遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『アウシュヴィッツの図書係』 アントニオ・G・イトゥルベ  集英社

2018-04-05 23:04:29 | レビュー
 アウシュヴィッツとはあの悪名高き収容所のことである。そこは第二次世界大戦において、ナチス・ドイツがユダヤ人を強制収容し、次々に大量の人々を一括してチクロンガスを使うガス室送りにして殺した絶滅収容所である。ガス室のことは知っていたけれど、チクロンガスが使われたということは本書で初めて知った。本書を読み、アウシュヴィッツの表層だけしか知らなかったということを再認識したとも言える。実はそのアウシュヴィッツという名称と図書係という言葉の繋がりに違和感を感じて、本書を読む気になった。
 この本は実際にアウシュヴィッツで図書係を担当した少女が実在することを知った著者が、その人をモデルとした小説である。「著者あとがき」で「この物語は事実に基づいて組み立てられ、フィクションで肉づけされている」と冒頭に記す。

 著者は、アルベルト・マングェル著『図書館 愛書家の楽園』に記された一節からジャーナリストとして調査を始めた。そして、クラクフのホロコースト博物館の売店でルディ・ローゼンバーグの手記『私は許せない』のフランス語版に偶然出会ったという。さらに、オータ・B・クラウスの小説『塗られた壁』に興味を引かれその本の購入できるサイトが縁となり、ディタ・ボラホヴァー(旧姓)という80歳になる女性と出会うことになったという。この女性こそが、少女時代にアウシュヴィッツの中に設けられた家族収容所に送られた後に、31号棟の図書係となった人物だった。本書では、チェコ出身のユダヤ人少女、エディタ・アドレロヴァ(ディタ)という名前で描かれて行く。

 本書のストーリーは、1944年1月から始まり、1945年の春に連合国軍により収容所から解放されるまでをディタの目と思いを通して描かれて行く。そして、解放後された後のディタの生き方を最後に簡略に付記する。
 アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所、つまりアウシュヴィッツ=ビルケナウ絶滅収容所がどのような状況であり、実態であったか、ディタの見聞と体験を介して、克明に描き込まれていく。
 アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所には、BⅡb区画が<家族収容所>として作られた。それはナチスがスイスにある国際赤十字から収容所の実態を覆い隠し、欺くために戦略的に設けた区画だった。「死体を燃料に昼夜焼却炉が稼働する、命の破壊工場アウシュヴィッツ=ビルケナウ」(p8)にあって、特別な区画だったのである。その区画の中に、ユダヤ人でブロック古参のアルフレート・ヒルシュが、強制収容所のドイツ当局を説得して、区画内の31号棟を子ども専用のバラックとすることを認めさせたのである。家族収容所内の子どもをそこに集めて楽しく遊ばせれば、BⅡb区画の親たちは仕事がしやすくなるという理屈づけによって。つまり、親たちを子どもに対する心配事から切り離すことができ、強制労働に就かせやすくなるだろうという論理を逆用して、子供を守ろうという意図である。勿論、収容所の最高司令部は子ども専用のバラックを設けることを許可した。「ただし、勉強を教えることは一切禁じられた」(p9)。だが、しかしである。ヒルシュはこの31号棟を秘密裏に学校として運営したのだ。兵士のパトロールがある時は、勉強を中断して、ドイツ語のわらべ歌やなぞなぞ遊びで楽しく時を過ごしているポーズをとらせたのだ。子どもたちにユダヤ人としての誇りを失わせないこと、工夫をして勉強を続けさせるという環境を日々命懸けで維持したことになる。
 ストーりーの展開では先の話になるが、そのヒルシュが、レジスタンスから頼まれたことに対して悩み、薬を大量に呑み干して自殺したという噂が収容所内に流れる。ディタはその真相を確かめたいと行動を取る。収容所内に潜むレジスタンスの一人から、家族収容所の存在について、次のことを告げられる。「この収容所は奴らの隠れみのだからさ。ここで虐殺が行われているという噂が立って、国際監視団が事実を確かめにきたときにごまかすためのな。家族収容所と31号棟はお飾りだ。俺たちはそのお先棒をかついでいるのさ」(p310)と。

 ディタと両親はテレジーン・ゲットーからこの家族収容所に移送されてくる。そして、年長で14歳のディタはヒルシュから図書係に任命されたのである。ヒルシュは「しかしこれは非常に危険なことだ。本を手にするのは、ここでは遊びじゃない。本を持っているところをSSに見つかれば処刑される」と付け加える。それを承知でディタは図書係を引き受ける。
 ヒルシュの許には、強制収容所に送り込まれてきたユダヤ人たちが密かに持ち込んだ本が8冊だけ集まっていたのである。この8冊の本をSSに絶対にみつからない形で貸し出しし、管理し、隠すことがディタの仕事となる。そして、ディタはその本の危険な維持管理の間に、それらを密かに読む時間を作り続ける事にもなる。どこで読むのか? 穴が掘られただけのトイレが並ぶという建物の一隅で・・・・。その悪臭の蔓延するトイレにはSSがパトロールに近寄ることがないから。
 
 ヒルシュは本を持ってきた人から、とっておいた食糧と交換して本を手に入れていたのだ。手許に集積された8冊の本とは何か? 何枚かページが抜けているばらばらの地図帳、『幾何学の基礎』、H・G・ウエルズの『世界史概観』、『ロシア語文法』、フランス語の小説1冊、フロイトの『精神分析入門』、表紙のないロシア語の小説1冊、一掴みの紙が何本かの糸で背表紙にどうにかくっついているという状態のチェコ語の小説『兵士シュブェイクの冒険』である。図書館とは言えないほど小さな図書館。アウシュヴィッツ=ビルケナウでは、囚人であるユダヤ人には認められない図書館である。ディタは図書係となった瞬間から、傷んだ本を慈しみ世話する係にもなっていく。見つかれば己の命をかけるという前提のもとに図書係を引き受けたディタの創意工夫と活躍が描き出されていく。

 このストーリーの展開プロセスの構成として、いくつかの軸が織り込まれている。少なくとも、次のようなサブテーマが同時進行していく。
1つは、図書係ディタが何を行ったか。アウシュヴィッツにあってはならない学校で、子供の世話という名目のもとで先生を担当した人々と、本を媒介にしてディタと先生たちの関わりが広がり、深まって行く。そしてSSから本を隠すディタの活躍が描き込まれる。
2つめは、ディタと両親に関わる過去について、ディタの回想と現状の描写を折々に織り込んでいく。それは、ディタが自由な世界で過ごした生活と収容所生活との対比という形になり、当時の状況が描かれることになる。また、ディタが管理する本の一冊『兵士シュブェイクの冒険』からの一節や、ディタの記憶にある本の一節を引用しながら、ディタの思いが描き込まれていく。それは明日殺されるかも知れないという絶滅収容所の過酷な環境に投げ込まれた少女の青春期を描くことでもある。

3つめは、アウシュヴィッツ=ビルケナウでディタが拡げていった人間関係、またその友人の関わる人間関係の状況を、ディタの目を介して描き込む。それはこの強制収容所で人々がどのように生活していたかを様々な事例として描くことになる。

4つめは、強制収容所の運用実態が描かれて行く。アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の記録写真に映像として残る事実の背景の細部が描写されるということにリンクしていく。ナチスが収容所で行ったことの実態の一端を描き込むことになる。

5つめは、31号棟を密かに学校として運営したヒルシュの生き様を描き込むことがテーマの1つであるように思う。ヒルシュという人物を著者がどう受け止めたかが、ディタの目と思いを介して描き込まれていくことになる。フレディ・ヒルシュは実在した人である。ヒルシュの死の真相に一石を投じていると言える。

 1944年7月11日、BⅡb区画の閉鎖作業が始まった。このとき、12,000人の囚人がいて、SSの大尉であり医師のヨーゼフ・メンゲレが31号棟で3日間続けて、囚人の選別を行ったという。つまり、ガス室送りで殺す人々のグループと他の収容所に移送して、強制労働に従事させる人々のグループへの選別である。収容されていたユダヤ人にとっては、運命の岐路となる。メンゲレの判断1つで、親子、兄弟がバラバラにされ、生死の仕分けをされたのである。
 ディタの母はガス室送りのグループに選別されたのだが、偶然の一瞬間の隙に母がディタについて動いたことから、ディタとともに他収容所移送組に組み込まれるという結果になる。
 強制収容所をたらい回しにされて、強制労働を強いられるディタと母は、最後にベルゲン=ベルゼンに移送される。そこの過酷な日常を著者は描き込む。凄絶の極みである。
 著者は、アウシュヴィッツに送られた後に、1944年10月にベルゲン=ベルゼンに送られてきたマルゴットとアンネの姉妹のことをさりげなく書き加える。1ページ分位の挿話である。姉がチフスで死んだ翌日、アンネもまた同じベッドで一人で死んでいったと。このアンネとは、そう、『アンネの日記』を残したアンネである。

 アウシュヴィッツ=ビルケナウの実態に触れること。そこから始まる。平和とは? 戦争とは?人間とは? 民族とは? 人類とは? などを考えるための有益な書である。
 人間の為す計り知れない暴虐さ、想像を絶する環境の中で生き抜く意志と行動、人間の誇りについて思いを馳せるために、本書は現代に生きる我々にとっての必読書の1冊に加えることができるのではないか。ヴィクトール・E・フランクル著『夜と霧』やアンネ・フランク著『アンネの日記』と同様に・・・・・・。

 ご一読ありがとうございます。



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本書からの波紋で、ネット検索した事項を一覧にしておきたい。
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所  :ウィキペディア
アウシュビッツ  :「ホロコースト:学生のための教育サイト」
Holocaust museum From Wikipedia, the free encyclopedia
UNITED STATES HOLOCAUST MEMORIAL MUSEUM HOME PAGE
【悲惨な戦争の現実】アウシュヴィッツ強制収容所の写真【グロなし】 :「NAVERまとめ」
地球上最大級の惨劇…アウシュビッツ強制収容所 :「世界一周写真館」
【狂気の戦時医学】ナチスの人体実験まとめ【ヒトラー・ドイツ】 :「第Ⅲ収容所」
ナチス・ドイツ  :ウィキペディア
ハインリヒ・ヒムラー :ウィキペディア
アドルフ・アイヒマン :ウィキペディア
ルドルフ・フェルディナント・ヘス :ウィキペディア
ヨーゼフ・メンゲレ  :ウィキペディア
ヴィクトール・フランクル :ウィキペディア
アンネ・フランク  :ウィキペディア
アウシュビッツ生存者が語る「死の収容所」、解放から70年 :「AFP BB NEWS」
「アウシュビッツ収容所」 日本人見学客が過去最高(15/08/07) :YouTube
負の世界遺産・アウシュビッツ強制収容所を訪ねて :「GOTRIP!」
アウシュヴィッツ強制収容所  :「VELTRA ポーランド現地オプショナルツアー」

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