私が「売茶翁」という名を知ったのは、2000年に京都国立博物館で「没後200年 若冲」特別展覧会で、若冲筆「売茶翁」が出展されていたときである。その時は、中国風の服を着た翁がお茶を売る姿として眺めた位だった。売茶翁という名称に再び出会ったのは、2013年6月、宇治市にある黄檗山萬福寺を拝観したときである。境内の一隅で白壁の龍宮門形式の入口が目に止まり、傍に「売茶堂」という石標が立っているのを見て、扉のないその門をくぐったことにある。「茶禅」という扁額のかかった小さな御堂があり、その近くに「売茶翁顕彰碑」があった。また、「喫茶去」という扁額を掲げた建物の入口も近くにあった。「売茶翁」という言葉がこのとき目に止まったので、写真を撮っておいた。しかし、若冲の絵とこの顕彰碑がぴたっと直結することはなかった。
そして、三度目の出会いがこの本のカバーを見たときだった。どこかで見た絵! やはり、伊藤若冲の絵だった。本の表紙に使われていたのである。次に興味を持ったのは、これが翻訳書だったこと。高校レベルの日本史でも出てくることがないと思える人物、ということは多分大半の日本人が知らない人物を外国の研究者が研究しているということである。それで、一層関心を持つことになった。
奥書を見ると、著者は雑誌 The Eastern Buddhist の編集者をへて、大谷大学に勤務し、現在は同大学名誉教授である研究者で、鈴木大拙『日本的霊性』や白隠の語録『荊叢毒蘂』他を英訳してもいる研究者である。
本書はタイトルにある通り、売茶翁の生涯をまとめた伝記である。
『大辞林』(初版:三省堂)を引くと、売茶翁について簡潔に説明されている。引用する。「江戸中期の禅僧。肥前の人。俗姓、柴山。僧号、月海。諡は元昭。黄檗山万福寺に学ぶ。京で煎茶を売り、風流の客と交わったのでこの名がある。晩年還俗して高遊外と称した。著『梅山茶種譜略』」と。
尚、『広辞苑』(初版:岩波書店)を引くと、売茶翁月海について、同種の説明以外に「畸人伝中の人となる。宝暦13年寂(1674 ママ -1763)」と記す。そして、別に元昭の遺風に学んだ臨済宗の僧で、三河無量寿寺を中興した方厳という人も売茶翁と称されたことに触れている。勿論こちらは本書の対象ではないが・・・・・。
本書の第1章「肥前時代」は柴山元昭の誕生から説き明かしていく。売茶翁は延宝3年(1675)5月16日、肥前国佐賀藩の城下町であった蓮池支藩の家臣、柴山家の三男として生まれた。父は蓮池藩の初代藩主鍋島直澄に医者として仕えていた。売茶翁は、肥前蓮池藩にあった黄檗宗の一末寺である龍津寺において、住職・化霖道龍の下で11歳にて得度した。得度名が月海元昭である。
月海は12歳の時、化霖の随行僧として宇治にある本山の萬福寺に来ている。この折、萬福寺の住職で渡来僧の独湛は月海の才を認め、漢文の偈頌を与えたという。月海は元禄16年、29歳のときに再度師の随行僧として萬福寺を訪れ、そのまま4年間、萬福寺禅堂での修行に入った。これが辞典に記された萬福寺に学ぶという時期である。月海は33歳で龍津寺に戻る。享保8年2月に大潮元皓が龍津寺の住持を継承することが決まると、一生雲水の如くに行乞流浪する意志を抱いていた月海は自由の身となり、翌年4月に龍津寺を出た。この時月海は50歳になっていた。
徳川幕藩体制の基礎が確立されほぼ100年が過ぎ、人々の自由が規律維持のために制限されるような時代に生きた月海が、売茶翁と称される旧習にとらわれない生き方を京都で送ったのである。この書は、時代の体制、宗派の組織体制などにとらわれない独自の生き様をした売茶翁を現存する諸墨蹟、手紙類、先人の売茶翁伝・諸研究の成果を渉猟し、わかりやすく、年代順に整理し語ってくれている。研究書であるが私のような一般読者にも読みやすいまとめ方である。翻訳自体も読みやすい訳出になっているのだと思う。
宗派や寺組織という体制から離脱し、風光の良い路傍にて煎茶を煮て茶を売り、なにがしかの銭を得ることで、生活の糧を得るという生き方。「この茶の代金は黄金百鎰から半文銭までいくらでもよい。ただで飲んでいってもよいが、ただ以上にはまけられない」(p56)という意味の文を銭筒に記していたという。
旧習から離れ、茶を売ることを介して、宗派を超えた様々な僧や文人、市井の人々などとの交わりを深めたそうである。売茶翁の生き方に感化され、売花翁、売酒翁、売菜翁、売炭翁という名を使いその生き方を手本する人々を生み出した一面もあるという。広辞苑の説明に出てくる第2の人物は、その典型例なのだろう。
江戸時代の京都で活躍した三大文人画家は皆、売茶翁と交わりを持ち、その影響を受けているという。彭城百川、池大雅、伊藤若冲である。伊藤若冲が売茶翁の肖像画をいくつも描いている。そのいくつかを私は上掲の展覧会で見た。本書にもその肖像画が引用掲載されている。また、山科李蹊筆、彭城百川筆並びに池大雅筆のそれぞれの売茶翁像(p56,p111、p147)を本書で初めて目にした。それぞれの描法に違いがあり、それらを対比的に眺めるのもおもしろい副産物である。彭城百川と売茶翁の合作というのも掲載されている。
本書の読ませどころと思う点を列挙してみよう。
1. 売茶翁の人生を年代順で眺めることにより、その人生ステージがわかりやすい。
大きくは次のように捕らえることができる。
肥前時代: 生誕、修行の経緯、龍津寺での生活
京都移住: 売茶という処世での流浪僧生活、京での度重なる転居と出店地の移動
伏見街道の二ノ橋付近「通仙亭」 ⇒ 三十三間堂と方広寺の間 ⇒
双ヶ丘 ⇒ 相国寺林光院 ⇒ 聖護院村
一時帰藩: 肥前への帰国の理由、還俗の決断
再度京へ: 在家居士「高遊外」としての売茶翁の生き様、最後の十年の生き様
売茶翁の京での転居は、売茶地とも絡み、京の景勝地を転々とする形である。当時の京の景勝地の状況が資料を引用しながら、説明されていて、現代の各地の状況を思い浮かべながら、対比的に読むと興味深さが増す。
2. 売茶翁の人生ステージにおける売茶翁の漢詩(墨蹟)や手紙を主体にしながら、京の文人たちの視点や先人の研究成果を取り入れた分析と説明が具体的でわかりやすい。
著者は、「売茶翁は、自らの禅の目的と自己自身とを徹底して一致させようとした」(p22)という論点で展開していく。当時の人々にとり、売茶翁の生き方は模範となったという。
逆に言えば、売茶翁の生き様と関わり、交流した京の文人、僧侶等の広がりの全容がわかるところが興味深い。特に売茶翁との関わりが深かった人の名前を小見出しとして論じていく手法は、読者にとっては売茶翁の人間関係の濃淡や諸局面が見えて来ておもしろい。
3. 江戸時代における「茶」についての知識を整理できる。
抹茶を使う茶道に対し、売茶翁は煎茶を提供した。それ故、煎茶の祖とされてきた。
煎茶の開発史的な局面が組み込まれ記述される。永谷宗円の開発した茶や越渓茶など
中国の茶にも触れられている。
著者は、次の見解を記す。「昔(南宋)の蘇東波が、詩文を通じて真に仏道を行じたように、売茶翁は茶を売ることによって、仏道の道を行じたのである。茶を通じて真に仏道を行じた売茶翁以外の者は、村田珠光と利休、そして千宗旦しかいない」(p83)と。
売茶翁は茶を売ながら、数多くの漢詩を詠んでいる。それは漂泊の僧あるいは居士として、仏道を行じる己の思いの表出・発露であり、それらの漢詩は売茶翁の偈語でもある。漢詩の読み下し文の一節をいくつか引用し、ご紹介しよう。
鴨河清き処、衣鉢を洗えば、名月波心、影自ずから円なり p61
「卜居三首」 ⅰ
閙中(どうちゅう)用い得たり、静中の赴き。随処、縁に任せて立処に真なり。 p61
「卜居三首」 ⅱ
自ら笑う、東西漂泊の客。是れ吾れ、四海即ち家と為す。 p62
「卜居三首」 ⅲ
諸君、笑うこと莫かれ、生涯の乏しきことを。貧、人を苦しめず。人、貧に苦しむ。 p71
「舍那殿松下開茶店」
茶を煮て特に試む、菊潭の水 洗い尽くす、人間胸裏の埃 p73
「遊ぶ高台寺煮茶」
売茶の生計、衰躬を養うに足る。
儒に非ず、釈に非ず、また通に非ず。一箇の風顛、瞎禿翁(かつとくおう) p114
「自賛三首」
心頭に無事なれば、情、自ずから寂に、
事上に無心なれば、境、都(すべ)て如なり。 p136
「自警偈」
本書を読み、売茶翁が生涯に唯一の著作をしているのを知った。それは『梅山種茶略譜』で梅山とは栂尾のことという。高山寺の密弁に依頼され、日本茶史における高山寺の役割を説明する書物をまとめたのだとか。
そして、売茶翁の最後が近くなった頃、売茶翁の友人たちが売茶翁の96の偈首を収録した『売茶翁偈語』(宝暦13年:1763)をまとめたという。その表紙の扉絵に若冲が「売茶翁」を描いている。
エピローグとして、著者が本書を執筆中に発見された手紙資料という新情報を紹介し、分析と孝察をまとめている。そういう意味でも、売茶翁研究の先端に位置づけられる単行本になるのだろうと思う。
最後に、著者が触れている2つのことを記しておこう。
一つは、「近年、学者たちおあいだでは、売茶翁こそが18世紀前半の京都において開花した文化人なのではないか、と言われ出している」(p21)という動きである。他方は、プロローグに記されていることである。アメリカでは、売茶翁を詩僧としての存在価値に着目する動きと、煎茶の愛好家が増えることに併せて、売茶翁により表現される禅と売茶翁の生涯を賞賛し受け入れる動きがみられるという。
つまり、売茶翁の生き様、その存在が現代において再認識され、注目される時代がくるのかもしれない。
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本書から関心を抱いた事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
高遊外売茶翁顕彰会 ホームページ
売茶翁の碑(売茶翁没後二百五十年記念碑)(京都市左京区) :「京都風光」
売茶翁 :ウィキペディア
萬福寺 ホームページ
萬福寺 :「コトバンク」
龍津寺跡 :「ようこそ肥前国神埼郡蓮池(佐賀市蓮池町)へ」
【食(茶の文化)】煎茶道の祖「高遊外売茶翁」を訪ねて :「うんちくの旅」
売茶翁と顕彰碑 :「さがの歴史・文化お宝帳」
生誕300年記念 若冲「丹青活手妙通神」 :「黒川孝雄の美」
一碗 茶・チャ・ちゃ 最終回 売茶翁と煎ちゃ :「植田信隆オフィシャルサイト」
若冲も憧れた清風の人 売茶翁 ひととき 2017年5月号 :「Wedge」
煎茶通#売茶翁#肥前通仙亭 :「SAGA MAGA」
美術館 玉手箱4「売茶翁 肖像と書」 :「佐賀県立博物館 佐賀県立美術館」
売茶翁 :「伏見通信」
売茶翁の続
佐賀)若冲の師・売茶翁の顕彰碑 16日に除幕式と講演 2016.1014
:「朝日新聞 DIGITAL」
美術史家・狩野さん、売茶翁と若冲の関わり紹介 2016.10.22 :「佐賀新聞」
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そして、三度目の出会いがこの本のカバーを見たときだった。どこかで見た絵! やはり、伊藤若冲の絵だった。本の表紙に使われていたのである。次に興味を持ったのは、これが翻訳書だったこと。高校レベルの日本史でも出てくることがないと思える人物、ということは多分大半の日本人が知らない人物を外国の研究者が研究しているということである。それで、一層関心を持つことになった。
奥書を見ると、著者は雑誌 The Eastern Buddhist の編集者をへて、大谷大学に勤務し、現在は同大学名誉教授である研究者で、鈴木大拙『日本的霊性』や白隠の語録『荊叢毒蘂』他を英訳してもいる研究者である。
本書はタイトルにある通り、売茶翁の生涯をまとめた伝記である。
『大辞林』(初版:三省堂)を引くと、売茶翁について簡潔に説明されている。引用する。「江戸中期の禅僧。肥前の人。俗姓、柴山。僧号、月海。諡は元昭。黄檗山万福寺に学ぶ。京で煎茶を売り、風流の客と交わったのでこの名がある。晩年還俗して高遊外と称した。著『梅山茶種譜略』」と。
尚、『広辞苑』(初版:岩波書店)を引くと、売茶翁月海について、同種の説明以外に「畸人伝中の人となる。宝暦13年寂(1674 ママ -1763)」と記す。そして、別に元昭の遺風に学んだ臨済宗の僧で、三河無量寿寺を中興した方厳という人も売茶翁と称されたことに触れている。勿論こちらは本書の対象ではないが・・・・・。
本書の第1章「肥前時代」は柴山元昭の誕生から説き明かしていく。売茶翁は延宝3年(1675)5月16日、肥前国佐賀藩の城下町であった蓮池支藩の家臣、柴山家の三男として生まれた。父は蓮池藩の初代藩主鍋島直澄に医者として仕えていた。売茶翁は、肥前蓮池藩にあった黄檗宗の一末寺である龍津寺において、住職・化霖道龍の下で11歳にて得度した。得度名が月海元昭である。
月海は12歳の時、化霖の随行僧として宇治にある本山の萬福寺に来ている。この折、萬福寺の住職で渡来僧の独湛は月海の才を認め、漢文の偈頌を与えたという。月海は元禄16年、29歳のときに再度師の随行僧として萬福寺を訪れ、そのまま4年間、萬福寺禅堂での修行に入った。これが辞典に記された萬福寺に学ぶという時期である。月海は33歳で龍津寺に戻る。享保8年2月に大潮元皓が龍津寺の住持を継承することが決まると、一生雲水の如くに行乞流浪する意志を抱いていた月海は自由の身となり、翌年4月に龍津寺を出た。この時月海は50歳になっていた。
徳川幕藩体制の基礎が確立されほぼ100年が過ぎ、人々の自由が規律維持のために制限されるような時代に生きた月海が、売茶翁と称される旧習にとらわれない生き方を京都で送ったのである。この書は、時代の体制、宗派の組織体制などにとらわれない独自の生き様をした売茶翁を現存する諸墨蹟、手紙類、先人の売茶翁伝・諸研究の成果を渉猟し、わかりやすく、年代順に整理し語ってくれている。研究書であるが私のような一般読者にも読みやすいまとめ方である。翻訳自体も読みやすい訳出になっているのだと思う。
宗派や寺組織という体制から離脱し、風光の良い路傍にて煎茶を煮て茶を売り、なにがしかの銭を得ることで、生活の糧を得るという生き方。「この茶の代金は黄金百鎰から半文銭までいくらでもよい。ただで飲んでいってもよいが、ただ以上にはまけられない」(p56)という意味の文を銭筒に記していたという。
旧習から離れ、茶を売ることを介して、宗派を超えた様々な僧や文人、市井の人々などとの交わりを深めたそうである。売茶翁の生き方に感化され、売花翁、売酒翁、売菜翁、売炭翁という名を使いその生き方を手本する人々を生み出した一面もあるという。広辞苑の説明に出てくる第2の人物は、その典型例なのだろう。
江戸時代の京都で活躍した三大文人画家は皆、売茶翁と交わりを持ち、その影響を受けているという。彭城百川、池大雅、伊藤若冲である。伊藤若冲が売茶翁の肖像画をいくつも描いている。そのいくつかを私は上掲の展覧会で見た。本書にもその肖像画が引用掲載されている。また、山科李蹊筆、彭城百川筆並びに池大雅筆のそれぞれの売茶翁像(p56,p111、p147)を本書で初めて目にした。それぞれの描法に違いがあり、それらを対比的に眺めるのもおもしろい副産物である。彭城百川と売茶翁の合作というのも掲載されている。
本書の読ませどころと思う点を列挙してみよう。
1. 売茶翁の人生を年代順で眺めることにより、その人生ステージがわかりやすい。
大きくは次のように捕らえることができる。
肥前時代: 生誕、修行の経緯、龍津寺での生活
京都移住: 売茶という処世での流浪僧生活、京での度重なる転居と出店地の移動
伏見街道の二ノ橋付近「通仙亭」 ⇒ 三十三間堂と方広寺の間 ⇒
双ヶ丘 ⇒ 相国寺林光院 ⇒ 聖護院村
一時帰藩: 肥前への帰国の理由、還俗の決断
再度京へ: 在家居士「高遊外」としての売茶翁の生き様、最後の十年の生き様
売茶翁の京での転居は、売茶地とも絡み、京の景勝地を転々とする形である。当時の京の景勝地の状況が資料を引用しながら、説明されていて、現代の各地の状況を思い浮かべながら、対比的に読むと興味深さが増す。
2. 売茶翁の人生ステージにおける売茶翁の漢詩(墨蹟)や手紙を主体にしながら、京の文人たちの視点や先人の研究成果を取り入れた分析と説明が具体的でわかりやすい。
著者は、「売茶翁は、自らの禅の目的と自己自身とを徹底して一致させようとした」(p22)という論点で展開していく。当時の人々にとり、売茶翁の生き方は模範となったという。
逆に言えば、売茶翁の生き様と関わり、交流した京の文人、僧侶等の広がりの全容がわかるところが興味深い。特に売茶翁との関わりが深かった人の名前を小見出しとして論じていく手法は、読者にとっては売茶翁の人間関係の濃淡や諸局面が見えて来ておもしろい。
3. 江戸時代における「茶」についての知識を整理できる。
抹茶を使う茶道に対し、売茶翁は煎茶を提供した。それ故、煎茶の祖とされてきた。
煎茶の開発史的な局面が組み込まれ記述される。永谷宗円の開発した茶や越渓茶など
中国の茶にも触れられている。
著者は、次の見解を記す。「昔(南宋)の蘇東波が、詩文を通じて真に仏道を行じたように、売茶翁は茶を売ることによって、仏道の道を行じたのである。茶を通じて真に仏道を行じた売茶翁以外の者は、村田珠光と利休、そして千宗旦しかいない」(p83)と。
売茶翁は茶を売ながら、数多くの漢詩を詠んでいる。それは漂泊の僧あるいは居士として、仏道を行じる己の思いの表出・発露であり、それらの漢詩は売茶翁の偈語でもある。漢詩の読み下し文の一節をいくつか引用し、ご紹介しよう。
鴨河清き処、衣鉢を洗えば、名月波心、影自ずから円なり p61
「卜居三首」 ⅰ
閙中(どうちゅう)用い得たり、静中の赴き。随処、縁に任せて立処に真なり。 p61
「卜居三首」 ⅱ
自ら笑う、東西漂泊の客。是れ吾れ、四海即ち家と為す。 p62
「卜居三首」 ⅲ
諸君、笑うこと莫かれ、生涯の乏しきことを。貧、人を苦しめず。人、貧に苦しむ。 p71
「舍那殿松下開茶店」
茶を煮て特に試む、菊潭の水 洗い尽くす、人間胸裏の埃 p73
「遊ぶ高台寺煮茶」
売茶の生計、衰躬を養うに足る。
儒に非ず、釈に非ず、また通に非ず。一箇の風顛、瞎禿翁(かつとくおう) p114
「自賛三首」
心頭に無事なれば、情、自ずから寂に、
事上に無心なれば、境、都(すべ)て如なり。 p136
「自警偈」
本書を読み、売茶翁が生涯に唯一の著作をしているのを知った。それは『梅山種茶略譜』で梅山とは栂尾のことという。高山寺の密弁に依頼され、日本茶史における高山寺の役割を説明する書物をまとめたのだとか。
そして、売茶翁の最後が近くなった頃、売茶翁の友人たちが売茶翁の96の偈首を収録した『売茶翁偈語』(宝暦13年:1763)をまとめたという。その表紙の扉絵に若冲が「売茶翁」を描いている。
エピローグとして、著者が本書を執筆中に発見された手紙資料という新情報を紹介し、分析と孝察をまとめている。そういう意味でも、売茶翁研究の先端に位置づけられる単行本になるのだろうと思う。
最後に、著者が触れている2つのことを記しておこう。
一つは、「近年、学者たちおあいだでは、売茶翁こそが18世紀前半の京都において開花した文化人なのではないか、と言われ出している」(p21)という動きである。他方は、プロローグに記されていることである。アメリカでは、売茶翁を詩僧としての存在価値に着目する動きと、煎茶の愛好家が増えることに併せて、売茶翁により表現される禅と売茶翁の生涯を賞賛し受け入れる動きがみられるという。
つまり、売茶翁の生き様、その存在が現代において再認識され、注目される時代がくるのかもしれない。
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高遊外売茶翁顕彰会 ホームページ
売茶翁の碑(売茶翁没後二百五十年記念碑)(京都市左京区) :「京都風光」
売茶翁 :ウィキペディア
萬福寺 ホームページ
萬福寺 :「コトバンク」
龍津寺跡 :「ようこそ肥前国神埼郡蓮池(佐賀市蓮池町)へ」
【食(茶の文化)】煎茶道の祖「高遊外売茶翁」を訪ねて :「うんちくの旅」
売茶翁と顕彰碑 :「さがの歴史・文化お宝帳」
生誕300年記念 若冲「丹青活手妙通神」 :「黒川孝雄の美」
一碗 茶・チャ・ちゃ 最終回 売茶翁と煎ちゃ :「植田信隆オフィシャルサイト」
若冲も憧れた清風の人 売茶翁 ひととき 2017年5月号 :「Wedge」
煎茶通#売茶翁#肥前通仙亭 :「SAGA MAGA」
美術館 玉手箱4「売茶翁 肖像と書」 :「佐賀県立博物館 佐賀県立美術館」
売茶翁 :「伏見通信」
売茶翁の続
佐賀)若冲の師・売茶翁の顕彰碑 16日に除幕式と講演 2016.1014
:「朝日新聞 DIGITAL」
美術史家・狩野さん、売茶翁と若冲の関わり紹介 2016.10.22 :「佐賀新聞」
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