「世の僧侶たちは時に御仏に少しでも近付かんとして、ある者は水中に我が身を投じ、ある者は自ら燃え盛る焔に身を投じるという。もしかしたら京を荒れ野に変えるが如き病に焼かれ、人としての心を失った者に翻弄される自分たちもまた、この世の業火によって生きながら火定入滅(かじょうにゅうめつ)を遂げようとしているのではないか。」(p271-272)という一節がある。この小説のタイトルは、この火定入滅から取られたのだろう。火定の意味は、この引用の第一文の後半に説明されている。
手許の辞書を引くと「仏道の修行者が、自らを火の中に投じることによって、入定(にゅうじょう)すること」(『日本語大辞典』講談社)と説明されている。
この文に出てくる「京」は奈良の平城京をさす。「荒れ野に変えるがごとき病」を火に例えている。その病とは? 「裳瘡(もがさ、天然痘)」である。
天平2年(730)4月、聖武天皇の皇后・藤原光明子が悲田院と施薬院を設立した。悲田院は孤児や飢人を救済する施設、施薬院は京内の病人を収容・治療する施設である。それから7年後、新羅使として派遣された大伴三中の一行が、新羅で蔓延していた裳瘡に罹患して一行の人々の一部を帰路に病死させながら帰国する。感染者が原因となり、京内に裳瘡が広がっていくことになる。当初は原因不明、裳瘡とわかってもそれを根絶させる治療薬がわからない状況下で、地獄の業火に苛まれるかのように苦しみ死ぬ罹患者たち、それに対処する施薬院の医師と補助者たちの悪戦苦闘の様相がこれでもかこれでもかと描かれる。一方で、恐ろしい姿で死に往く人々は疫神(えきじん)が原因だとして狂奔する人々が現出する。そこにはそれを先導する輩がいる。ひと夏の苛烈なる惨状と人心の動揺・狂乱がある意味執拗なまでに描き込まれていく歴史小説である。
『続日本紀(上)全現代語訳』(宇治谷孟・講談社学術文庫)を読むと、聖武天皇の天平9年4月以降の条に次のような記録がある。「4月17日 参議・民部卿で正三位の藤原朝臣房前が薨じた。大臣待遇の葬送をすることにしたが、その家では固持して受けなかった。房前は贈太政大臣で正一位の不比等の第二子である。」「4月19日 太宰府管内の諸国では瘡のできる疫病がよくはやって、人民が多く死んだ」この後に、4月以来疫病と旱魃が起こったことに対し、神々に祈祷し、天神地祇に供物を捧げて祀りをし、一方で天下に大赦を行ったことが記されている。「6月1日 朝廷での執務を取りやめた。諸官司の官人が疫病にかかっているからである」さらに、6月10日大宅朝臣大国、6月11日小野朝臣老、6月11日長田王、6月23日多治比真人県守、7月5日大野王、7月13日藤原朝臣麻呂、7月17日百済王郎虞、7月25日藤原朝臣武智麻呂、8月1日橘宿禰左為、8月5日藤原朝臣宇合などが次々に死亡したことが記されている。この巻十二の末尾・天平9年12月の最後は「この年の春、瘡のある疫病が大流行し、はじめ筑紫から伝染してきて、夏を経て秋にまで及び、公卿以下、天下の人民の相ついで死亡するものが、数えきれないほどであった。このようなことは近来このかたいまだかつてなかったことである」という文で締めくくられている。その事実記録からは、その実態を私のような凡人にはリアルには想像できない。それどころか、深く考えずに読み過ぎて行くだけになるだろう。
このような点的史実情報が、フィクションを加えながらもこれほどリアルに描き出されていけるものなのかと感歎する。
この歴史小説は、この『続日本紀』に記された史実記録を背景にして、瘡のある疫病が流行した状況を実に巧みにストーリー化している。天然痘という病原菌の蔓延に平城京という都市内で、帝を含む貴人・為政者たちから医師・一般庶民・罪人までのあらゆる人々がどのように対応していったのか、その時代と人々を描き出すことがこの小説のテーマなのだろう。
大きく捉えると、このストーリーには3つの筋が相互に絡み合っていく。その筋の主な登場人物で、その背景に連なる一群の人々の代表者となるのが3人いる。
一人は蜂田名代(はちだのなしろ)である。彼は施薬院の官人となった下端役人。上司となるのが施薬院の庶務を一手に担う高志史広道(こしのふみひとひろみち)であり、名代は広道にこき使われ、施薬院では医師の手伝いを行っている。このストーリーでは、平城京に住む一般庶民に一番近い立場であり、病に苦悶する庶民レベルの目線で思いを語っていく。裳瘡に罹患した病人が施薬院に担ぎ込まれてくると第一線でその世話をする立場に投げ込まれ悪戦苦闘していく。名代は嫌々施薬院の仕事をしつつ、明日にでも逃げだそうかと考える段階に居たのだが、裳瘡の流行進展の中で悪戦苦闘しつつ、意識変革をしていくことになり、その姿が描かれる。名代を一筋の流れの代表と捉えると、彼に連なる人々には、施薬院・悲田院の財政を預かる慧相尼、悲田院で養われている子供達二十余人の面倒をみている僧智積、そして京の庶民・病人が居る。それらの人々の苦しみを見つめる視点が名代にある。私にはこの名代の目線、思いと行動がこのストーリーの中軸になっていると思う。
二人目は猪名部諸男。ストーリーの冒頭では、正三位参議中務卿兼中衛大将・藤原房前卿の家令という一時的身分で登場する。広道に同行して名代が宮城内の典薬寮に、新羅からの到来物払い下げ品の中の生薬の購入に出向く。その折、諸男が到来物の薬を高値で買い占めていたことで、広道・名代と対立し相互に面識ができる。両者の対立がもの別れになろうとした時、30前後の官人が広縁の端で倒れる。熱を帯びているのか顔を真っ赤にしていた。その官人は遣新羅使に同行し、帰国した男だった。その男と一緒に新羅に行った同輩の羽栗と呼ばれた官人は怯えて立ちつくし近付かない。諸男がその倒れた男を送っていく立場になる。結局、房前の邸の一隅で諸男がその官人の治療と世話をする羽目になる。だが、それが事の始まりでもあった。というのは、その新羅帰りの官人が感染者であり、発病したのだ。その官人の病死は、諸男が房前の邸から追い出される原因にもなる。
なぜ、家令身分の諸男が治療できるのか?
諸男は低い身分から薬生を経て、努力して内薬司に務める侍医にまでなっていたのだが、帝に奉る薬の調剤を誤ったという濡れ衣を掛けられたのである。同僚の侍医の誰かに罠にかけられた。そして、終身の徒刑(ずけい、懲役刑)に処せられて、獄舎に放り込まれた罪人に身を落とす。その諸男が大赦により自由の身になったのである。諸男には己を貶めた者が誰か、恨みを晴らしたいという怨恨が彼を突き動かしていく。それが、同じ獄房で共に過ごし、同様に大赦により放免となった宇須と虫麻呂との関わりを深めていく。宇須は悪知恵の働く悪人であり、裳瘡の蔓延する中で常世常虫という神をでっち上げ、霊験あらたかな禁厭札(まじないふだ)を京内で売り始める。諸男はその片棒を担ぐという成り行きに踏み込んで行くが、常に怨念という内心の葛藤が彼の生き様の根源につきまとう。その諸男が名代を介して施薬院へと結びついていく。そこには切迫した理由があった。
諸男の筋には、裳瘡の蔓延の中で、宇須という悪人が関与し、常世常虫というでっち上げられた神を介して、恐怖心で動揺し狂奔する一群の人々が連なって行く。
三人目が綱手である。彼は施薬院に住み込み、治療を実質的には一人で担う医師。里中医(町医師)である。その対極に居る官吏としての医師たちの存在が対比的に浮かび上がってくる。綱手の医師という筋には、薬を扱う元官吏だった比羅夫など、当時の「医・薬」の世界の実態が連なって行く。綱手には誰にも語らなかった過去があった。施薬院に担ぎ込まれた病人を一目見るなり疫神と呼び、薬を商う比羅夫が遁走したその病気が、かつて都に蔓延したときに、罹患し命を取り留めた経験者でもあったのだ。名代が比羅夫との関わりから、その事実に気づいていく。増加しつづけ、担ぎ込まれてくる裳瘡の罹患者たちに対する治療の第一線での手伝いとして、綱手は名代をこき使っていく。綱手はその病の治療法を見つけようと悪戦苦闘する。
治療という筋に連なる者がいる。綱手の前に、己の過去を伏せて絹代という女性が施薬院の治療に協力すると言い登場してくる。その有能さに綱手は助けられることにもなる。そして、施薬院での協力という裏に絹代が重要な意図を秘めていたことが明らかになっていく。一方で、綱手というコインの裏面になるかのように、宮廷に繋がる公の医師たちの有り様が点描される。
いわば、この3つの筋が絡み合う形で進展していく。裳瘡の治療法を如何にして発見するかということが、裳瘡の蔓延を堰き止め、人々を一人でも救済する決め手となっていくのだが・・・・・・・。
この歴史小説は平城京に都があった時代の一時期と人間模様を描き出すことをテーマにしている。だが、そこに見られる人間像、恐怖心を抱きデマに突き動かされいく一群の人間の姿などは、現代の人間の行動、人間模様にそのまま通底するところがあるように思う。悲しいかな、人間の生き様の普遍性、くり返しがあると言えよう。現在のクライシス発生の状況における人間群像の有り様と様々な行動パターンを、作者は平城京と天然痘に仮託し、歴史小説の中で描くという方法を選択したのかもしれない。
ご一読ありがとうございます。
↑↑ クリックしていただけると嬉しいです。
この作品に関連して、関心の波紋を広げてみた。一覧にしておきたい。
天然痘(痘そう)とは :「NIID国立感染症研究所」
天然痘 :ウィキペディア
悲田院 :ウィキペディア
施薬院 :ウィキペディア
光明皇后の施薬院・悲田院と施浴伝説 平尾真智子氏 pdfファイル
光明皇后 悲田院、施薬院を作り慈善事業を始める 高嶋久氏 :「APTF」
平安前期の「悲田院」「施薬院」の名記した木簡出土 :「歴史くらぶ」
遣新羅使 :ウィキペディア
遣新羅使の墓 :「ようこそ 壱岐へ」
天平外交史年表 724(神亀1)~764(天平宝字8) :「波流能由伎 大伴家持の世界」
光明皇后 :ウィキペディア
光明皇后 :「コトバンク」
藤原前房 :ウィキペディア
インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。
(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
↑↑ クリックしていただけると嬉しいです。
徒然に読んできた著者の作品の中で印象記を以下のものについて書いています。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『泣くな道真 -太宰府の詩-』 集英社文庫
『腐れ梅』 集英社
『若冲』 文藝春秋
『弧鷹の天』 徳間書店
『満つる月の如し 仏師・定朝』 徳間書店
手許の辞書を引くと「仏道の修行者が、自らを火の中に投じることによって、入定(にゅうじょう)すること」(『日本語大辞典』講談社)と説明されている。
この文に出てくる「京」は奈良の平城京をさす。「荒れ野に変えるがごとき病」を火に例えている。その病とは? 「裳瘡(もがさ、天然痘)」である。
天平2年(730)4月、聖武天皇の皇后・藤原光明子が悲田院と施薬院を設立した。悲田院は孤児や飢人を救済する施設、施薬院は京内の病人を収容・治療する施設である。それから7年後、新羅使として派遣された大伴三中の一行が、新羅で蔓延していた裳瘡に罹患して一行の人々の一部を帰路に病死させながら帰国する。感染者が原因となり、京内に裳瘡が広がっていくことになる。当初は原因不明、裳瘡とわかってもそれを根絶させる治療薬がわからない状況下で、地獄の業火に苛まれるかのように苦しみ死ぬ罹患者たち、それに対処する施薬院の医師と補助者たちの悪戦苦闘の様相がこれでもかこれでもかと描かれる。一方で、恐ろしい姿で死に往く人々は疫神(えきじん)が原因だとして狂奔する人々が現出する。そこにはそれを先導する輩がいる。ひと夏の苛烈なる惨状と人心の動揺・狂乱がある意味執拗なまでに描き込まれていく歴史小説である。
『続日本紀(上)全現代語訳』(宇治谷孟・講談社学術文庫)を読むと、聖武天皇の天平9年4月以降の条に次のような記録がある。「4月17日 参議・民部卿で正三位の藤原朝臣房前が薨じた。大臣待遇の葬送をすることにしたが、その家では固持して受けなかった。房前は贈太政大臣で正一位の不比等の第二子である。」「4月19日 太宰府管内の諸国では瘡のできる疫病がよくはやって、人民が多く死んだ」この後に、4月以来疫病と旱魃が起こったことに対し、神々に祈祷し、天神地祇に供物を捧げて祀りをし、一方で天下に大赦を行ったことが記されている。「6月1日 朝廷での執務を取りやめた。諸官司の官人が疫病にかかっているからである」さらに、6月10日大宅朝臣大国、6月11日小野朝臣老、6月11日長田王、6月23日多治比真人県守、7月5日大野王、7月13日藤原朝臣麻呂、7月17日百済王郎虞、7月25日藤原朝臣武智麻呂、8月1日橘宿禰左為、8月5日藤原朝臣宇合などが次々に死亡したことが記されている。この巻十二の末尾・天平9年12月の最後は「この年の春、瘡のある疫病が大流行し、はじめ筑紫から伝染してきて、夏を経て秋にまで及び、公卿以下、天下の人民の相ついで死亡するものが、数えきれないほどであった。このようなことは近来このかたいまだかつてなかったことである」という文で締めくくられている。その事実記録からは、その実態を私のような凡人にはリアルには想像できない。それどころか、深く考えずに読み過ぎて行くだけになるだろう。
このような点的史実情報が、フィクションを加えながらもこれほどリアルに描き出されていけるものなのかと感歎する。
この歴史小説は、この『続日本紀』に記された史実記録を背景にして、瘡のある疫病が流行した状況を実に巧みにストーリー化している。天然痘という病原菌の蔓延に平城京という都市内で、帝を含む貴人・為政者たちから医師・一般庶民・罪人までのあらゆる人々がどのように対応していったのか、その時代と人々を描き出すことがこの小説のテーマなのだろう。
大きく捉えると、このストーリーには3つの筋が相互に絡み合っていく。その筋の主な登場人物で、その背景に連なる一群の人々の代表者となるのが3人いる。
一人は蜂田名代(はちだのなしろ)である。彼は施薬院の官人となった下端役人。上司となるのが施薬院の庶務を一手に担う高志史広道(こしのふみひとひろみち)であり、名代は広道にこき使われ、施薬院では医師の手伝いを行っている。このストーリーでは、平城京に住む一般庶民に一番近い立場であり、病に苦悶する庶民レベルの目線で思いを語っていく。裳瘡に罹患した病人が施薬院に担ぎ込まれてくると第一線でその世話をする立場に投げ込まれ悪戦苦闘していく。名代は嫌々施薬院の仕事をしつつ、明日にでも逃げだそうかと考える段階に居たのだが、裳瘡の流行進展の中で悪戦苦闘しつつ、意識変革をしていくことになり、その姿が描かれる。名代を一筋の流れの代表と捉えると、彼に連なる人々には、施薬院・悲田院の財政を預かる慧相尼、悲田院で養われている子供達二十余人の面倒をみている僧智積、そして京の庶民・病人が居る。それらの人々の苦しみを見つめる視点が名代にある。私にはこの名代の目線、思いと行動がこのストーリーの中軸になっていると思う。
二人目は猪名部諸男。ストーリーの冒頭では、正三位参議中務卿兼中衛大将・藤原房前卿の家令という一時的身分で登場する。広道に同行して名代が宮城内の典薬寮に、新羅からの到来物払い下げ品の中の生薬の購入に出向く。その折、諸男が到来物の薬を高値で買い占めていたことで、広道・名代と対立し相互に面識ができる。両者の対立がもの別れになろうとした時、30前後の官人が広縁の端で倒れる。熱を帯びているのか顔を真っ赤にしていた。その官人は遣新羅使に同行し、帰国した男だった。その男と一緒に新羅に行った同輩の羽栗と呼ばれた官人は怯えて立ちつくし近付かない。諸男がその倒れた男を送っていく立場になる。結局、房前の邸の一隅で諸男がその官人の治療と世話をする羽目になる。だが、それが事の始まりでもあった。というのは、その新羅帰りの官人が感染者であり、発病したのだ。その官人の病死は、諸男が房前の邸から追い出される原因にもなる。
なぜ、家令身分の諸男が治療できるのか?
諸男は低い身分から薬生を経て、努力して内薬司に務める侍医にまでなっていたのだが、帝に奉る薬の調剤を誤ったという濡れ衣を掛けられたのである。同僚の侍医の誰かに罠にかけられた。そして、終身の徒刑(ずけい、懲役刑)に処せられて、獄舎に放り込まれた罪人に身を落とす。その諸男が大赦により自由の身になったのである。諸男には己を貶めた者が誰か、恨みを晴らしたいという怨恨が彼を突き動かしていく。それが、同じ獄房で共に過ごし、同様に大赦により放免となった宇須と虫麻呂との関わりを深めていく。宇須は悪知恵の働く悪人であり、裳瘡の蔓延する中で常世常虫という神をでっち上げ、霊験あらたかな禁厭札(まじないふだ)を京内で売り始める。諸男はその片棒を担ぐという成り行きに踏み込んで行くが、常に怨念という内心の葛藤が彼の生き様の根源につきまとう。その諸男が名代を介して施薬院へと結びついていく。そこには切迫した理由があった。
諸男の筋には、裳瘡の蔓延の中で、宇須という悪人が関与し、常世常虫というでっち上げられた神を介して、恐怖心で動揺し狂奔する一群の人々が連なって行く。
三人目が綱手である。彼は施薬院に住み込み、治療を実質的には一人で担う医師。里中医(町医師)である。その対極に居る官吏としての医師たちの存在が対比的に浮かび上がってくる。綱手の医師という筋には、薬を扱う元官吏だった比羅夫など、当時の「医・薬」の世界の実態が連なって行く。綱手には誰にも語らなかった過去があった。施薬院に担ぎ込まれた病人を一目見るなり疫神と呼び、薬を商う比羅夫が遁走したその病気が、かつて都に蔓延したときに、罹患し命を取り留めた経験者でもあったのだ。名代が比羅夫との関わりから、その事実に気づいていく。増加しつづけ、担ぎ込まれてくる裳瘡の罹患者たちに対する治療の第一線での手伝いとして、綱手は名代をこき使っていく。綱手はその病の治療法を見つけようと悪戦苦闘する。
治療という筋に連なる者がいる。綱手の前に、己の過去を伏せて絹代という女性が施薬院の治療に協力すると言い登場してくる。その有能さに綱手は助けられることにもなる。そして、施薬院での協力という裏に絹代が重要な意図を秘めていたことが明らかになっていく。一方で、綱手というコインの裏面になるかのように、宮廷に繋がる公の医師たちの有り様が点描される。
いわば、この3つの筋が絡み合う形で進展していく。裳瘡の治療法を如何にして発見するかということが、裳瘡の蔓延を堰き止め、人々を一人でも救済する決め手となっていくのだが・・・・・・・。
この歴史小説は平城京に都があった時代の一時期と人間模様を描き出すことをテーマにしている。だが、そこに見られる人間像、恐怖心を抱きデマに突き動かされいく一群の人間の姿などは、現代の人間の行動、人間模様にそのまま通底するところがあるように思う。悲しいかな、人間の生き様の普遍性、くり返しがあると言えよう。現在のクライシス発生の状況における人間群像の有り様と様々な行動パターンを、作者は平城京と天然痘に仮託し、歴史小説の中で描くという方法を選択したのかもしれない。
ご一読ありがとうございます。
↑↑ クリックしていただけると嬉しいです。
この作品に関連して、関心の波紋を広げてみた。一覧にしておきたい。
天然痘(痘そう)とは :「NIID国立感染症研究所」
天然痘 :ウィキペディア
悲田院 :ウィキペディア
施薬院 :ウィキペディア
光明皇后の施薬院・悲田院と施浴伝説 平尾真智子氏 pdfファイル
光明皇后 悲田院、施薬院を作り慈善事業を始める 高嶋久氏 :「APTF」
平安前期の「悲田院」「施薬院」の名記した木簡出土 :「歴史くらぶ」
遣新羅使 :ウィキペディア
遣新羅使の墓 :「ようこそ 壱岐へ」
天平外交史年表 724(神亀1)~764(天平宝字8) :「波流能由伎 大伴家持の世界」
光明皇后 :ウィキペディア
光明皇后 :「コトバンク」
藤原前房 :ウィキペディア
インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。
(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
↑↑ クリックしていただけると嬉しいです。
徒然に読んできた著者の作品の中で印象記を以下のものについて書いています。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『泣くな道真 -太宰府の詩-』 集英社文庫
『腐れ梅』 集英社
『若冲』 文藝春秋
『弧鷹の天』 徳間書店
『満つる月の如し 仏師・定朝』 徳間書店