和歌山県東牟婁郡に太地町がある。太地町のホームページを検索すると、トップページに、「古式捕鯨発祥の地」という言葉が冠されている。
本書は、江戸時代から明治時代の初期にかけて、紀伊半島の漁村・太地において黒潮にのり近海を通過する鯨を「組織捕鯨」という漁法で捕獲する人々の姿をフィクションとして描いた短編連作集である。ここに描き出された漁法が古式捕鯨と称されるものである。
太地町のホームページを見ると、「太地町ってこんな町」というページに、
「太地は日本における捕鯨発祥の地だと言われています。日本人が何千年も前から鯨類を利用していたのは多くの考古学的事実からわかっていますが、組織的な産業活動として成功させたのは、史実によって確認できる限り、太地の和田頼元(わだよりもと)が最初だと考えられています。
武士の出であった頼元は、兵法の観点から捕鯨に取り組みました。船乗りを組織し、山見と呼ばれる探鯨台を設置し、旗や狼煙(のろし)による通信網を整備するなどの戦いの技術を駆使して、鯨を捕獲したのです。」と説明されている。太地町には「くじらの博物館」がある。
本書では、本方と呼ばれる鯨組棟梁の太地角右衛門頼盛とその後継者のもとに、組織捕鯨が行われていた状況を様々な角度から切り取り、6編の短編連作として描いている。江戸時代末期から明治12年までの漁村・太地の共同体社会の構造、分業体制、組織捕鯨の実態、太地で生活する人々の姿などが活写されている。併せて太地における捕鯨の沿革にも触れている。古式捕鯨がどういう風に行われていたのかについてイメージしやすくなる小説である。
「小説宝石」の2012年1月号から2013年2月号までの期間に各短編が掲載され、2013年4月に単行本として刊行された後、加筆、修正して2015年9月に文庫本化されている。
本書を読むと、古式捕鯨としての組織捕鯨は次のような組織になっていたことが理解できる。
本方 鯨組棟梁・太地角右衛門頼盛 組織の頂点に居て捕鯨の運営を行う元締め。
頼盛の後継者は太地覚悟(旧名は角右衛門頼成)
組織捕鯨の体制
沖合衆(鯨船の乗組員) 総勢200~300人
勢子船 刃刺(銛を打ち込む頭)、刺水主(刃刺の補助役)、水主(漕ぎ手)
艫押(ともおし:舵取り)、取付(雑用係の少年)、炊夫(炊事係)
長さ6間(約11m)幅1間(約1.8m)。計16艘。一艘あたり13~16人
1番船~5番船は船の側面が極彩色の絵模様で彩られている。
持双船 捕獲した鯨を曳航する船。計4艘。
樽 船 鯨漁で使われる綱・網・浮樽などを回収する船。計5艘
道具船(だんぺい) 補助の道具や食料を運ぶ母船
網 船 鯨を捕らえる網代を張る役割。勢子船がまずこの網代に鯨を追い込む。
燈明崎の山見番所 山旦那(責任者)
鯨の発見と識別、勢子采(出漁の合図旗)を振る判断を行う
吹き流しの区別により、鯨の種類や位置を伝達する役割
納屋衆(浜辺での鯨の解体から売買までを引き受け、裏方の仕事をする人々)
隠退した水主や太地の人間で体力に劣る者が従事する。
江戸中期の太地は空前の豊漁期にあり、地生えの者だけでは水主の手が足りず、東国から水主を募り、旅水主が集まってきていたという。いわば臨時契約の季節労働者である。上記の通り、網取り漁法には大勢の人手が必要なので、太地では積極的に外部から人材を招き入れた。旅水主用の水主納屋を地元民家とは離れた向島に設けていたという。
太地角右衛門家は破格の分限者である。財政の行き詰まっている新宮藩水野家は、和歌山藩から2000両にも及ぶ多額の借金をしていて、太地角右衛門がこの保証人になっていた。そこで、太地内での事件は太地の共同体社会内の独自判断で処理する一種治外法権が認められていたと著者は描いている。
この小説で初めて知ったのだが、江戸末期までは太地鯨組と競合関係になる新宮藩経営の三輪崎鯨組が存在したという。明治維新後に太地覚悟(旧名は角右衛門頼成)に三輪崎鯨組が払い下げられたと著者は描いている。
各短編について、簡略にご紹介しておきたい。
<旅刃刺の仁吉>
刃刺の家に生まれた音松と仁吉との出会いの経緯と鯨組での関わりを描く。仁吉は旅刃刺として4番船を任され、将来刃刺になりたいという夢を抱く音吉も4番船に乗ることになり、仁吉のもとで刃刺への道を歩み出す。
太地の組織捕鯨の仕組み及び日本での捕鯨の沿革を背景として描いた上で、捕鯨のダイナミックなプロセスが描かれる。なぜ、仁吉が旅刃刺になったかの過去が音松に語られる。一方、太地鯨組が再度の沖立をし、その捕鯨の状況が描かれて行くが。その過程で5番船の石太夫の独自行動が問題を引き起こす。鯨が引き起こした波浪の影響を受け4番船に乗る音松は海に放り出されてしまう。さて、どうなるかが読ませどころ。
<恨み鯨>
抹香鯨の捕鯨プロセスが描かれる。二頭目の鯨が現れるという状況での捕獲となる。結果的に若い方の鯨を捕獲できる。だが、抹香鯨の腸内から採れる龍涎香が抜き取られるという問題が発生する。その盗人は沖合衆の誰かだという。下手人探しが始まる。
最後の鯨を逃してから一週間が経ち、やっと出漁のチャンスが巡ってくる。抹香のはぐれ鯨が対象となったが、それは既に傷を負っている恨み鯨だった。恨み鯨を獲らないのが太地の仕来りだった。だがこの鯨の捕獲について意見が割れ、結果的に捕獲行動を取る。そして鯨との壮絶な闘いになっていく。この捕鯨のチャンスには、沖合である祥太夫の下手人に対する謎掛けが伏線にあった。
<物言わぬ海>
湾に追い込まれた全長約9mの槌鯨の捕獲を浜辺で見た五人の少年たちが、その後沖合での組織捕鯨の実際を間近に見たいと思う。密かに小舟に乗り、捕鯨現場にできるだけ近く、だが大人たちには見つからない距離まで近づいて行く。喘息持ちの与一、耳が聞こえず細工物が得意な喜兵次、母親の連れ子で義父からいつも辛く当たられる次郎吉、太地の商い方の子の音吉、そして与一たちより一つ年長で泳ぎが上手で刃刺の父を持つ孫太郎の5人。孫太郎はこの冒険のリーダー格である。
捕鯨は逃げようとする鯨との闘いであり、場所が移動していく。それに併せて少年たちも小舟を移動させるのだが、潮と風に翻弄されるようになる。小舟の漂流と少年たちの変化の経緯が描かれる。少年たちが絶望しかけた矢先に大人たちに救助される。だが、この経験がその後の太地でのそれぞれの人生の岐路となっていく。
思わぬ事態が、人の人生を変えていく契機になる。そのことを考えさせられる短編である。人生、何がきっかけでどう変転するかわからぬもの・・・・・・。
<比丘尼殺し>
新宮城下で熊野比丘尼が殺された。熊野比丘尼は、熊野信仰を全国に伝え、近隣を旅し護符や絵草紙を売り歩く。時には食べていくために若い比丘尼は春をひさぐこともする。
比丘尼や辻君の殺しは4人目だった。手口は同じ。殺された比丘尼を見つけた老人は三輪崎で鯨取りをしていた経験から、手形包丁を使った熟練した鯨取りの仕業だと言う。
口問い(岡引)の晋吉は同心から太地に潜り込んで下手人を見つけ、証拠をつかめと指示をうける。支度金2両、うまくいけば10両の褒美を約束される。晋吉は三輪崎で水主の修業をした上で、旅水主として太地に乗り込んで行く。
太地は一種の治外法権を暗黙に認められた地域。口問いとばれれば、己の命はないものと覚悟しなければならない。旅水主として太地に雇われた晋吉の密かな探索が始まる。
この短編、最後に哀しいオチがつく。人間の心理の禍の一局面を著者は捕らえている。
<訣別の時>
世間は「御一新」と呼ばれる内戦の最中にある。その時期の太地に生きる太蔵の人生の岐路を描く。そこには兄二人の人生も関わってくる。14歳の太蔵はまわりから”へこい者”(変わり者)とみられている。太地で生き、太地で死んで行くという生き方に疑問を感じていて、いつか広い世界に出てみたいと思っている。体が弱く、血を見るのが嫌いであり、鯨漁を憎んですらいる。
太蔵の父は腕のいい水主だった。己の夢を三人の息子に託す。長男の吉藏は七番船の刃刺に、次男の才蔵もまた働きが認められれば刃刺になれる可能性を秘めていた。二人はごく自然に鯨取りの道を進んでいる。
太蔵は、坊主になるか、丁稚に行くかと迫られ、どちらも嫌だと言う。その結果、嫌々ながら鯨取りの場を体験する羽目になる。満太夫を刃刺とする九番船の炊夫として鯨漁に加わることになる。この船には兄の才蔵も乗っている。子持ちの雌の背美鯨の捕鯨となるがそれが失敗する顛末が描き出されていく。この鯨漁のプロセスで才蔵は刃刺の満太夫を殴るという行動に出てしまう。一方、吉藏は大怪我をし、命を取り留めたが動けぬ人になる。兄二人のこの状況の中で、太蔵は己の生き方を迫られていく。
この短編もまた、人生の岐路に立たされた男の生き様を描いている。太地という共同体社会で生きる上での生活の保障とその見返りとしての服従、という暗黙の掟の側面も描き出されていく。少年から大人への訣別の時が来たのだ。そこには二重三重の意味合いが加わっている。そこが読ませどころになっている。
<弥惣平の鐘>
小型の鰯鯨の捕獲で、持双船の水主・弥惣平が鯨に上がった刺水主に留綱を渡す役割を果たす場面から始まって行く。その時アクシデントが起こる。
明治11年(1878)頃の太地の環境変化を背景に描く。米国の捕鯨船が近海に出没するようになり、太地では不漁が続く。旅水主も30人余に減り、刃刺株制度も廃止され、鯨組の存続も危惧される状態に来ている。
本方の決断で、雨模様の寒空の下で沖待ちするやり方で鯨漁が始まる。この鯨漁は200名以上の船子たちが遭難する事態になっていく。その経緯がここに活写されていく。生還できたのは70名ほど、未帰還者は135名に及び、その中には幼水主(すなり)の少年たち全員が含まれていたという。「大背美流れ」と呼ばれる国内でも未曽有の海難事故となった。
この海難事故の経緯が、弥惣平と旅水主の常吉を軸に、描き出されて行く。なぜ常吉が旅水主になったかの理由も明らかになっていく。
弥惣平は翌年の正月を漂着した神津島で過ごした後、遭難から約1ヵ月後に太地に帰郷する。弥惣平は常吉が旅水主になった背景に抱えていた問題を代わりに解決する行動に出た。その顛末と、なぜ「弥惣平の鐘」なのかが最後に描かれる。
この海難事故のプロセスがこの短編の読ませどころと言える。
この太地という漁村で行われていた古式捕鯨の歴史的事実とその変遷を踏まえた上でフィクションとして描き出された。鯨を「戎様」と呼び、敬いつつも巨鯨と闘い捕獲することで生活してきた人々の存在を活写している。それは鯨を無闇に捕獲するということとは程遠い。この小説から鯨と共に生きた太地という共同体社会の人々の生き様の明暗両面を感じることができる。
ご一読ありがとうございます。
本書に関連する事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
古式捕鯨発祥の地 太地町 ホームページ
古式捕鯨の開祖・和田忠兵衛頼元 :「太地町観光協会」
燈明崎 :「み熊野ねっと」
燈明崎 :「太地町観光協会」
大背美流れ(おおせみながれ) 太地とくじら :「太地町観光協会」
太地角右衛門と熊野捕鯨 ホームページ
御挨拶 太地 亮
明治11年(1878年)鯨船漂流事故
古式捕鯨ゆかりの史跡が数多く残る「くじらの町」太地町 :「わかやま歴史物語100」
現代も息づく、三輪崎の鯨方の史跡と文化 :「わかやま歴史物語100」
太地町立 くじらの博物館 ホームページ
太地の「六鯨」
捕鯨絵図
インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。
(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『茶聖』 幻冬舎
『天下人の茶』 文藝春秋
『国を蹴った男』 講談社
『決戦! 本能寺』 伊東・矢野・天野・宮本・木下・葉室・冲方 講談社
『決戦! 大坂城』 葉室・木下・富樫・乾・天野・冲方・伊東 講談社
『決戦! 関ヶ原』 作家7人の競作集 講談社
伊東 潤 の短編作品「人を致して」が収録されています。
本書は、江戸時代から明治時代の初期にかけて、紀伊半島の漁村・太地において黒潮にのり近海を通過する鯨を「組織捕鯨」という漁法で捕獲する人々の姿をフィクションとして描いた短編連作集である。ここに描き出された漁法が古式捕鯨と称されるものである。
太地町のホームページを見ると、「太地町ってこんな町」というページに、
「太地は日本における捕鯨発祥の地だと言われています。日本人が何千年も前から鯨類を利用していたのは多くの考古学的事実からわかっていますが、組織的な産業活動として成功させたのは、史実によって確認できる限り、太地の和田頼元(わだよりもと)が最初だと考えられています。
武士の出であった頼元は、兵法の観点から捕鯨に取り組みました。船乗りを組織し、山見と呼ばれる探鯨台を設置し、旗や狼煙(のろし)による通信網を整備するなどの戦いの技術を駆使して、鯨を捕獲したのです。」と説明されている。太地町には「くじらの博物館」がある。
本書では、本方と呼ばれる鯨組棟梁の太地角右衛門頼盛とその後継者のもとに、組織捕鯨が行われていた状況を様々な角度から切り取り、6編の短編連作として描いている。江戸時代末期から明治12年までの漁村・太地の共同体社会の構造、分業体制、組織捕鯨の実態、太地で生活する人々の姿などが活写されている。併せて太地における捕鯨の沿革にも触れている。古式捕鯨がどういう風に行われていたのかについてイメージしやすくなる小説である。
「小説宝石」の2012年1月号から2013年2月号までの期間に各短編が掲載され、2013年4月に単行本として刊行された後、加筆、修正して2015年9月に文庫本化されている。
本書を読むと、古式捕鯨としての組織捕鯨は次のような組織になっていたことが理解できる。
本方 鯨組棟梁・太地角右衛門頼盛 組織の頂点に居て捕鯨の運営を行う元締め。
頼盛の後継者は太地覚悟(旧名は角右衛門頼成)
組織捕鯨の体制
沖合衆(鯨船の乗組員) 総勢200~300人
勢子船 刃刺(銛を打ち込む頭)、刺水主(刃刺の補助役)、水主(漕ぎ手)
艫押(ともおし:舵取り)、取付(雑用係の少年)、炊夫(炊事係)
長さ6間(約11m)幅1間(約1.8m)。計16艘。一艘あたり13~16人
1番船~5番船は船の側面が極彩色の絵模様で彩られている。
持双船 捕獲した鯨を曳航する船。計4艘。
樽 船 鯨漁で使われる綱・網・浮樽などを回収する船。計5艘
道具船(だんぺい) 補助の道具や食料を運ぶ母船
網 船 鯨を捕らえる網代を張る役割。勢子船がまずこの網代に鯨を追い込む。
燈明崎の山見番所 山旦那(責任者)
鯨の発見と識別、勢子采(出漁の合図旗)を振る判断を行う
吹き流しの区別により、鯨の種類や位置を伝達する役割
納屋衆(浜辺での鯨の解体から売買までを引き受け、裏方の仕事をする人々)
隠退した水主や太地の人間で体力に劣る者が従事する。
江戸中期の太地は空前の豊漁期にあり、地生えの者だけでは水主の手が足りず、東国から水主を募り、旅水主が集まってきていたという。いわば臨時契約の季節労働者である。上記の通り、網取り漁法には大勢の人手が必要なので、太地では積極的に外部から人材を招き入れた。旅水主用の水主納屋を地元民家とは離れた向島に設けていたという。
太地角右衛門家は破格の分限者である。財政の行き詰まっている新宮藩水野家は、和歌山藩から2000両にも及ぶ多額の借金をしていて、太地角右衛門がこの保証人になっていた。そこで、太地内での事件は太地の共同体社会内の独自判断で処理する一種治外法権が認められていたと著者は描いている。
この小説で初めて知ったのだが、江戸末期までは太地鯨組と競合関係になる新宮藩経営の三輪崎鯨組が存在したという。明治維新後に太地覚悟(旧名は角右衛門頼成)に三輪崎鯨組が払い下げられたと著者は描いている。
各短編について、簡略にご紹介しておきたい。
<旅刃刺の仁吉>
刃刺の家に生まれた音松と仁吉との出会いの経緯と鯨組での関わりを描く。仁吉は旅刃刺として4番船を任され、将来刃刺になりたいという夢を抱く音吉も4番船に乗ることになり、仁吉のもとで刃刺への道を歩み出す。
太地の組織捕鯨の仕組み及び日本での捕鯨の沿革を背景として描いた上で、捕鯨のダイナミックなプロセスが描かれる。なぜ、仁吉が旅刃刺になったかの過去が音松に語られる。一方、太地鯨組が再度の沖立をし、その捕鯨の状況が描かれて行くが。その過程で5番船の石太夫の独自行動が問題を引き起こす。鯨が引き起こした波浪の影響を受け4番船に乗る音松は海に放り出されてしまう。さて、どうなるかが読ませどころ。
<恨み鯨>
抹香鯨の捕鯨プロセスが描かれる。二頭目の鯨が現れるという状況での捕獲となる。結果的に若い方の鯨を捕獲できる。だが、抹香鯨の腸内から採れる龍涎香が抜き取られるという問題が発生する。その盗人は沖合衆の誰かだという。下手人探しが始まる。
最後の鯨を逃してから一週間が経ち、やっと出漁のチャンスが巡ってくる。抹香のはぐれ鯨が対象となったが、それは既に傷を負っている恨み鯨だった。恨み鯨を獲らないのが太地の仕来りだった。だがこの鯨の捕獲について意見が割れ、結果的に捕獲行動を取る。そして鯨との壮絶な闘いになっていく。この捕鯨のチャンスには、沖合である祥太夫の下手人に対する謎掛けが伏線にあった。
<物言わぬ海>
湾に追い込まれた全長約9mの槌鯨の捕獲を浜辺で見た五人の少年たちが、その後沖合での組織捕鯨の実際を間近に見たいと思う。密かに小舟に乗り、捕鯨現場にできるだけ近く、だが大人たちには見つからない距離まで近づいて行く。喘息持ちの与一、耳が聞こえず細工物が得意な喜兵次、母親の連れ子で義父からいつも辛く当たられる次郎吉、太地の商い方の子の音吉、そして与一たちより一つ年長で泳ぎが上手で刃刺の父を持つ孫太郎の5人。孫太郎はこの冒険のリーダー格である。
捕鯨は逃げようとする鯨との闘いであり、場所が移動していく。それに併せて少年たちも小舟を移動させるのだが、潮と風に翻弄されるようになる。小舟の漂流と少年たちの変化の経緯が描かれる。少年たちが絶望しかけた矢先に大人たちに救助される。だが、この経験がその後の太地でのそれぞれの人生の岐路となっていく。
思わぬ事態が、人の人生を変えていく契機になる。そのことを考えさせられる短編である。人生、何がきっかけでどう変転するかわからぬもの・・・・・・。
<比丘尼殺し>
新宮城下で熊野比丘尼が殺された。熊野比丘尼は、熊野信仰を全国に伝え、近隣を旅し護符や絵草紙を売り歩く。時には食べていくために若い比丘尼は春をひさぐこともする。
比丘尼や辻君の殺しは4人目だった。手口は同じ。殺された比丘尼を見つけた老人は三輪崎で鯨取りをしていた経験から、手形包丁を使った熟練した鯨取りの仕業だと言う。
口問い(岡引)の晋吉は同心から太地に潜り込んで下手人を見つけ、証拠をつかめと指示をうける。支度金2両、うまくいけば10両の褒美を約束される。晋吉は三輪崎で水主の修業をした上で、旅水主として太地に乗り込んで行く。
太地は一種の治外法権を暗黙に認められた地域。口問いとばれれば、己の命はないものと覚悟しなければならない。旅水主として太地に雇われた晋吉の密かな探索が始まる。
この短編、最後に哀しいオチがつく。人間の心理の禍の一局面を著者は捕らえている。
<訣別の時>
世間は「御一新」と呼ばれる内戦の最中にある。その時期の太地に生きる太蔵の人生の岐路を描く。そこには兄二人の人生も関わってくる。14歳の太蔵はまわりから”へこい者”(変わり者)とみられている。太地で生き、太地で死んで行くという生き方に疑問を感じていて、いつか広い世界に出てみたいと思っている。体が弱く、血を見るのが嫌いであり、鯨漁を憎んですらいる。
太蔵の父は腕のいい水主だった。己の夢を三人の息子に託す。長男の吉藏は七番船の刃刺に、次男の才蔵もまた働きが認められれば刃刺になれる可能性を秘めていた。二人はごく自然に鯨取りの道を進んでいる。
太蔵は、坊主になるか、丁稚に行くかと迫られ、どちらも嫌だと言う。その結果、嫌々ながら鯨取りの場を体験する羽目になる。満太夫を刃刺とする九番船の炊夫として鯨漁に加わることになる。この船には兄の才蔵も乗っている。子持ちの雌の背美鯨の捕鯨となるがそれが失敗する顛末が描き出されていく。この鯨漁のプロセスで才蔵は刃刺の満太夫を殴るという行動に出てしまう。一方、吉藏は大怪我をし、命を取り留めたが動けぬ人になる。兄二人のこの状況の中で、太蔵は己の生き方を迫られていく。
この短編もまた、人生の岐路に立たされた男の生き様を描いている。太地という共同体社会で生きる上での生活の保障とその見返りとしての服従、という暗黙の掟の側面も描き出されていく。少年から大人への訣別の時が来たのだ。そこには二重三重の意味合いが加わっている。そこが読ませどころになっている。
<弥惣平の鐘>
小型の鰯鯨の捕獲で、持双船の水主・弥惣平が鯨に上がった刺水主に留綱を渡す役割を果たす場面から始まって行く。その時アクシデントが起こる。
明治11年(1878)頃の太地の環境変化を背景に描く。米国の捕鯨船が近海に出没するようになり、太地では不漁が続く。旅水主も30人余に減り、刃刺株制度も廃止され、鯨組の存続も危惧される状態に来ている。
本方の決断で、雨模様の寒空の下で沖待ちするやり方で鯨漁が始まる。この鯨漁は200名以上の船子たちが遭難する事態になっていく。その経緯がここに活写されていく。生還できたのは70名ほど、未帰還者は135名に及び、その中には幼水主(すなり)の少年たち全員が含まれていたという。「大背美流れ」と呼ばれる国内でも未曽有の海難事故となった。
この海難事故の経緯が、弥惣平と旅水主の常吉を軸に、描き出されて行く。なぜ常吉が旅水主になったかの理由も明らかになっていく。
弥惣平は翌年の正月を漂着した神津島で過ごした後、遭難から約1ヵ月後に太地に帰郷する。弥惣平は常吉が旅水主になった背景に抱えていた問題を代わりに解決する行動に出た。その顛末と、なぜ「弥惣平の鐘」なのかが最後に描かれる。
この海難事故のプロセスがこの短編の読ませどころと言える。
この太地という漁村で行われていた古式捕鯨の歴史的事実とその変遷を踏まえた上でフィクションとして描き出された。鯨を「戎様」と呼び、敬いつつも巨鯨と闘い捕獲することで生活してきた人々の存在を活写している。それは鯨を無闇に捕獲するということとは程遠い。この小説から鯨と共に生きた太地という共同体社会の人々の生き様の明暗両面を感じることができる。
ご一読ありがとうございます。
本書に関連する事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
古式捕鯨発祥の地 太地町 ホームページ
古式捕鯨の開祖・和田忠兵衛頼元 :「太地町観光協会」
燈明崎 :「み熊野ねっと」
燈明崎 :「太地町観光協会」
大背美流れ(おおせみながれ) 太地とくじら :「太地町観光協会」
太地角右衛門と熊野捕鯨 ホームページ
御挨拶 太地 亮
明治11年(1878年)鯨船漂流事故
古式捕鯨ゆかりの史跡が数多く残る「くじらの町」太地町 :「わかやま歴史物語100」
現代も息づく、三輪崎の鯨方の史跡と文化 :「わかやま歴史物語100」
太地町立 くじらの博物館 ホームページ
太地の「六鯨」
捕鯨絵図
インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。
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その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『茶聖』 幻冬舎
『天下人の茶』 文藝春秋
『国を蹴った男』 講談社
『決戦! 本能寺』 伊東・矢野・天野・宮本・木下・葉室・冲方 講談社
『決戦! 大坂城』 葉室・木下・富樫・乾・天野・冲方・伊東 講談社
『決戦! 関ヶ原』 作家7人の競作集 講談社
伊東 潤 の短編作品「人を致して」が収録されています。