私は長崎原爆の日となる、8月9日が誕生日だ。
8月6日(広島原爆の日)及び8月15日(終戦の日)がそれぞれの誕生日の友人がいて、三人とも戦後生まれで戦争を知らない世代なのだが、お気楽にも平和トリオと呼ばれていた時期があった。
いつしかその友人たちとの交流も途絶え、互いの消息も分らなかったのだ。
それがあることが呼び水となり、私はその友人たちとのことを懐古することとなった。
それで知人を辿って現在の居所をなんとか調べて、暑中見舞いを書いて送ってみた。
二人の友人から返事が返ってきて、それから電話やメールのやり取りが始まり、お盆休みにでも三人で集まって、飲み会をやろうということにもなった。
ひょんなことから交流が再開したわけだが、その切っ掛けともなった話を、ここに記しておこうと思う。
話は少し長くなる。
今年の梅雨入りが発表されて間もないころ、仕事というほどでもない会合がらみでの流れで、そのまま会食することとなった。
人数は私を含めて六人で、他の人たちは皆私より随分年上だった。
その中でも高齢中の高齢は、実際の年齢は知らないのだが、九十歳は軽く超え百の坂が見えていると聞いていた。
会社の役員や代表など歴任し、勇退後は相談役などを務めていたが、今では全てから身を引き歌人として生き、周りからご老公と呼ばれている。
といっても黄門様のような格好をして、杖をついているわけではない。
薄茶系統の渋い柄で、恐らく麻混の生地ではないかと思われるスーツを涼しげに着こなし、パナマハットを小粋に被っていて、なかなかお洒落である。
昭和モダニズム、ダンディズムの薫りを、辺りに漂わせていた。
結構上背があり背筋はしゃんと伸び、足腰もまだしっかりし、ボケもなく矍鑠としているので、六十代と聞かされても、納得してしまいそうである。
ただ、やはり耳はかなり遠く、補聴器の世話になっている。
六人で訪れた店は、実はこのご老公が古くから知る料亭で、近くまできたのだからと、今回久々に寄ってみたくなったらしい。
予約を入れていなかったのだが、女将と思しき女性がご老公の顔を見て、直ぐに奥座敷へと案内してくれた。
会食は完全に無礼講で、ご老公の横に座らされた私も、一番年下ながら美味な会席料理に、気楽に箸を進めることができた。
ご老公の健啖ぶりには舌を巻いたが・・・。
久々の味に舌鼓を打ち、酒も少し入りご機嫌のご老公は、右隣に座る私にしきりと大きな声で話し掛けてくる。
ご老公の耳を気遣い、私もやや大きめの声でそれに応対した。
それに気づいたのだろう、「わしの耳が悪いんは年のせいばかりやない。南方の戦線で砲弾の爆風受けて鼓膜がやられた、まぁその後遺症もあるのや」と、微笑み掛けた。
後で他の人に聞いたのだが、ご老公が自ら戦時中の話をするのは、非常に珍しいことだそうだ。
むしろご老公の前では戦時の話はタブーとされていたので、私以外の人はあの時ハッとしたのだそうだ。
そんなことを知らない私は、「へぇー、激戦の生き残りだったんですね」と、能天気にいっていたと思う。
私のこの言葉に、ご老公は少し悲しい顔になったような気もする。
だが私の誕生日が長崎原爆の日と同じだと話すと、ご老公は「ほう、そうかいな」と目を細めていた。
他の人は話題を変えようとしたのだそうだが、ご老公は問わず語りに話し始めた・・・。
ここからの話はまだ若き日の話なので、ご老公というのも変なので、前田俊作さんと呼ぶことにする。
前田俊作さんは職業軍人だったそうで、元々関西の人間ではなく、郷里は金沢なのだそうだ。
確かに前田俊作さんの関西弁には、独特の抑揚がある。
明治から大正の世に移ってほどなく、越前の海産物や北海道の利尻や羅臼の昆布などを商う、裕福な商家の次男として生まれた。
前田俊作さんは考古学者となり、発掘や研究で世界をまたにかける夢を見ており、商人などというものには、まったく興味がなかったのだそうだ。
ところがお兄さんが胸を患い夭折してしまい、俊作さんが前田家の跡取り息子となってしまった。
俊作さんには男兄弟は他にいず、お姉さんと妹さんが各々ひとりいるだけであった。
お父さんは跡継ぎの長男さんが存命中は、俊作さんの存在を無視するというか、次男坊にはなんの興味も示さなかったのだそうだ。
学業成績優秀な俊作さんに対し、お姉さんは自分が婿養子を迎えて家を継ぐから、立派な学者先生になりなさいといってくれていたようだが、お父さんはそれを許さなかった。
お兄さんも生前は、「俊作には算盤よりも、天眼鏡けほうがよく似合とる」と、よく弟をからかったそうだ。
そこでお姉さんは一計を案じ、「商人になるぐらいなら、軍人になる」といい出せば、いくら頑固な父親でも折れるだろうと勧めた。
代々軍人の家系ならいざしらず、商人の家系の者であれば、自分の息子が軍人になることを喜ぶはずはないと、これは優しい女性の考え方であった。
俊作さんが「商人になるぐらいなら、軍人になる」といったら、お父さんは顔色ひとつ変えず、「そんなら立派な軍人となり、皇国け楯となれ」と、冷ややかに告げたのだそうだ。
考古学者なぞとおよそ世の中の役に立ちそうにもない輩になるよりは、軍人になるほうがまだしも世間体がよいと、吐き捨てたのだそうだ。
このお父さんという人物は、なにが利に繋がるか以外は、なにも興味がなかったようである。
引っ込みのつかなくなった俊作さんは意地も手伝って、半ばやけくそで軍人を目指すことを決意した。
考古学を世の役に立たないといわれたことも業腹で、本当に商人になるぐらいなら、いっそ軍人にでもなったほうがましだと、思うようになったそうだ。
かくして、お姉さんが婿養子を迎え家を継ぎ、俊作さんは家を継がない代わりに軍人になることとなった。
前田俊作さんはそんな風に、名にし負う陸軍士官学校に入学したのだそうで、この話に私は笑いを堪えるのに必死であった。
「そんなあほな・・・」
しかしこの後の話に、笑いはすっかり引っ込んでしまった。
俊作さんが士官学校に入学するため、前田家を発ったその日のこと。
日頃お父さんに逆らうことをしなかったお母さんが、「あなたは人の皮をかぶった鬼です!少しも我が子をえとしげ(可愛い)とは思わんのですね!」と、いったのだそうだ。
これに激怒したお父さんは、側にあった物指しで、お母さんの顔を打ちつけたそうだ。
お母さんは額が割れ出血したのだが、お父さんを睨みつけたまま微動だりしなかった。
いよいよ激昂したお父さんは、更に打ちつけようとしたが、それをひとりの従業員が身を挺して防いだ。
この従業員こそが、後に前田家の婿養子として迎えられる人物なのである。
お母さんは娘さんたちを連れ、新潟の実家に帰ってしまった。
お母さんの郷は、豪農とも呼べる大きな農家で、広大な農地を所有している。
実は前田家も商売上、多額の出資をしてもらって、資金的援助を受けていた。
已む無くお父さんはお母さんたちを、新潟まで迎えに出向いたそうだ。
その折に姑であるお義父さんに、「もし孫の俊作の身に万が一のことあらば、軍人にへら(した)責を負い、必ず追い腹を切るように」と、約束させられたそうだ。
お義父さんの家系でも、過去に何人か軍人を輩出しているのだが、皆戦死していた。
それに病弱であった俊作さんのお兄さんに対しても、お父さんは厳しい姿勢を貫き死に追いやったと、お母さんとその実家では疑いを持っていたのである。
ひとまずこれにて、一件落着したようだ。
この逸話は俊作さんが一時帰郷した折、お姉さんから聞かされたのだそうだ。
お父さんは俊作さんがどうせ音を上げて、士官学校を必ず中途退学すると、高を括ていたようだ。
「考古学者けなにけしらぬが、どうせ遊び人け山師同然け輩。そんじぃまっちょろい(あまい)夢を見ているような軟弱者が、どうして軍人になれようけ」
さて一方士官学校で、確かに言語に尽くせぬ、厳しい訓練の洗礼を受けた前田俊作さんではあるが、実は考古学は頭だけでなく体力も必要だと、常日頃から父親に内緒で柔道や剣道で鍛え上げていた体は六尺(180㎝)近くの上背で、目方も二十貫(75㎏)を超えていた。
当時としては大柄で、身体能力も抜群で、それが功を奏したのか、体力的にも後れを取ることはなかったのだそうだ。
それに意外なことに、国際情勢に明るくなるために、外国の言語歴史文化などをも学べて、俊作さんにとっては、これは得した思いであったという。
成績優秀で卒業した後、陸軍大学を目指したのだそうだが、いろいろ難しい事情があって断念せざるを得なかった。
俊作さんは詳しい説明を避けていたが、難しい事情とは成績とかの問題より、軍部内の問題なのではないかと推測する。
参謀本部では幼年学校出身者の派閥が、幅を利かせていたのだろう。
つまるところ、陸大は実務経験の少ない頭でっかちの参謀たちを、大本営に多く送り込んだに過ぎないのかもしれない。
その最たる者が、東條英樹か・・・。
前田俊作さんは日中戦争勃発前より関東軍に所属し、中国大陸に駐留していたのだそうだ。
駐留といっても平和にのんびりしていたわけではなく、戦時下にあっては当然戦闘は避けられない。
その後は士官として隊を率いり、弾丸砲弾の雨を潜る日々といってもよかった。
士官学校で学んだことはまったく役に立たず、実戦の場数を踏んで、一から学び直さねばならなかった。
正に「星の数よりメンコの数」である。
俊作さんは軍人としての道を歩み始めたころから、妻帯は絶対にしないと決めていた。
軍人とは戦場にあっては露の身が定め、たとえ非業の最期を遂げようとも、それは自分ひとりだけで背負えばよいことだ・・・。
さていつしか俊作さんの階級も、少尉から中尉と昇進していった。
ここからは前田中尉と呼ぶことにしよう。
戦況が末期的様相を呈するようになったある日のこと、南方戦線へ向かう部隊への転属命令が、その前田俊作中尉に下った。
「マレーの虎」、山下陸軍大将の部隊である。
前田中尉としては、尊敬する山下閣下が率いる軍への転属に歓喜したのだが、大陸の戦闘以上に南方戦線は混沌としていたそうだ。
山下陸軍大将に着任の挨拶もできず、ついに言葉を交わすいと間も与えられず、南方のとある島に上陸して様子を窺う米軍に対し、気づけば夜襲を仕掛ける作戦にいつの間にか加わえられていた。
夜陰に紛れて米軍を左右二方向から挟み撃ちにし、撃破せしめんとする、その先鋒というべき分隊を率いるのが、なんと前田俊作中尉であった。
時間差によってもう片方の別働分隊が右方向から攻撃し、更に後方部隊が砲撃を加えることになり、前田中尉の分隊は先に左方向に暗がりを粛々と進軍していった。
だがこれは奇襲作戦であったが、米軍は事前に傍受し待ち構えていたのだ。
気がつけば前田中尉の分隊は米軍に包囲され、身動きが取れなくなっていた。
もう一方の別働分隊と寸断され、何故か連絡も取れなくなってしまった。
どうやらもう一方の分隊は、急ぎ退却を余儀なくされたようだ。
米軍の一角を崩し退避すべく、前田中尉はすぐさま無線で、後方部隊よりの援護砲撃を要請した。
しかし指揮官からは無線が傍受されている恐れがあるので、別の安全な方法で連絡を入れるまで、暫し待ての指示だった。
別の連絡方法といっても、まさか敵軍の真っただ中を突っ切って、伝令でも走らせる気か・・・。
そんなことを考えながら、前田中尉はすっかり焦っていた。
ところが不気味に米軍は、攻撃を仕掛けてこなかった。
星もなく暗黒のような空からは、今にも雨粒が落ちてきそうだった。
敵軍は恐らく暗いので攻撃しかねているのであろうと、この時前田中尉は部下である下士官の、嶋崎洋(ひろし)兵曹長と話していたそうだ。
照明弾を打ったとしても、この暗がりで戦闘すれば米軍の被害も多くなる、夜が明けるのを待っているのだ。
夜明けとともに、総攻撃が開始されることだろう・・・。
嶋崎兵曹長は前田中尉より背こそ低いが、がっちりした筋肉質な体躯である。
年齢は前田中尉と、おっつかっつというところだ。
山下大将の下、実戦で叩き上げられた、前田中尉にとってこの急編成の分隊にあっては、実に頼もしい相棒であった。
彼は「なんとしても、夜陰に紛れて退避しなければならない」と、強く語ったそうだ。
しかしいっこうに指揮官からの連絡が入らず、このままでは夜が白み始めてしまう。
ジリジリとしているうちに、とうとう大粒の雨が降り出した。
前田中尉は兵曹長と相談し、部隊指揮官からの指示を待たず、この雨を突いて退避を強行する作戦に出た。
「責任は自分が取る」
二列縦隊で後方に退却すると決め、先頭組には嶋崎兵曹長が入り、殿組には前田中尉が入った。
手榴弾を投じて、敵の一角を破ることができれば、その後はただひた走るのみ・・・。
だが米軍はこの動きを素早く察知し、雨の中、照明弾とともに弾丸と砲弾の雨を更に降らせてきた。
ここから前田中尉の記憶は欠落している。
意識が戻ったのは、米軍巡洋艦内の一室にある、ベッドの上だったそうだ。
前田中尉は砲弾の爆風に吹き飛ばされて、気を失っているところを米兵に発見されたのだそうだ。
強い脳震盪を起こして、両鼓膜も破れていたが、その他は奇跡的にも擦り傷や打撲程度のごく軽症であった。
軍医の診察時の通訳と、そして前田中尉への尋問というか応対に当たったのは、日系二世のタッド・タケナカという海軍将校だった。
前田中尉より小柄で、年齢もどうやら下のようであった。
軍医の所見によると、「頭部はヘルメットが保護したので問題はないと思うが、暫く様子を見るため安静にしているように。耳は時間が掛かるかもしれないが、治療すれば治る」とのことだった。
戦闘中爆風で鼓膜が破れるなぞ珍しくもなく、常に死と隣り合わせに置かれていることに比すれば、瑣末なことに過ぎないのだ。
ともあれ、前田中尉の鼓膜が破れていたので、筆談でのやり取りとなった。
タケナカ少尉はお母さんに日本語と習字を習ったとのことで、綺麗な和文字を書いた。
タケナカは竹中で、タッドとは匡人(ただひと)とのことだった。
このように、タケナカ少尉はまず自分のことを語った。
タケナカ少尉の父母や先祖は日本人であり、その祖国でもある日本と戦っているのだ、この日本兵捕虜が自分に違和感を抱くであろうと考えたようだ。
「アメリカは移民が集まった国で、だからイタリア人やドイツ人もいて、自分のように嘗ての同胞と戦っている者も少なくない」
これはアメリカだけのことではなく、欧州諸国は地続きなので、同じように嘗ての同胞と戦をする宿命は避けられなかった。
今いるそこを自分の祖国とするか、故国に帰るかなのだ。
戦国時代の日本のことを思えば、少しは理解できるのかもしれない。
そんなことより前田中尉にとっては、真っ先に知りたかったのは、自分の分隊がどうなったかである。
タケナカ少尉は悲しそうに、「やはりあなたがあの隊を率いていたのですね、恐らくあなたの部下たちは、全滅したのだと思います」と書いた。
「自分だけが生き残ってしまったか・・・」、そう呟いていたのだろう。
タケナカ少尉は「戦死した部下たちの分まで、あなたは生きなければならないのです。彼らの死を後世に伝える義務があります」と書き、しっかり前田中尉の目を見つめたそうだ。
前田中尉は暫くひとりにして欲しいと申し出て、タケナカ少尉はそれを了承し部屋を出た。
前田中尉はとっさにベッドのシーツを裂き、それで首を吊り自決を試みた。
だがそんなことは先刻承知とばかりに、屈強の米兵たちに取り押さえられた。
両手両脚を縛られ、目隠しされ、舌を噛み切らないようにと、猿ぐつわまで噛まされてベッドに転がされた。
どれぐらい時が経ったか、目隠しと猿ぐつわがはずされた。
目隠しが強く縛られていたので、ボンヤリしていた目の焦点が定まると、そこに微笑むタケナカ少尉の顔があった。
「死なないでください、どうか生きてください」と書いた紙を見せ、タケナカ少尉は深々と頭を下げた。
そして手脚を縛られた体を起こして、「あなたは三日ほど意識がなかったので、急に固形物を口にしないほうがよいそうです」と、暖かいスープを飲ませてくれた。
タケナカ中尉がスプーンで掬い口に運ぶスープを飲み、前田中尉は自分が空腹であることに気がついた。
出撃前に無味な乾パンを齧り、生ぬるい水で流し込んだっきりであった。
前田中尉がスープを飲み終わったら、タケナカ少尉は「自分の祖国はアメリカです。しかしアメリカだけではなく世界中の人々のためにも、この戦争を早く終わらさなければならない」と書いて見せた。
「認めたくはないでしょうが既にあなたも気づいているはずだ、日本が敗戦に向かっていることを」
「もうこれ以上の戦死者を出さないためにも、あなたには協力して欲しい」
協力して欲しいというのは、南方戦線における日本軍の正確な布陣や司令部の位置関係及び今後の戦略方針を、教えて欲しいということだった。
前田中尉にとって、素より祖国を売るような行為はできはしないが、それを教えようにも把握できてはいなかったのだ。
それほどに日本軍は混乱の極みであったし、たとえ将校といえども、所詮最前線にいる兵隊には知らされてもいなかった。
山下大将の居場所はおろか、今回の島での戦闘の指揮系統でさえ、はっきりとは把握できていなかった。
前田中尉のこんな説明に対して、タケナカ少尉はやや落胆の色を見せたが、「またきます、なにか思い出したことでもあれば、聞かせてください」と部屋を後にした。
その後なん度かタケナカ少尉は部屋に訪れたが、戦争とは関係のない雑談のようなものに終始し、やがて「二度と死のうとしないでください」と念押ししてから、前田中尉の手脚も自由にしてくれた。
前田中尉としては、タケナカ少尉が上官より叱責を受けないかと、逆に心配になったほどであった。
後に思えば、タケナカ少尉は日米に関係なく、人間として純粋に前田俊作の自決を阻止したかったのだろう。
思い出したことがあればといわれたが、前田中尉にとってはなにも思い出したくはない気分だった。
しかし他にすることもなく、自然と爆風にやられて記憶が曖昧になっている、島での戦闘に思いがいった。
当事者としてではなく、第三者から観戦するようにあの戦闘について冷静に見直してみると、奇妙なことに気づいた。
そのうち前田中尉は笑い出し、やがてそれが号泣に変わった。
扉の外の番兵が、部屋の中の様子がおかしいことに気づき、警戒しながら入ってきたようだ。
「Are You all right?」と、声を掛けるというか、叫んだのだろう。
捕虜が狂ったと思ったようだ。
前田中尉も自分の鼓膜の状態に次第に慣れ、大きな声であれば少しは理解できるようになっていた。
「Sorry No problem(すまぬ、大事無い)」と前田中尉は答え、「Excuse me please sent for an ensign(あいすまぬが、少尉殿をお呼び頂きたい) 」と、合っているかどうか分らないがいってみた。
それに自分では旨く喋れたかどうかも、分らないのだが・・・。
流暢とはとてもいい難いが、前田中尉が英語で話したことに米兵は大変驚いたようだ。
どうやら通じたようで、恐らく「Ok Just moment」とかいったのだろう、部屋から出ていった。
暫くするとタケナカ少尉が、微笑みながらやってきた。
タケナカ少尉は自分の耳を指差し、「聞こえているのか?」と仕草で示した。
前田中尉は「よほど大声なら少しは理解できる」と、文字にして示した。
タケナカ少尉はうなずき、再び筆談となった。
「英語が話せたんですね」と、タケナカ少尉はなんだか楽しそうだった。
「少しは学校で学んだのですが、本場の人相手に喋ったのはこれが初めてで、推理力抜群の優秀な兵隊さんで大変助かりました。それに読み書きしろといわれても自信はないです」と、前田中尉も笑った。
「それで、なにか御用ですか?」とタケナカ少尉。
前田中尉は居住いを正し、「私はあなたに自軍のことでお話しできることは殆どないのですが、これからお話しすることについて、逆にあなたのご意見を伺いたいのです」とした。
タケナカ少尉はそれにうなずき、後ろに従えている屈強の番兵を退出させた。
「No problem」とでも、いったのかもしれない・・・。
タケナカ少尉が目で促したので、前田中尉は筆談で語り始めた。
「今回のあの島での作戦は、冷静に見ればあまりにも馬鹿げていた。上陸した米軍は師団規模で、しかも沖合いには何艘もの空母や戦艦が停泊していて、その船内にも多くの兵隊たちが控えているのだ。戦艦の大砲はこちらに向けられていただろうし、空母上の戦闘機はいつでも飛び立てただろう。そんな圧倒的兵力の米軍に対し、僅かな人数の分隊をもって左右から挟み撃ちにして、夜陰に紛れるとはいえ、どれだけの効果が期待できるのだろう?我らの後方に控える部隊にしても、三個小隊程度の規模でしかない」
「もし夜陰に紛れてのゲリラ戦をやるのであれば、玉砕覚悟で米軍の奥深くに潜入しなければ、容易くかく乱することができないだろう」
「しかもこの作戦は、米軍によって事前に傍受されていたようだ。実に不細工な話である」
「私は今にして思うのですが、この作戦は偽で、元々なかったのではないのかと」
「つまり米軍を挟み撃ちにする奇襲作戦なぞ存在せず、私の隊は米軍に対する単なる囮だったのではないか?」
「我が隊を米軍の囮として踊らせておいて、その隙に夜陰に紛れて部隊指揮官は、後方の中隊を率いて退却したのではないだろうか?」
「どうでしょう?エンスン・タケナカ、あなたのご意見をお聞かせ願えませんでしょうか?」
タケナカ少尉は暫く黙した後、「我が軍も同じ考えを持っております」とした。
そして「しかし、あなたの隊は玉砕を覚悟したカミカゼ隊だと、我々は思い違いをしていました」と続け、「少なくとも指揮官のあなたには、当然本当の狙いは知らされていたと思っておりました」と締め括った。
陸大出の指揮官により、前田中尉の隊はまんまと謀られ、ただ捨石にされたのだ。
あの部隊の総指揮官は、前田中尉よりも若くて実務経験の乏しい高級将校だった。
前田中尉はそんな若い指揮官に謀られたことに怒るより、今ごろになってようやく気づいた己の愚かさに腹が立った。
死んだ部下たちは、とうに気づいていたのではなかろうか?
総指揮官として自軍の被害を最小限に留めることこそ肝要で、その意味ではあの作戦は正しいとはいえる。
元々この隊は上陸してくる米軍に備えて、監視活動を行うために配備されていたのだ。
米軍の動きは思いの他素早く、上陸するやあっという間に簡易の前線基地を設営してしまった。
一方こちらの隊は、米軍の上陸前にやや後方の丘陵地帯に移動し、監視体勢に入ろうとしたのだが、指揮官が布陣の位置取りに迷い、手間取ってしまった。
明らかに、初動での対処が遅れてしまっていた。
この悶着の折、前田中尉も嶋崎兵曹長も、若き指揮官にとっては、煙たくうつったのかもしれない。「星の数よりメンコの数」
ひょっとすると本隊司令部より、退却命令が下ったのかもしれない。
若い経験不足の指揮官では、長く持ち堪えて時間稼ぎもできまいと、司令部では考えたのかもしれない。
それより本隊の軍団に合流させ、これからの総力戦に備えようと考えるほうが、正論といえよう。
南方戦線にはダグラス・マッカーサー率いる連合国軍として、米軍だけではなく英国軍やオーストラリア軍も参戦しているのだ、決戦に備えて日本軍としても、兵力をできるだけ温存しておきたい。
ただ囮作戦は、あの若輩指揮官の独断に違いない。
狡猾な人間のこと、志願した決死隊とでも、上官には報告したことだろう。
騙して囮に使い見殺しにしたなんぞとは、口が裂けてもいえまい。
それこそ軍法会議ものだ。
前田隊は米軍に降伏すべきだったが、それでは以降日本軍の戦力からはずれるだけではなく、人として生きることも許されなくなる。
だからこそ、強行突破を敢行したのだ。
もし自分が本当の作戦を事前に知らされ、殿軍を任されたのであったらどうだろう?
それならばまだしも、前田中尉の軍人としての面目は保てるが、部下たちを謀るか、それとも真の作戦を伝えるか、いずれにしても全滅させていい理由にはならないが・・・。
前田中尉とて南方戦線に、死に場所を求めて彷徨ってきたのではない。
東郷提督ではないが、皇国の興廃この一戦にあり、この戦いに勝利するためにきたのだ。
それに特攻作戦と知った上で、冷静に隊を指揮できたかは、甚だ心もとない・・・。
黙り込んだ前田中尉を見つめ続けていたタケナカ少尉は、やがて眉をしかめ、気の毒そうに「なんと申し上げればよいか、言葉がみつかりません」とした。
しかし前田中尉は「ありがとうございます、なるほどよく分りました。、But No problem」と笑って、タケナカ少尉に握手を求め、そして役に立つかは別として、彼に自分が知る限りの日本軍の現況を語った。
どうせ自軍の恥は既に曝け出した、それに前田中尉より余程米軍のほうが、いよいよ瀬戸際に立たされた、今の日本軍について掌握していることだろう。
あの時静観する米軍に対し、前田中尉は恐怖を感じていた。
しかし傍受した作戦がダミーと知り、前田中尉の分隊をカミカゼ決死隊と勘違いした米軍のほうが、より恐慌をきたしたのではあるまいか?
暗闇をついてどんなことを仕掛けてくるのか、固唾を呑んで監視し続けていたのだろう。
だからあれほど迅速な攻撃が、前田隊に加えられたのであろう。
作戦の本意に気づかず部下を全滅させた罪、もし作戦の本意を知っていたとすれば、知っていて部下を死地に率いた罪。
いずれにしろ、前田中尉にその重みが、どっしりと圧し掛かってくるのだ。
「戦死した部下たちの分まで、あなたは生きなければならない」
しかし彼らの死について、語れることはあまりにも少ない・・・。
その後前田中尉は巡洋艦から、フィリピンの収容所に移送された。
タケナカ少尉とは、「再会の折は敵味方ではなく、友としてお会いしましょう」と、握手を交わして笑顔で別れた。
収容所では嬉しいことが待っていた。
死んだとばかり思っていた、嶋崎兵曹長と再会を果たしたのだ。
脚を銃弾が貫通する怪我を負ってはいたが、嶋崎兵曹長はいたって元気であり、互いに涙を流し再会を喜んだ。
どうやら前田中尉を捕らえたのとは別の部隊により、捕捉されていたようだ。
だが他の部下たちの姿は、誰ひとり見当たらず、消息もまったく分らなかった・・。
やはり降伏すべきであった・・・。
嶋崎兵曹長によると、行軍を開始して間もなく脚に激痛が走り、転倒し斜面を転がり落ちたようで、声を上げる暇もなかったらしい。
暗くてよく分らなかったが、とにかく斜面を登ろうとしたのだが、雨でぬかるんでいて滑るし、片脚はきかないしで、暫くもがいていたのだそうだ。
その内強い光を当てられたと思ったら、米兵により取り押さえられたそうだ。
米兵に引きずられて脚の痛みがきつくなり、だんだん気が遠くなって、やがて失神してしまったらしい。
これでは前田隊の他の兵隊について、なにも分らないのは当然だった。
嶋崎兵曹長は前田中尉とは違って、テントを張っただけの、野営の急造野戦病院みたいなところで、傷の手当てを受けたそうだ。
そして日系ではないが流暢な日本語を話す、斧を持ってきて切り倒したくなるほど、やたら背の高い青い目をした陽気な若い米兵が、収容所に移送されるまで、まるで専属の通訳でもあるかのように、嶋崎兵曹長の側にぴったりついていたそうだ。
この兵隊は少年のころ、父親の仕事の都合で神戸にいたことがあり、関西弁を喋ったそうで、嶋崎兵曹長は敵陣に囚われながらも、結構楽しかったようである。
負傷兵ということもあるのか、そんなに粗略な扱いを受けなかったようだ。
もちろん、日本軍での身分や今回の作戦や、様々な尋問を受けはしたが、嶋崎兵曹長は前田中尉以上に日本軍について知っている情報は少ない。
前田中尉も嶋崎兵曹長も、この収容所内で終戦を迎えることになった。
前田中尉は三半規管に異常が出、平衡感覚に支障をきたし、予想外にきついことになったようである。
だがジュネーヴ条約により、二人とも傷病兵として傷の治療もしてもらえ、食事も供され割りに丁重に扱われた。
そしてこの収容所には、山下奉文大将も収監された。
結局山下陸軍大将は東條英樹首相により、南方戦線の敗戦処理をやらされたようなものだった。
翌年の2月に処刑された・・・。
前田隊を囮にして退却していったあの中隊は、後日輸送船で移動中、皮肉にも米軍の攻撃に遭い、船もろとも沈められたようだ。
あの若き指揮官も戦死した。
いったいあの囮作戦は、なんだったんだろう・・?
前田中尉と嶋崎兵曹長の二人は傷も癒え、なんとか無事に復員することができた。
前田俊作さんと、嶋崎洋さんに戻ったのであった。
再び落ち合うことを約束し、二人は各々の故郷に戻っていった。
嶋崎さんの故郷は、あの山下閣下と同じ高知で、実家は漁師だという。
海産物を扱うところでは、俊作さんの実家と共通点があるといえばあった。
ところが金沢に帰郷した俊作さんは、衝撃を受けることになる。
実家は没落というよりは、焼失していた。
といっても空襲にやられたわけではない、金沢は戦火からは免れていたのだ。
ご両親は俊作さんが士官学校を卒業して僅か数年の内に、病を得て相次いで亡くなられた。
お母さんはもちろんのことお父さんも、俊作さんが軍人への道を順風に進んでいくのを目の当たりにして、さぞ複雑な心境であったろう。
夫婦間には深い溝ができていた。
下の娘さんを嫁がせた後、風邪を拗らせて寝込んだお母さんは、そのまま本復することなく、俊作さんの身を案じながら、力尽きたように静かに息を引き取ったそうだ。
お父さんの方は、切腹がいつも脳裏にちらついていたものか、晩年になって酒量が極端に増え、それを咎める者とていず、とうとう血を吐いて倒れ、間もなく亡くなったそうだ。
恐らく肝硬変か肝臓癌であろう。
だから前田家はお姉さんの婿養子として迎えた、お義兄さんが跡を継いでいた。
婿養子に入った人物は、前田家が営む会社の優秀な社員であり、俊作さんもよく知っていた。
誠実によく働く律義者で、俊作さんなんかより、余程前田の家を継ぐのに適した人だった。
お姉さんとの仲もよく、俊作さんも実の兄のように敬っていた。
戦地に赴く弟の安否を夫婦はいつも気遣い、金沢と部隊間でよく手紙のやり取りをしていたのだ。
戦況が悪化の一途を辿り、それもままならず、お互いの消息も分らなくなってしまっていた。
ちょうど俊作さんが南方戦線に送り込まれようとするころのこと、夜中に火災が発生し、家も店部分も全焼したらしい。
姉夫婦は逃げ遅れ、焼け死んだようだ。
いったいなにがあったのか?失火なのか放火のか?動乱の世であり定かではない。
従業員の全てが召集や徴用でいなくなり、それに国家総動員法により消費物資の殆どが統制され、もう商売は立ちいかなくなっていたようだ。
焼死したのは姉夫婦と、古くから住み込みで勝手処を任されていた老夫婦の計四人。
この老夫婦には、元々身寄りがなかったのだ。
不幸中の幸いか、姉夫婦の間に生まれた一粒種のまだ幼い甥っ子は助かり、俊作さんの妹さんの嫁ぎ先に引き取られていた。
お義兄さんが業火の最中、二階の窓から我が子を投げ、その幼い命を近所の人たちが必死に受け止めた。
後にこの甥っ子は、俊作さんの許で育つことになる。
妹さんらの話によると、俊作さんのお義兄さんが前田家を継ぐことを、良しとしない者がいたようだ。
家業にあまり興味のなかった俊作さんは知らなかったのだが、義理のお兄さんとなる人よりも、お父さんが目を掛けていた従業員がひとりいたのだ。
頭が切れ仕事もできる男であったが、しかし表裏が激しく、自分より強い立場の者には慇懃であるが、弱い者には冷酷非情に徹する。
お父さんは商売人としては、お義兄さんとなる人より、この男のほうを買っていたので、跡取りにしようと決めていたようだ。
だが前田家の母娘たちは、この男を毛嫌いしていた。
お母さんは「あんな男では、娘を不幸にするに決まっている」と、猛反対した。
お父さんは「娘け幸せという、そんなつまらぬ小さなことより、家と店け繁栄けほうが余程重大事だ」と、これを突っぱねたらしい。
しかしお母さんは絶対に譲らず、実家を含む親族一同の力も借り、この縁組を潰した。
お父さんも俊作さんの一件があり、これ以上妻らを怒らせるのは、得策ではないと判断したのだろう。
お父さんが酒に溺れ商売から身を引き、お義兄さんが前田家の当主を継ぐ直前に、この男は前田の会社を辞し、新たに会社を興したが、あまり上手くはいかなかったようだ。
それからこれも俊作さんは知らなかったことだが、お義兄さんは国政批判をした廉で、特攻警察に検挙されたことがあるそうだ。
「闇商人け暗躍で物資不足に拍車がけけり、物資統制が更に厳しくなると、こちらは店じまいせざるを得ん」と、寄り合いで呟いただけのようだが、それに尾ひれを付けて通報した者がいた。
なるほど取り様によっては、国政批判になるかもしれない。
前田家には士官学校出身の立派な軍人がいることが分り、なんとかお義兄さんは解放されたようだ。
通報したのは蛇のように執念深い、どうやら闇商人の一味に加わっている、前田家の嘗ての従業員であった、かの男との噂がたったようである。
前田の家が焼ける直前に、周辺をうろつくその男が、目撃されたとの噂もあるらしい。
男はその後出征し戦死したともいわれているが、いずれにしても真偽のほどは定かではない。
妹さんの嫁ぎ先は加賀友禅の老舗であるが、戦中は贅沢品が禁忌となり、もっぱら紺屋として糊口を凌いでいた。
そこで数日過した俊作さんであったが、軍人崩れが長く厄介になっては迷惑だろうと出ていった。
実際に妹さん以外は、掛けてくる言葉とは裏腹に、冷ややかな目をしていたのだ。
仕方なかろう、勝手に戦争し負けた責任はやはり軍人にある。
お母さんの故郷にも寄ってみようかと思ったが、それも迷惑かと大阪に向かった。
豪農であったお母さんのこの郷も、戦後GHQ指揮の下に施行された農地改革により、極端に所有農地が縮小された上、代を継いだ者が事業にも失敗して斜陽の憂き目を見ることとなるのだ。
俊作さんが大阪に向かったのは、嶋崎洋さんと大阪城で落ち会う約束をしていたからだが、その約束の日時はもっと先の話だった。
だから俊作さんはどうするという確たる考えもなしに、ただ大阪駅のホームに降り立ったのだ。
俊作さんは完全に虚脱し、無気力な状態で、フラフラと大阪城のほうまで歩いていった。
ところが大阪城は、進駐軍に占領されていた・・・。
「お城に近づこうと思てもな、米兵にシッシってなもんで、追い返された」、前田俊作さんことご老公はそういって笑い、熱いお茶を実に美味そうに飲んだ。
その後自暴自棄に陥った俊作さんは、梅田界隈の闇市で用心棒まがいのことをやって、その日を凌ぐ日々を送った。
喧嘩に明け暮れる毎日だったそうだ。
玉音放送を聴き、多くの若い士官たちが自決していったそうだ。
俊作さんは闇市を、自らの死に場所に選んだのかもしれない。
そんな俊作さんを嶋崎さんが見つけ、半ば強引に用心棒ではなく、天六の闇市での商売に引っ張り込んだ。
物資が不足していた時代で、手に入るものはなんでも売った。
そのために、多少荒っぽいこともやったようである。
「わしが士官学校に入った理由も大概ええかげんやがな、嶋崎が兵隊になった理由はもっとあほらしいことやった」と、ご老公は笑う。
嶋崎さんは実家の生業、鰹の一本釣りの漁師として、生きようとはしなかった。
愚連隊の仲間に入った挙句、やくざの若頭の情婦に手を出して町にいられなくなり、已む無く志願兵として軍隊に入ったのだそうである。
「そやから復員して郷里に戻ってもな、誰もよう帰ってきたと、迎えてはくれなんだんや。ご両親も戦中に亡くなってはったしな」、ご老公はもう笑っていなかった。
嶋崎さんは、自分が生きて帰ってきたことさえ知らせればよいとばかりに、ご両親の墓参りを済ませた足で、大阪に向かったそうだ。
何ゆえ大阪城かといえば、裸一貫から天下人となった、豊太閤殿下に肖ろうと考えたようだ。
そして闇市で商売することを、真剣に画策したのだ。
「嶋崎はなぁ、商売に関してはなかなかの才覚があった。漁師になりたなかったんは、実は船酔いが激しいからやて、ほんまかどうかしらんがいうとったな。戦時の移送で慣れてもうたんか、復員する船では平気やった。わしのほうこそこの耳のせいか、すっかり船酔いして、以後乗り物に長時間揺られるんが、なんとのう苦手になってもうた。あれほど嫌がとった商売を、わしは嶋崎に教えてもろうたんや。人生ってなもんは皮肉なもんや」と、ご老公は目を細めた。
前田俊作さんが嫌っていたのは商売ではなく、本当は父親だったのでは・・・?
やがて両名によって、海産物などを扱う会社が興されることになる。
会社が軌道に乗りこれからという時に、嶋崎さんが胃癌に倒れた。
「随分前から痛かったんやと思う、わしが嶋崎の異変に気づいて強引に病院に連れていった時は、あいつ痩せてもうて小そうなってな、鬼の兵曹長の面影はもうのう(無く)なってた」、ご老公は思い出したのか、悲しい目になっていた。
嶋崎さんはもう手の施しようもないほど癌に蝕まれていて、余命いくばくもない状態だったそうだ。
病院のベッドで痩せ細って横たわる嶋崎さんに、俊作さんはフィリピンの収容所からこれまで、訊こうとしてどうしても訊けなかったことを口にした。
「嶋崎兵曹長、あの島での戦闘で、我らの隊はただの囮の捨石だったことに、きさまは気づいていたか?」
嶋崎さんは微笑み、「ほがな昔のことはとうに忘れたき。大事ながひらった命を、死んでいったもんの分まで生き抜くことぞ、のう俊作さん。今を生き抜くことぞ、のう・・・」と、答えたそうだ。
この言葉に愕然となった俊作さんは、この日より過去を魂の奥に押しやったそうだ。
数日後嶋崎さんは、まるで眠るように息を引き取ったそうだ。
俊作さんと僅かな従業員とで、しめやかに葬儀は執り行われた。
嶋崎さんは高知の実家とは没交渉だったが、俊作さんは余命いくばくもないことを知らせていた。
亡くなったことも知らせたが、葬儀には誰も高知からは出席しなかった。
だが後日お兄さんが、遺骨を引き取りにやってきた。
嶋崎家の墓に迎えるということを、親族会議で決めたのだそうだ。
潮焼けして真っ黒な、いかにも漁師然としたお兄さんは、骨壷を抱いて傍目も憚らずおいおいと泣いたそうだ。
「こがな変わり果てた姿になりよって、洋とは生きちゅううちに会いたかったが。互い腰が抜けるほどに、酒を酌み交わしてみたかったがで。おまんは命がけで国を守ろうとした、まっこつ嶋崎くの誉やき・・・」
お兄さんの顔には、やはり嶋崎洋さんの面影があったそうだ。
ひとりで航行しているのではない、漁師というか船乗りはいったん海に出れば、たとえ弟が死にかけていても容易に陸へは戻れない。
ご老公はしみじみ、「とうとう嫁ももらわずに、生涯を終えよったが、ほんま豪快でええ男やったなぁ。嶋崎がおらなんだら、わしは闇市でのたれ死んでたやろな。右腕に焼けどの痕があるんやが、これは戦闘とは関係ない。愚連隊にいたころな、刺青いれてて、堅気の商売するために、それを自分で焼き鏝で消しよったんや。剛毅なやつやった・・・」といった。
その後前田俊作さんは、亡き嶋崎さんの分もと商売に励んだそうだ。
会社の規模も大きくし、物流や保守管理業などのサービス部門にも進出し、多角経営を推進していった。
その間妻もめとり、子供も二人生まれたが、何故か男子は授からなかった。
娘に婿養子を迎え会社を継がすことは考えず、姉夫婦の忘れ形見である甥っ子を、後継者として育て上げた。
現グループ会長であり、今日の会食ではご老公の左隣に座っている。
間もなく相談役に退き、長男さんに代を譲る予定と聞く。
ご老公の眼差しは、いつの間にか険しく変貌していた。
「もう六十年以上も昔の話で、自分の記憶に混同していることもあるだろう。ことに南方戦線でのことは爆風を受けたこともあり、まるで霧の中にいるようにぼやけている。大陸での関東軍時代のほうが、比較的に記憶が鮮明だったりもする。しかしながら、あなたがたのような戦争を知らない世代の人にこそ、戦争の愚かしさ悲惨さを知ってもらいたいので、長々と繰言を並べてしまった」
苦い笑みを浮かべるご老公。
いつしか関西弁は消え、前田中尉の言葉となっていた。
「タッド・タケナカとは縁があったのだろう、再会を果たせたが六年前に急性肺炎で亡くなられた。あの囮作戦での嶋崎以外の部下たちは、戦没者名簿の上の活字として残っただけだった。当時まだ二十歳そこそこの、あたら若い命を散らして、遥か南の地の土になってしまった。自分だけが今尚生き恥を晒している。これではあべこべだ。あの時夜が明けたなら、米軍は攻撃を開始する前に、我々に投降を促したことだろう。部下たちを米軍に投降させ、自分は帝国陸軍士官として、あの場で自決するべきだったのだ。そうしなかったのは、ただ死にたくなかったからに他ならない。本音で語れば、もう怖くて怖くて、一刻も早くその場から逃れたかった。だからこそ無謀な退却作戦を実行してしまったのだ。隊列の殿にいたのは、真っ先に弾に当たりたくはなかったし、先頭に立てば部下を無視し走り出すか、逆に足がすくんで一歩も進めない恐れがあった・・。まぁあの隊列順は嶋崎兵曹長が考え、情けなくも自分がそれにうなずいただけだったのだがな。戦犯としては裁かれはしなかったが、部下たちを犬死させた悔恨の情を、一生背負わなければならない。なにも東條英樹ら戦犯たちだけが悪いのではない、自分みたいな輩が戦争を泥沼化させていったのだ。私情で動いてしまって、若者たちを死なせたような男が、えらそうにはいえないが、戦争とは国と国との諍いで起こると思うだろうけれど、実は数人の権力者の私利私欲から起こることのほうが多いのだ。一部の特権階級の個人的な利権を、巧みに国家の利権にすり替えてしまう。個人の私利私欲のために膨大な尊い命が消費される、それこそが戦争の恐ろしいところなのだ」
「勝てば官軍で正義となり、敗者は悪として裁かれる。正義と信じて命を賭けて戦ってきたものが、負けたら全否定されてしまう。厳しい話だ。敗軍の将兵を語らずというが、全否定されたものを語ってみても意味はない。おおそうだ、実は自分も8月9日生まれなんだ、それに死んだ嶋崎は8月6日生まれ。8月9日といえば、ソ連が不戦協定を破って、満州へ侵攻を開始した日でもある。油断していた関東軍は主力部隊を南方に送っていたもので、もう勝ち目がないと、日本の一般民を捨てて敗走してしまった。このことが多くの残留孤児を生むことになる。東京や大阪の大都市が絨緞爆撃されたことや、広島と長崎に奇妙な新型爆弾が投下されたことは、なんとなく収容所で耳にしていた。原子爆弾とは、地獄からの使者がこの世にもたらした、あれは本当に悪魔の兵器だ・・・・」
ご老公のその言葉を潮に、会はお開きとなった。
前田俊作中尉は、長く心に溜まっていた毒を、この夜吐き出したのかもしれない。
私にとって、実に印象深い夜となった。
末筆ながら、戦没者の方々のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。
注.歴史上著名な人物以外の人物名は総て仮名です、又使用方言は正確ではありません。