
時は乱世。
天下統一を目指す秀吉の軍勢が唯一、落とせない城があった。
武州・忍城(おしじょう)。
周囲を湖で囲まれ、「浮城」と呼ばれていた。
石田三成二万の軍勢に、たった二千で立ち向かった男がいた。
総大将・成田長親(ながちか)は、領民から「のぼう様」と呼ばれ、泰然としている男。
智も仁も勇もないが、しかし、誰も及ばぬ「人気」があった…。
この城を敵に回したが、間違いか。
のぼうとは元々「でくのぼう」の略、ただ正面切ってそうは言えず、のぼうに様をつけ、「のぼう様」と呼ばれていた。
その呼名の通り、大きな図体で、とにかく何をやっても不器用な醜男。
忍城の城主は成田氏長であるが、長親はその従弟にあたる。
成田家は北条家に与する。
秀吉がついに小田原征伐に動いた。
氏長は小田原城にて籠城のため、五百の軍勢を率いて渋々ながら出向いて行った。
実は氏長はひそかに秀吉に内通していた。
石田治部少輔三成(いしだじぶしょうゆうみつなり)を総大将に、大谷刑部少輔吉継(おおたにぎょうぶしょうゆうよしつぐ)と長束大蔵大輔正家(ながつかおおくらたゆうまさいえ)とともに、館林城を攻め落とした後、忍城へ大軍を率いて来襲してきた。
忍城側は既に降伏に意を決していた。
長親の父である、城代の成田泰季(やすすえ)が当主不在のため留守与る、総大将であったが、病に倒れついには死んでしまい、そのため嫡男の長親が代わって総大将となった。
三成側から正家が使者として、忍城にやってきた。
正家の高飛車な態度に、忍城の者は歯を食いしばって耐えた。
しかし長親は違った、「戦いまする!」「坂東武者の槍の味、存分に味わわれよ」
そう言い切った…。
家老の正木丹波守利英は軍神上杉謙信に魅入られた男、一番槍の丹波としてその名は轟いている。
当主から朱槍を授かっている。
同じく家老酒巻靱負(ゆきえ)は若輩で小兵ながら智に長けた男。
そしてもうひとり、同じく家老の柴崎和泉守は大男で豪胆。
この三人の家老達の獅子奮迅の働きで、大軍がきりきり舞いする。
三成は水攻めに出た。
なんと利根川と荒川を結ぶ堤を築くというのだ。
その距離七里、(二十八キロ)、それも五日でやってのけるという。
十万人を昼夜兼業で働かせる。
その費え永楽銭にして八千四百貫文。
空前絶後の水攻めであった。
忍城は、本丸だけ残り、後は水没してしまった。
しかしこれにも、長親の命がけの奇策をもって切り抜ける。
丹波は長親を当主氏長など比するすべもない、希代の将器と見抜いた。
三成は秀吉からの援軍も加え、最後の総攻めにかかろうとした。
忍城側も応戦に出る。
しかし、その時小田原城が落城したとの知らせが入り、戦は終わった。
忍城を残して北条方のほかすべてが落城したのである。
決して喜劇ではなく、れっきとした実際にあった史実をもとにした歴史小説であるが、何度も爆笑する場面がある。
氏長の娘、甲斐姫は、齢十八で傾城の容色として、忍領内はおろか他領にも知れ渡っていた。
容姿端麗の上武勇にもすぐれていた。
が、何故か長親に惚れている。
それに対して長親は歯牙にもかけない。
領民達も、城に入って戦えと丹波ら家老が迫っても、頑として首を縦に降らなかったが、長親の名を出した途端、急変して喜び勇んで参戦した。
女、子供まで加わる始末。
丹波らは狐につままれたようで、唖然とした。
士分百姓ら合わせて籠城兵は総計、三千七百四十人だったが、うち十五歳以下の童と女が一千百十三人含まれる。
戦力となるべき十六歳以上の男は、二千六百二十七人であった.
忍方兵力は、三成方の十分の一だった。
これは痛快で文句なしに面白い!!!
狂言師野村萬斎が主演で映画化されている。