明治と元号が変わって、近代国家の道を歩み始めた新政府。
しかしながら欧米の列強国から見れば、まだ脆弱な存在だった。
維新という大事業は、二百数十歳の老獪な国家を、一気に新生児へと変えてしまった。
日本は西洋列国から赤子にも等しい、屈辱的な扱いを受け続けていた。
だが列国各々の思惑とは違い、日本はそこから大きく羽ばたこうとしていた。
西洋人が数百年の時をかけて育てた文明を、わずか十数年で吸収しようとしていたのだ。
ゆえにこそ、新政府はお雇い外国人に大きな期待を寄せていた。
同時に、強大な外国国家の植民地化政策の尖兵となりかねない彼等を、恐れ、常に監視もしていた。
新政府は学問の輸入先を、侵略と植民地化の歴史を持つ、オランダやイギリスを避け、ドイツに白羽の矢を立てた。
さて、明治九年にドイツより招聘され、エルフィン・フォン・ベルツが、東京医学校で教鞭をとるようになって四年。
ベルツが赴任した翌年には、東京医学校は東京大學医学部と改められた。
彼は大學で講義する傍ら、精力的に外来診療も行っていた。
ベルツ宅の給仕として出仕すべく、四国の松山より葛城冬馬が、希望を胸に充満させ帝都にやってきた。
元号が明治と改まった月に、冬馬はこの世に生を受けた。
十三の身には過ぎた扱いで迎え入れられた冬馬だが、奉公するに当たってただ一つの条件は、髷を結っていることだった。
冬馬の家は元松山藩士で、曽祖父が散切りを決して許さなかったのだ。
帯刀が許さぬ以上、髷こそ武士の証しと。
早くに父母を亡くし、かの人に育てられた冬馬は、返す言葉も逆らう意思も許されなかった。
それがここにきて、逆に幸いしたということなのだ。
ベルツはほぼ完璧に日本語を操り、給仕を雇うなら古式侍の身なりの少年に限ると、少々度の過ぎた、日本偏愛癖があった。
幾人もの少年給仕が、厚遇にもかかわらず辞めてゆく理由の一つであった。
日本酒を有田焼の花瓶に入れ、輪島塗の煮物椀に注いで飲んだり、京友禅の打ち掛けを部屋着にしたりといった、トンチンカンをやってのけていた。
しかし多少の偏りはあるにしろ、ベルツが日本人に負けぬぐらいに、この国をこよなく愛していることは確かなようだ。
ベルツは言うのだ。
この国は急ぎすぎている。
これではまるで革命ではないか。
この国が旧体制から新体制へと生まれ変わるためには、確かに革命が必要であった。
けれど文化は違う。
文化は革命ではなく、進化によって成長を遂げねばならないと。
日本は性急なる成長で歪が生じ、それが更に悪しき出来事を呼び込んでいたのだ。
新しい日本の時代に、奇怪なる事件が発生し、ベルツの好奇心が疼き出す。
ベルツundトウマ師弟が、ベルツと同じく日本を愛するお雇い外国人等の協力を得ながら、その謎に挑む・・・。
《なぜ絵版師に頼まなかったのか》
〈米国水夫決闘す!
何故エバンスに頼まざりか〉
ベルツがこの新聞記事に興味を持った。
日本語を流暢に喋るが、読み書きがほとんどできないベルツ。
新聞を読んで聞かせるのが冬馬の日課である。
事件が発生したのは横浜埠頭。
目撃者は英国人。
米国商船の水夫らしい二人の男が、激しく言い争い、男の一人が短銃を取り出した。
そして「なぜエバンスに頼まなかったのか」と一方に激しく詰め寄り、その胸部に向かって弾丸を発射した。
続いて短銃を己のこめかみに押し当て、わけのわからない叫び声をあげながら発射。
自ら命を絶ったという。
同僚と思しき水夫を殺害した男は、泣いていたらしい。
ベルツは冬馬に調査を命じる。
この記事を書いたのは、横浜港新聞の市川歌之丞。
本名は市川喜三郎で、乏旗本の三男坊にて、少々鬱屈したところがある。
この男はこの一件が結した後、出会う度に名も職も変わる妙な人物で、多分に胡散臭さはあるが、顔が広くなかなか頼りになる・・・。
その歌之丞に冬馬が問えば、かの水夫が言ったのは、エバンスではなく絵版師なのだそうだ。
しかしそれが判ったとて、益々謎か深まるだけであった。
なぜ絵版師に頼まなかったのか・・・。
《九枚目は多すぎる》
冬馬がベルツに給仕として雇われて三年が経った。
突然ベルツより、東京大學予備門への入学を命じられた。
給仕は解雇され、代わりに住み込みの書生として再雇用された。
授業料はすべてベルツが支払ってくれ、しかも給料までもらえる。
冬馬は漸く髷に別れを告げ、散切り頭となった。
ところでベルツ宅はもう、周辺のお雇い外国人たちのサロンと化していた。
冬馬は三年給仕をしていて、独逸語はもちろん、仏蘭西語、英語も今ではほとんど理解できるようになった。
冬馬自身は気づいていないが、三年で三カ国語を習得するのは、それ相応の才がなければできることではない。
ベルツはそれを見抜いていたのだ、と言ったのは、市川歌之丞改め市川扇翁だった。
新聞記者は辞め、湯島の骨董屋扇翁堂の主となっていた。
市川の家は元旗本御直参、それ相応の道具が眠っていて、惣領を丸め込み、知り合いの道具屋に蔵の中身を売りさばいた。
その金で店を開いたようだ。
それはさて置き、相良鉄蔵と名乗っていた四十がらみの男が、日本橋筋の自宅長屋で死体となって発見された。
相良の表向きの職業は古物商、裏では相当あくどい仕事に手を染めていたらしい。
扇翁が道具を売り払った相手だった。
扇翁は東京警視庁の巡査にしょっ引かれた。
安い値をつけた相良を、扇翁はひっぱたいたという。
なおも悪いことに、訴人したのは市川家の惣領だった・・・。
だが、相良の死が毒殺であったことが判明した。
更に日本橋蠣殻町の長屋にて、鈴木壱乃輔の遺体が発見されるが、これも毒殺だった。
遺体発見の一時間ほど前に、鈴木の家から若い女が出てゆくのが目撃されていた。
扇翁が拘留中の出来事だった。
結局扇翁は放免されたが、官憲の探偵の監視つきだった・・・。
《人形はなぜ生かされる》
冬馬は特別飛び級をもって、大學予備門から医学部へ進級した。
冬馬の知識はすでに予備門の域を、遥かに超えていたのである。
冬馬は、〈れおな堂多弁児作の活き人形が夜な夜な東京市中を徘徊する〉との、新聞小説を読まされた。
書いたのは、市川歌之丞改め、市川扇翁改め、小山田奇妙斎。
骨董屋は市川の惣領にくれてやり、今度は小説家に転進ときた。
その夜半、冬馬は階下で言い争う声に目覚めた。
ベルツは流暢な日本語で、相手を怒鳴りつけていた。
その相手の姿は奇怪だった。
見事に禿げ上がった頭頂より三寸あまり下、白髪というよりは洋人と同じ金色の髪が無造作に伸びている。
散バラに伸び放題となっていて、陸に上がったばかりの河童に見えなくもない。
二十日ほど前、ベルツは冬馬を伴い、京都に出向いた。
冬馬には京都見物をさせておいて、自らは役人につれられどこかへ行ってしまった。
ベルツが宿に戻ってくるのは夜半近くで、そのまま床に就いてしまう。
なんのために京都にやってきたのかさえ、話そうとはしなかった。
だが冬馬は知っていたのだ。
ベルツは普段使用しない、強い鎮痛剤を用意していた。
患者は相当に重い病。
異形の客は京都の一件に、なにやら関係しているのか・・・。
そして後日、かの異形の客こそが、れおな堂多弁児なる人物だと判る。
多弁児は、人体骨格標本を欲しがっていた・・・。
《紅葉夢》
芝の紅葉館は、明治十四年に建てられているが、その趣雅なること山紫水明の別天地なり、と評判をとり今に至る。
冬馬が、市川歌之丞改め、市川扇翁改め、小山田奇妙斎改め、鵬凛につれられ、その紅葉館にやってきた。
臨済宗下谷報徳寺の住職に納まり、今は鵬凛ということらしい。
鵬凛と冬馬が卓袱料理などを賞味し、赤葡萄酒などを飲みながら、ベルツが若い女性を見初めたことに話がおよんだ。
アライ・ハナという、日本人女性である。
そうこうしていると、廊下の向うで大きな罵声が響き渡った。
尾崎紅葉が芸妓お須磨を足蹴にしていたので、慌てて鵬凛が止めに入った。
お須磨が巌谷小波といい交した仲でありながら、裏切って博文館の社長に鞍替えしたのを、怒っての所業らしい。
騒ぎがまだ納まらぬ中、冬馬は背の低い外国人と、きつい目つきをした芸妓が、紅葉とお須磨を冷えた憎悪のまなざしで見ているのに気づいた。
そしてまずいことに、なんと師匠であるベルツとも出くわしてしまった。
ベルツは庭の離屋にいる、政府の要人を診察しにきていたのだ。
要人とは井上馨外務卿であった。
彼はベリベリ(脚気)を患っていた。
脚気は原因も治療法もわからぬ難病で、日本国家として国力を削ぐ、憂しき病でもあった。
学生の身分で通うべき場所ではないという、ベルツの言葉に逆らうように、冬馬は鵬凛に誘われるまま、紅葉館へとまたやってきた。
鵬凛より破戒坊主ぶりを聞かされていると、先ごろ尾崎紅葉が修羅場を演じた座敷から、この世のものとは思えぬ悲鳴が聞こえてきた。
小梅ちゃんが、小梅ちゃんがと叫びつつ、座敷から転び出たのは紅葉館の女将だった。
殺害された小梅こと瀬川ウメは、先月十七歳になったばかりであった。
扼殺と見受けられる。
君は栄誉ある帝国大学医学部の学生である本分を、忘れかけているのではないか。
昨年より東京大学は帝国大学に改称されていた。
師匠としてベルツは、冬馬にこれより先の紅葉館への出入りを、厳しく禁じた・・・。
《執事たちの沈黙》
ベルツ宅の目の前にある寄宿舎から出火した。
執務室でベルツは、半狂乱になって書籍や論文に紐をかけていた。
冬馬は片手に書籍や論文の束を抱え、有無をいわさずもう一方の腕にベルツの体を抱えて、部屋を飛び出した。
寄宿する多くの学生も、猛火を逃れて逃げ出していて、そのうち幾人かは病院に運ばれたようだ。
幸い風もなく、ベルツ宅は類焼を免れた。
ところがである、火災現場で若い男の死体が発見されたのだ。
寄宿舎に住む者ではなさそうだ。
帝国大学で外科および解剖学などを教えている、ユリウス・スクリバが遺体解剖の執刀に当たる。
冬馬の専門は内科および病理学であるにも関らず、なぜかその助手として指名された。
所見としては、後頭部にかなり大きな裂傷が見受けられ、火傷の痕跡は特に見られない。
それと両足の甲に、親指の付け根から八の字に伸びた擦過傷があり、冬馬はその痕跡が気になって仕方なかった。
男の死因は、後頭部を鉈状の凶器で強打され、脳髄に達するまでの傷を負ったことによるものだった。
自殺でも事故でもありえない。
大学構内で見つかったということで、遺体の件は大学当局から緘口令がしかれた。
そのはずであった・・・。
冬馬は医学部をすでに卒業し、ベルツの助手として多忙な毎日であった。
その忙しい冬馬を、昼飯をおごるとの口実で呼び出し、市川歌之丞改め、市川扇翁改め、小山田奇妙斎改め、鵬凛改め仮名垣魯人が、発見されたその遺体について詳しく聴こうとしたのだ。
今度は仮名垣魯文の筆頭門下生だそうで、滑稽新聞の記者というところであろうか。
まだ死臭が鼻について、蕎麦を食いあぐねていた冬馬は驚く。
なんのことはない、遺体の件を魯人に話したのは、他ならぬベルツとスクリバだった。
冬馬は遺体の足の甲にあった八の字の擦過傷を、下駄の鼻緒によるものと推測した。
高級官僚を思わす仕立ての洋装に、下駄履きとは奇妙な取り合わせだった。
下駄に慣れた者は、鼻緒の当たる部分の皮膚が強く、厚くなるので擦過傷を起こすこともない。
身元不明の遺体は、普段から下駄を履きつけていなかった。
御一新から二十二年。
すでに西洋文明が定着しつつあるとはいえ、江戸の名残はまだまだ色濃い。
町を歩けば、髷頭を幾人も見ることができるし、政府の役人、要人とて自宅に帰れば着物に着替えると聞く。
遺体の男は、もう何年も洋装を解くことはなかった。
なによりも大切なのは、その彼があの夜に限って、下駄を履かねばならなかった、ということ・・・。
表題は、アガサ・クリスティーの「なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか?」を捩っていて、その他の題名もなにかのパロディーになっているようだ。
明治と共に成長してゆく冬馬、物語は軽快なテンポのユーモア仕立てではあるものの、その実は往時の世相を鋭く抉る、この著者ならではの辛口な内容。
この噺には、まだまだ続きがありそうなのだが、著者急逝のため、残念ながら叶わなかった・・・。