表題を含む四話の短編集。
いずれも大阪(大坂)を舞台にした時代小説というか、歴史小説というべきか、大阪庶民の往時の生き様を鮮やかに蘇らせている。
江戸の時代も末期にかかる文政から天保ときて、明治そして昭和と描いていく。
期待もせず何気にチョイスしたのが、ストライクだった典型で、実に興味深く読め、面白かった。
本書は西鶴を敬愛し上方文学の第一人者であり直木賞作家でもある、藤本義一が賞賛した一冊である。
「浪花コロリ騒動記」
文政五年、大坂の町にコロリ(コレラ)が初めて上陸し、町衆は恐怖におびえた。
堺筋平野町の砂糖仲買商恵比須屋の息子玉之助は、店を継ぐには計数が苦手で致命的だった。
玉之助が生まれる前に養子としてもらわれてきた兄清太郎がいて、能力は玉之助よりずっと上だった。
父治左衛門は清太郎に店を継がせるつもりだったのだが、その利発さ故に玉之助のことを慮って、恵比須屋を出ていってしまった。
恵比須屋の将来は、玉之助にかかることになった。
玉之助が加賀に集金にいっている間に、治左衛門がコロリに罹ってしまう。
帰ってそれを知った玉之助は、親友である道修町の薬種問屋丹後屋の倅で蘭学を学ぶ林太郎に頼んで、その師中天遊に治左衛門を診てもらおうするが、その林太郎が既にコロリで死んでいた。
野戦病院さながらに、コロリ患者で埋まる思々斎塾(中天遊邸)で、玉之助は林太郎を危険にさらした天遊に詰め寄る。
だが親友林太郎が、命をかけてコロリと水の関わりを調べていたことを、天遊から諭される。
更にコロリは水に気をつけることで、予防できると天遊に教えられる。
良質の湧き水の湧く京の都では、コロリの発生率が低くかった。
やがて治左衛門も死んだ。
堺に住む治左衛門の兄の一声で、玉之助が後継ぎと決まった。
玉之助は掘り抜き井戸を掘ることを決意する。
だがそれは良質の水が湧く井戸が掘り当てれるか、恵比須屋の身代を潰すかの賭けだった。
叔母のおりんと番頭の伊兵衛は、この機会に玉之助を追い出し、そのいとこを養子に据え、店を意のままにしようと謀る・・・。
「天保山夢の川さらえ」
天保二年、安治川が川上からの土砂流で浅くなり、船底がつかえるようになったため、大坂町奉行から川浚えの御触れがくだった。
安治川を含む淀川だけでなく、宇治川や熱田川も加える大がかりな川浚えであった。
安治川河口を一里半ほど上ると下福島村があり、そこに八軒長屋の通称ガタロー長屋があった。
住民は貧しく貪欲で、無知で礼儀しらずで、無計画で向上心がなくと、碌でもない奴ばかりだが、そのくせ妙な連帯感だけは持っている。
この連中をたばねる家主の宋兵衛こそ、苦労の絶え間がない。
間借賃の遅れなぞざらで、十月も払っていない者さえいる。
それどころか空部屋から床板をはがして、燃料にする者がいるくらいである。
お上からのお達しで浚渫費用の冥加金が徴収されたが、この長屋の連中からは寄附金を集めるなぞ初めから諦めていた。
しかし人足はひとり出さねばならぬと、結局ガタローの勘助と母親が病の床に伏している吉弥が、浚渫作業人として参加することになった。
ガタローとは川底を浚って鉄物を拾う仕事で、吉弥は病気の母に代わってしじみ採りで生計をたてている。
つまり、どちらがついでだか知らぬが、浚渫作業をしながら鉄物やしじみも拾うという訳である。
このおおぎょうな浚渫作業には見物人が大勢集まり、やがて作業人まで派手な衣装を着飾って「大浚御加勢人足何々町」のぼりをたてる始末で、お祭り騒ぎとなった。
だが総責任者が西町奉行から堺奉行に役目交代になると、この乱痴気騒ぎも禁止となる。
浚渫作業で出た土砂を積み上げてできたのが天保山で、当時は海上からの船舶の目印としたので、目印山と呼ばれた。
ここに土砂崩れを防ぐために、松と桜が植えられ、後に大坂町民の行楽地となる。
さてガタロー長屋にはここにそぐわぬ、玉江橋袂の水茶屋つとめをする、ちょいと垢抜けた年増のおこんが住んでいた。
江戸のほうから流れてきて、その素性はわからない。
堂島あたりで夜の稼ぎもしているのは、長屋の連中も気づいていた。
そのおこんが目印山に、腰掛茶屋を店開きすると聞く。
惣大浚請負人葭屋庄七を、色香で見事たらし込んだのだ。
目印山北の嶋屋新田に新設された、渡し場の船頭がいないと、ガタローの勘助がなることになった。
船頭は世襲制で、勘助は元々は船宿の倅だったので、お上の許しを得たのだが、どうもおこんの葭屋への口ききもあったのかもしれない。
しかし当のおこんは、何やらその過去に暗い影がさしているようだ・・・。
物語に登場する野田村の圓満寺は、室町末期の戦国の世に創建されている。
当時の野田村は藤氏という庄屋が中心となった一向宗門徒の村で、この藤家に伝わった藤が物語にも登場する野田藤の謂れ。
物語とは関係ないが、證如上人が野田村へ視察にきた折、細川晴元勢に急襲された。
野田村衆は上人を守るべくそれと戦い、二十一名の討死者を出した。
その菩提を弔うため圓満寺は創建され、今尚受け継がれていると聞く。
「明治造幣局日記」
明治の世になり廃刀令がでて、彫金仕事がすっかり減った。
友吉は三年の修業を終え、生まれ在所である、京の田舎も田舎の山国郷にある中江村に戻ってみた。
兄嫁が嫁いできて、口べらしのため京の彫金師に奉公にでた友吉だ、食い扶持を案じた。
しかし兄の林造は、山国鼓笛隊の一員となり東北征伐に出兵していた。
戊辰戦争は五年前に終わっているのに、まだ帰ってこないのだ。
越後の長岡の芸者としんねこになったと、既に帰ってきた村の若者はいう。
息子の錦吾が生まれて五歳になっていることを、兄林造は知らないでいる。
友吉は母と義姉と錦吾と、狭い畠にしがみついて暮らすことになった。
そんな赤貧に喘いでいる友吉が、ある日彫金師の兄弟子である加納夏雄からの手紙で、大阪の造幣寮(造幣局)に呼びだされた。
行ってみて造幣寮の大きさに閉口する友吉だが、加納からここで働かないかと誘われる。
貨幣のひな型をつくる作業に手がいるという。
破格の月給に週に一回休暇があり、それ以外に年に何度か有給休暇があり、ボーナスも退職金もあるとの好条件だった。
おまけに支度金まで出してくれるそうだ。
すべてが外国のしきたりどおりであったが、友吉にはボーナスの意味が分らなかった。
帰って母親に話したが、眉つばものとまったく信じなかった。
だが友吉は既に造幣寮で働くことを決めていた。
母にも錦吾を連れて義姉にも、造幣寮の宿舎へ一緒に来て欲しかったのだが、拒まれ単身大阪に向かった。
友吉は義姉に対し、密かに心をよせていたのである。
造幣寮にて西洋人技師の下で、西洋式に戸惑いながらも働き始めた友吉は、いつしかその生活にも馴染んでいった。
そして日本も大きく変わろうとしていた・・・。
「わが青春の大阪城」
昭和三年、大阪城の天守閣再建が、市会で満場一致で可決された。
初代は家康に攻め落とされ、徳川時代に再建された二代目は、落雷で焼け落ち、これが三代目となる。
三百四十年ほど大阪城には天守閣がなかった。
しかし市に予算がないので、関市長は市民に寄附金をつのった。
小学校一年生の伴野徹も、十銭寄附しようと思った。
徹の父親は電気設備の仕事をしており、天守閣建設に下請けとして参加する。
それもあり、徹は太閤さんしか登れなかった天守閣に登れることを、無邪気に喜んだ。
同級生の山之内光彦はそんな徹と違い、やや冷めた目で見ていた。
光彦の母親は踊りの師匠で、繊維問屋の大黒屋幸助の囲い者だった。
光彦は賢いおちついた子だったが、めかけの子という劣等感から、ものごとを斜めに見るようになっていた。
でも光彦も、実は天守閣再建を喜んでいたのだ。
大阪城には陸軍第四師団司令部があり、その移転費用も寄附金から賄われることになったが、その数字は天守閣建設費を大きく上回っていた。
おまけに、戦時体制が起きた際には、大阪城は陸軍が統轄する一札までいれさせられた。
既に軍部は台頭し、言論統制により面と向かって文句も言えず、暗い時代になろうとしていた。
ともあれ、昭和五年五月に天守閣復興工事が着工とあいなり、巷では「浪花小唄」がはやり、大阪市には活気があった。
天守閣ができあがるのを心待ちにする、徹と光彦。
ある日ふたりは徹の父親に連れられ、今森久兵衛のところ行き、天守閣の屋根に聳えるべく金の鯱ほこを見た。
そこで今森の息子由吉と出会う。
由吉は神経性喘息で、いじめられていた。
それが不憫で父親は、息子に誇れるものと、金の鯱ほこを寄贈することにした。
徹は金の鯱ほこを寄贈する人の息子なら、友達になれると思った。
光彦も体は弱く、由吉の胸のうちがわかった。
その日から天守閣ができあがるのを心待ちにする仲間が、徹と光彦と由吉との三人となる。
すったもんだの挙句、昭和六年六月に大阪城天守閣は完成した。
鉄筋コンクリートで内部エレベーター付き、五層七階の白亜の殿堂、破風の大胆な三角形デザイン。
周辺も整備され、市民の公園として完成された。
十一月七日に竣工式が賑々しく行われ、徹と光彦が天守閣にやっと登れたのが、十六日だった。
由吉には喘息があり、後日すいてからにした。
徹と光彦ふたりは、生涯忘れることのない強い印象を、その胸に焼き付けた。
大阪城公園はふたりの遊び場となった。
そんな中、光彦の母親のところに、家木謙之という軍人が、娘いずみを連れてやってきた。
いずみは踊りを習いに通うことになった。
実は徹と光彦ふたりは、一番櫓の側の石垣から小便をしようとして、この家木少尉に叱られていた。
徹はいずみに心をよせた。
しかし時局は、戦争への坂をまっしぐらに転がり落ちていたのだ・・・。