていると思う。
<地蔵堂茶水>
京の高倉錦小路上ルで小間物問屋を営む菊屋。今は隠居身分になったお貞は、商いが軌道に乗ったころから、毎年、慣例としていることがあった。それは、3月6日、鴨川の源流、大原郷の地蔵堂の傍の高野川から、正午きっかりの時刻に汲んだ水で一服茶を点て、服するという行為だった。その水汲みを代々、店の小僧が行ってきていた。小僧の民之助がその役を担う。理由が分からないままの水汲み仕事。水を汲んでの帰路にハプニングが起こる。それに対して、民之助が取った行動が、お貞に理由を語らせる契機となる。
一服の茶を点て服する行為の背景にあるその意義づけが興味深い。懺悔と感謝、初心を忘れない生き様、誠実さ。お貞の心が民之助の一途な誠実さに共鳴する。
<戦国残照>
本能寺の変の後、明智光秀軍と高松から大返ししてきた羽柴秀吉軍が山崎で合戦をしたのは天正10年(1582)である。この年、秀吉は山の麓の禅刹妙喜庵に、利休に命じて茶室を作らせた。茶室の名は「待庵」。この時、千利休は縦の二尺六寸一分、横二尺三寸六分という大きさの躙口を創意したという。待庵の茶室の創意の一つが荒壁仕立てである。この荒壁にする壁土踏みの作業に二人の子供を厳選して京から来ている棟梁が傭ったという。
その子供の一人が広瀬村の吉十郎だった。吉十郎19歳の折、18歳の小夜と祝言をする。吉十郎は待庵の壁土踏みをしたことを誇りに思い、いつしか上手に茶筅を振るい茶を点て人に振る舞うようになっていた。二人には待望の子が授かり、姑を喜ばせることができ、源太と名付ける。しかし、秀吉の死後であるが、豊臣贔屓の吉十郎は、一度だけ足軽になり、西軍の付いて行くと出かけて行く。それが人生の分かれ目となる。待庵に関わりをもった一人の村の子供・吉十郎と小夜の人生が語られる。
お守り袋と茶にまつわる話としおもしろい短編となっている。「待庵」についてのエピソード話にもなっていて興味深い。
<壺中の天居>
約十年に及ぶ応仁の乱は洛中をほぼ焦土と化して、文明9年(1477)、畠山義就の河内向下で幕を閉じる。そして、下克上の戦国時代に履いていく。洛中には家が徐々に再建されていく。これは手伝い大工・弥吉の目にした東洞院通りの町屋の普請話である。
髪をざんばらにした道服姿の初老の男が普請の指図をしていたという。間口三間ほどのうなぎの寝所と呼ばれるものなのだが、その新建の町屋は出色の出来だった。三軒の町屋に共通するのは壺庭が造られている点である。その庭を珠光が見に行き、感服したという。
程なく弥吉は道服姿の人物を見かけ、後を付けてみるのだが・・・・・。
鴨川の傍まで付けて行ったときに、不可思議なことが起こるという短編。坪庭の坪は壺に通じるという。中国の壺中天地の故事とリンクさせていくのがおもしろい。
<大盗の籠>
東海道筋を長年荒しまわっていた大盗賊日本左衛門の腹心第一と評された中村左膳とふとしたことで関わりを持った籠屋の六蔵の話である。梶井宮門跡の近習として仕える森田宗佑と称する公家侍が、上京・五辻通りの軒下で、お店奉公の小僧の草履の前緒が切れているのを好意で、少し難儀しつつ結び直してやる。それを籠屋の六蔵が籠を編む手を休めふと目撃した。草履の前緒を直し終わり、小僧が礼を言いその場を去ると、六蔵が公家侍に近づき、店に立ち寄るように声をかける。そこから二人の交流が始まる。
森田宗佑は、六蔵の父が編んだ魚籠(びく)を花入にして六蔵が使っているのを目に止める。宗佑は、六蔵に千利休の数寄道具の一つの話を語る。そして、数日後に宗佑は小ぶりな画幅を持参し、六蔵に預けていく。その絵には大きな把手の付いた籠花入が描き込まれていた。六蔵はその絵を見て、竹で籠花入を作りあげる。それが評判になる。
その後、森田宗佑が中村左膳と判明し、左膳は江戸送りとなるのだが、六蔵は西町奉行の総与力が頼まれ事を受ける羽目になる。
この話、史実をうまく取り入れた短編小説で、さまざまな事実情報が凝縮されて書き込まれていて興味をそそられる。日本左衛門、中村左膳は実在した盗賊。
短編の末尾は「中村左膳は『宗旦伝授聞書』まで読んでいたのであった」の一文で締めくくられている。
<宗旦狐>
この短編は著者が独自に創作された話である。「あとがき」に著者はこう記している。「わたしが作り上げた宗旦狐の話が、やがて歳月が経ったとき、かれ(=宗旦:注記)の逸話の一つに数え入れられたら幸いだと思っている」と。
このフィクション、さりげなく江戸時代の伝承として語っても十分面白いと思う。逸話のひとつになったら都市伝説として楽しいと思う。ちょっと本を寝かしすぎた!もっと早く楽しんでいれば良かった・・・・と思う次第。筆に絡んで筆屋太左衛門と宗旦狐との間での駆け引き・化かし合いのお話とだけ述べておこう。
宗旦狐の伝承はこういうものである。駒札にも触れられていたと思う。ここでは別のソースから引用する。
「相国寺境内に一匹の古狐が雲水に化けて住んでいたところ、千利休の孫宗旦が茶会を開くにあたり、狐が宗旦に化け見事なお点前を見せたという。また、門前の豆腐屋の破産を神通力で助けるなどしたことから、人々から宗旦狐と呼ばれ、開運の神として信仰を得て、稲荷として祀られた。」(『京都・観光文化検定試験 公式テキストブック』 監修・森谷尅久 京都商工会議所編 淡交社 p238)
<中秋十五日>
中川安左衛門は篠山藩・青山家譜代衆の一人で、今では郡奉行所の上席である。彼は山根太郎助とは幼馴染みであり、5年前までは刎頸の友としての親交を重ねる間柄だった。太郎助の祖父は、お国替えで青山家が国入りする折に茶を点てて献上したことで、殿様から秋月等観(しゅうげつとうかん)の「月夜山水図」を頂戴したのである。そのとき祖母は殿様からの頂き物の名幅では売り払うこともできないとこぼしたという。しかし、山根家では、中秋の茶会を開くときにはその名幅を掛けて行う慣例となったのだ。安左衛門は招かれるといつも上席に坐らされる仲だったのだ。それが5年前にぱったりと往き来が絶える事態になった。安左衛門には全く思い当たる原因がない。山根太郎助は中秋の茶会をその後も続けているのである。安左衛門は中秋の茶会を夢にまで見る。
安左衛門の嫡男・清一郎は当代青山忠講(ただつぐ)の近習として江戸詰めであるが、主君とともに帰国していた。孫の清一郎が戻っている折から、祖母は中秋の月見の宴をすることにした。そして、祖母は月見の宴にふさわしい画幅を思い出して、床の間に掛けたのである。不審に思った安左衛門は母からある経緯を聞く。その理由が判明したことから思わぬめ事態となるが、めでたい結末を迎えるというエピソード。
一幅の茶掛けがもたらす人間関係の機微がさらりと描き出されている。清一郎の行動と決断が読ませどころとなる。
<短日の霜>
松江藩士岩淵右衛門七(えもしち)と妻のお岩は、父十左衛門の仇討ちのため、二十年も前に国許を出て、諸国をめぐり歩き、仇の所在がつかめないまま、今は京の「本阿弥辻子」も称される町の裏店に住む。右衛門七は心臓を病み、寝たり起きたりの生活。父は仲の良い朋輩だった北山次郎兵衛との間で碁石一つのことで刃傷沙汰となり斬られたのである。
長屋の女たちに何かと親切にされつつ、お岩は呉服屋の枡屋から委された縫い仕事で暮らしをまかなっていた。そのお岩は自分のために、茶碗の仕覆(しふく)を縫い上げていた。それが反物を長屋にとどけにきた番頭の重兵衛が偶然目に止めた。それが縁で、大坂の茶道具商・分銅屋善左衛門が仕覆を仕立てられる職人に死なれて困っているということへの口利きを受けることになる。まず、古瀬戸の茶入れの仕覆を金剛金襴といわれる名物裂で仕立てる仕事が、お岩に依頼されてくる。その後も年に数回、仕覆を仕立てる仕事がもたらされる。
その仕覆が、不思議な縁で北山次郎兵衛に繋がって行くというストーリーである。仕覆が仇討ち話を結末に導くことになる。茶道具の脇役である仕覆がストーリーを展開する仕掛けになるところがおもしろい。
そういえば、茶道に関連した展覧会で、名物裂で仕立てられた仕覆自体が展示品となっているのを時折目にする。
<愛宕の剣>
宇治茶商の一家、上林牛加家の奉公人で、宇治茶の栽培に携わる甚兵衛とその娘和哥にまつわる話である。甚兵衛はお屋形の指図で、愛宕山の威徳院さまにお茶壺をいただきにいくという役目に加わるようにと手代の菊田伊徳から告げられる。お茶壺役に加わる臨時の仕事で畑仕事が遅れるのが気になることに加えて、一緒に従う和哥には、嫌なことがあったのだ。それは宗家味卜家の御茶壺役に気をつかう必要のある事の他に、味卜家に奉公する女癖が悪く評判の良くない安蔵が、和哥に目をつけていて、山道を登る和哥が遅れ気味になると、和哥の尻を触るというふざけをするのである。安蔵に恥をかかせて怨まれるのも嫌だし、宗家や他の御茶壺役衆の手前もあり、今までは我慢をしてきたのである。
だが、お屋形さまからの指図に従い、この臨時の任務につくことになる。今回の役目でも、道中で安蔵がちょっかいを出してくる事態に・・・・。だが、和哥が「蒼白だった顔をぱっとほころばせた」という結末に至り、ほっとさせる短編である。
この短編、茶所宇治の歴史と上林家について、その概要を書き込んでいるところが、初歩の茶人向けとしては、茶道誌の中で楽しみながら学べる短編となったのではないかと思う。長年宇治に住む私にとっても、学ぶことがいろいろある。その副産物がうれしい。
<師走の書状>
十年ほど前までは、四条東洞院近くで扇商「信貴屋」の店を構え、三代目の遣り手として同業者からは恐れられ、事実とは異なる悪い噂や評判に晒された六左衛門が主人公である。その六兵衛がある事件から零落し、上京・御所八幡町の裏長屋住まいとなり、今は病の床につく境遇である。
この短編は、六兵衛の全盛の頃の同業仲間の実態や何故零落する羽目になったかを明らかにしていく。14歳になる娘のお志穂は先斗町遊郭の茜屋に奉公し、10歳の弟、雅之助はろうそく屋の小僧奉公をしている状態である。病床の父の枕屏風の表紙が大きく破れて剥がれた状態になっている。
そんな陋屋に昔、信貴屋の手代をしていた佐吉が用があって奈良から京に出て来て、立ち寄ったのである。彼がその破れて剥がれた枕屏風をふと目にしたことが、師走に吉を呼び込む契機になるというストーリーである。
同業者間の人間関係の機微、人が何を捉えて人物評価するかという局面などを扱うと共に、「猫に小判」の逆バージョン的な面白さの視点を取り込んでいるのが興味深いところである。知が武器になるという結末がおもしろい。
<仲冬の月>
この短編が冒頭に記したが、連載短編とは初出が異なる。ページ数も35ページと連載短編の二倍を上回る短編小説である。利休七哲の一人「瀬田掃部」が主人公に取り上げられている。
利休七哲という言葉と該当する数名の名前は知っていても、その域を出ない。ここに取り上げられた瀬田掃部がその一人とは知らなかった。そういう意味でも興味を持って読めた。著者は瀬田掃部の素性はほとんどわかっていないと言う。近江の「瀬田」を本貫とする武士で、関白秀次の事件に連座して死刑に処せられたことが、多くの茶書で共通するくらいだという。
それ故に、著者は少ない史実を織り込んで、瀬田掃部という人物の一側面を鮮明に描く創作意欲をそそられたのではないかと思う。著者は瀬田掃部が北条氏家臣だったという古伝の立場をとりストーリーを紡ぎ出していく。
冒頭は、瀬田掃部が前年に預けられた西山の地の手入れを怠っている竹藪から、掃部に長年つき従う長吉に指示して、3本の孟宗竹を選び切り出させる場面から始まる。そして、小田原陣中の日々に回想が及んでいく。その回想は千利休が伊豆韮山の竹で花筒を拵えたことに繋がる。
3本の孟宗竹の根元を用い、掃部が一重切れの花入れを三つつくるという作業の過程と掃部の回想がない交ぜになってストーリーが進む。関白秀次の自刃の背景、更に遡り、掃部が北条早雲の第三子である幻庵(=長綱)に仕えていた頃の話、その後の諸国遍歴の一端など。そして、千利休が聚楽第の屋敷で自刃させられたとき、屋敷の警護を瀬田掃部が石田治部少輔に命じられたが、それを断ったことで上杉景勝にその役が回された描いている。この辺りは著者の創作なのか、史実を踏まえているのだろうか。
そして、最後に著者の瀬田掃部像が描き出されていく。
著者は瀬田掃部が死刑に処せられたという通説を捨て、太閤秀吉の俗権に対して、自ら見切りをつけ、行方をくらませるという選択をしたと描き出していく。なるほどと感じさせるうまいまとめ方である。
著者は掃部にこう語らせている。「利休さまが唱えられている茶湯は、宿業をそなえた人間がいかに生きていくかを、それでしめしたものじゃと解している。しかし、茶湯を行うにしても、はっきりした考えをもっておられるお人は少なかろう。ほとんどが俗世への格好だけじゃ」と。その後に続く地の文では、「千利休の唱えた佗び茶の精神は、美的価値の転換をいい、受け取り方を誤れば、人間にとってきわめて危険なものをふくみ、欺瞞となり得る要素を濃く持っていた」と記す。
そして、掃部自身の茶の湯への考えは、「具体的にはわしは緊張を解きほぐすため茶湯を行っている。・・・・閑寂のなかで、一碗の茶を喫して戦いに思いを馳せる。人間の生き方についても同じじゃ。わしの茶湯はそんなものよ」と語らせる。
茶湯に関わる視点をさまざまに変えてアプローチしていて、面白くかつ興味深く読み終えた。
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補遺
関心を抱いた項目を少しネット検索してみた。一覧にしておきたい。
范寬 「谿山行旅図」 :「國立故宮博物院」
雪村周継 :「MIHO MUSEUM」
妙喜庵待庵 :「山崎観光案内所」
妙喜庵 ホームページ
日本の建築技術の展開-18 の補足2・・・・妙喜庵 待庵の実測図
下山眞司氏 :「建築をめぐる話・・・つくることの原点を考える」
待庵 :「岩崎建築研究室」
日本左衛門 :ウィキペディア
白浪五人男 ← 青砥稿花紅彩画 :ウィキペディア
神沢杜口 :ウィキペディア
秋月等観 作家詳細情報 :「徳島県立近代美術館」
山水図 伝秋月等観筆 :「夜噺骨董談義」
瀬田掃部 :「コトバンク」
茶道についてのお話3,4,5 :「西尾市」
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