長尾景虎の戯言

読んだり聞いたりして面白かった物語やお噺等についてや感じたこと等を、その折々の気分で口調を変えて語っています。

高木彬光著【能面殺人事件】

2010-10-08 09:12:40 | 本と雑誌

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この著者の作では、神津恭介や霧島三郎検事等のシリーズが有名であるが、本作では高木彬光自身を、推理作家となる以前の姿で、探偵として登場させている。
昭和21年、終戦の翌年の夏、三浦半島の海浜ホテルに滞在していた高木彬光は、高校時代の友人柳光一とでくわす。
探偵小説マニアの高木は、柳からいっそ私立探偵になるか、探偵小説を書いてみてはどうかと、まんざら冗談でもない口吻で勧められる。
高木はそれに応えて、私立探偵となり間抜けなワトソンの存在がない、いまだ前例を見ない、探偵自身が描く推理小説を書いてみたいといった。
しかしそれが、千鶴井(ちづい)家の悲劇の真相と秘密のすべてを解決した、柳光一の手記によって、意外な形で現実のものとなってしまう。
それは正に探偵の自叙伝だった。
千鶴井家の惨劇が終焉を迎えた後、担当官である石狩弘之検事の手紙が添えられ、高木のもとにその手記は届けられた。
横浜地方検察庁に転任となった石狩弘之検事は、三十年前のほろ苦い思い出の地、三浦半島に訪れた。
驟雨の後に二重の虹を認め、その跡を追って海岸を彷徨ううちに、いつしか千鶴井家の門前に辿りついていた。
そこで十年ぶりに、柳光一とめぐり会った。
石狩検事の高校時代の無二の親友、柳源一郎の忘れ形見であった。
ビルマから復員した柳光一は、千鶴井家に厄介になっていた。
彼の恩師である千鶴井壮一郎博士は十年前心臓麻痺で他界し、今はその弟の泰次郎が当主となっていた。
博士の妻香代子は発狂し、大岡病院に入院中で、そして遺伝なのか娘の緋沙子もまた発狂していた。
跡取である長男の賢吉は発狂こそしていないが、心臓弁膜症に冒され、まだ中学受験を控える若年の身ながら長い命ではなく、ノーベル賞に値するほどの研究を為した、千鶴井壮一郎博士の天才の血が消えようとしていた。
(注.中学とは恐らく旧制中学のことであろう、新制中学は昭和22年4月より全国で発足している)
そんなわけで千鶴井家は分家である、泰次郎が引き継いでいた。
泰次郎は物欲の権化である。
その長男麟太郎は虚無主義者で、力だけを信奉する男。
次男洋二郎は泰次郎の小型版である。
娘の佐和子だけが、唯一まともといえた。
そして千鶴井家にはもうひとり、園枝老未亡人がいる。
壮一郎の父親の後妻であり、泰次郎の実の母親である。
つまり壮一郎と泰次郎は異母兄弟である。
園枝は脳溢血により、半身が不自由であった。
数日後石狩検事は、柳光一に誘われ漁村の祭りに出かけ、その帰途再び千鶴井家の建つ岬へかかったとき、世にも悲しいピアノの音を耳にする。
狂女緋沙子が奏でる文字通りの狂想曲で、凄愴な鬼気を感じさせた。
そしてそのときだった。恐ろしい鬼女が、千鶴井家の二階の窓から顔を突き出して、月光の中で笑いはじめた。
狂女緋沙子が奏でるピアノの音は、なおもつづいていた。
恐ろしき鬼女の顔と見紛ったのは、千鶴井家に秘蔵される赤般若の面であった。
能楽師宝生源之丞の呪詛を宿したといわれる、悪霊の面である。
誰が面をかぶっていたのかと訝る石狩検事は、泰次郎に話を聞くため千鶴井家の敷居をまたいだ。
石狩検事の話に恐怖する泰次郎は、かの能面に纏わる忌まわしい言い伝えを聞かせる。
そして能面が保管されているガラスケースのある洋間に、石狩検事に請われるまま案内する。
能面は鍵のかかったガラスケースに収まっており、部屋の一隅にあるピアノの前には、緋沙子が空ろな眼をして腰をおろしていた。
しかし緋沙子はピアノを奏でていて、面をかぶって窓に立つことはできなかったはずだ。
いったい誰が面をかぶっていたのか・・・?
千鶴井家には何かの秘密が隠されていると確信した石狩検事は、柳光一にこの家のひとびとに関する気づいたすべての事柄を手記にするようにいう。
鬼女の出現以来何かの恐怖におびえる泰次郎は、柳光一に警察や検事でなく、私立探偵を頼みたいと相談する。
そこで高木彬光に相談することになった。
泰次郎の依頼状を携え、海浜ホテルの高木彬光の部屋に訪れた柳光一。
高木が依頼状を読み終えてすぐに、泰次郎から部屋に電話がかかる。
鬼女の正体がわかったという・・・。
誰かは電話ではいえないとのことで、不吉な思いに囚われながら、二人は急ぎ千鶴井家へ向かった。
しかし泰次郎は、密室状態の自室で死んでいた。
死体からは何故か香水の匂いが漂い、扉の前にはかの呪われた能面が落ちていた。
状況からいって到底自然死とは思えない。
泰次郎がホテルにかけてきた、電話の内容が速記された紙片を、高木は階段口で拾った。
警察には見せず、犯人と戦う切り札にすると柳に話す。
電話は盗み聞きされていたのだ。
駆けつけた千鶴井家の主治医山本博士は、外傷も毒物の痕跡もなく、死因は心臓麻痺としかわからないといった。
千鶴井家に潜む秘密を隠したい家の者達と、高木との間で喧々とする中、葬儀屋がやって来た。
その後にやっと警察が到着し、ひとまず高木は現場を維持したまま引き渡すことに成功した。
葬儀屋は誰が呼んだのかはわからないが、棺が三つ注文されていた。
犯人は三人の殺人を計画し、それを大胆にも予告しているのだ。
警察も殺人と断定し捜査を進めた。
翌日海浜ホテルの部屋で高木が柳に、警察による関係者に対する取調べの状況を話して聞かしているところに、千鶴井洋二郎が訪れた。
高木は洋二郎に見えるように、速記文字で「犯人は千鶴井洋二郎」と記したが無反応だった。
彼は伯父壮一郎の隠された財宝を、探し出して欲しいと高木に依頼する。
財宝が発見されれば、犯人の正体もわかるというのだ。
洋二郎が帰った後、今度は妹の佐和子が訪れて来た。
高木は洋二郎のときと同じように、「犯人は千鶴井佐和子」と速記で書くと、佐和子は顔色を変えて立ち上がった。
口論となり、佐和子は怒って帰っていった。
そして第二の犠牲者となったのは、洋二郎であった。
高木が千鶴井家を捜索中、「第二の犠牲者」との予告状が、洋二郎の部屋の扉にかけられていた。
高木は洋二郎と密かに入れかわり、犯人の正体を突き止めようと、夜十時に庭の四阿で落ち合うことにした。
しかし約束の時間前に洋二郎は姿を消し、そして四阿で死体となって発見された。
死体からはジャスミンが香り、その胸の上には一枝の造花の紅葉が横たわっていた。
父親泰次郎と同じような死に方であった。
翌日柳と高木は、石狩検事のもとを訪れた。
柳は千鶴井壮一郎博士の死に疑惑を呈する。
洋二郎は博士の残した財宝に言及し、それを自分たちの物になったかのように錯覚していた。
財宝の正当な継承者は、狂人であれ病人であれ、香代子夫人及び緋沙子それに賢吉である。
話すうちに柳は恐ろしいことに気づく。香代子夫人は本当に発狂しているのだろうか・・・。
三人は大岡病院に急行したが、とき既に遅し、香代子は虫の息であった。
彼女は謎の言葉を最期に残し、息を引き取った。「八十二の中の八十八 ポーシャ」
そして第三の犠牲者は園枝未亡人であった。犯人はいったい誰だ・・・?
だが高木は第三の惨劇が起こった後、一身上の要件で、事件の解決を見ずして東京に引き上げてしまう。
千鶴井家に起こった惨劇の真相とそこに潜む秘密は、柳光一の手記によって次第に解き明かされていく・・・。

本書は他に密室殺人をテーマにした【第三の回答】と、顔のない死体をテーマにした【大鴉】の短編二作が採録されている。
思えば【能面殺人事件】を秀作と知人から紹介を受けてから、いったい何年越しで読んだことだろうか。
既読と勘違いしていたことがその要因となった。
紹介を受け確かに以前これを読もうとしたのだろう、ここ数年のことではない、十数年も前のことだ。
その折には最後まで読むことはできていない、どんな事情か今となっては思い出せないが。
今回読み終えて、久々に骨太の本格推理小説を読んだ心地である。
二重三重のきりかえしが用意され、読む者をゆさぶる。
最早古典的手法ではあるのだが、古臭さを感じている暇はなかった。
著者高木彬光はミステリの巨人と呼ばれた、天才肌の作家である。
海外の探偵小説に造詣が深く、国内では江戸川乱歩や横溝正史や小栗虫太郎等に傾倒して、ついには自ら探偵小説を書くこととなった。
まだよき日であった戦前の昭和の、ダンディズムやモダニズムやロマンチズムが、若き日の高木誠一(高木彬光の本名)の感性を育んだのである。
鮎川哲也等とともに、戦後乱歩により見出され、【能面殺人事件】は職業作家となってから初めて世に送り出した野心作。
正史の【夜歩く】とオーバーラップするところもあるが、実はほぼ同時期に世に出された作品である。
【夜歩く】のほうが少し先の発表となったが、あまりに時期が近すぎてヒントを得るわけにもいくまいが、蠱(こ)惑的な月光の下、浜辺の砂丘で恠(あや)しく語られるひとの死の姿を描いた幻想小説である、【かいやぐら(蜃気楼)物語】からは発想を得たようである。
芥川賞作家松本清張が、探偵小説のシチュエーションにはリアリティーの欠如が甚だしいと、後世に社会派推理小説と呼ばれる分野を切り開いた。
推理小説のルネッサンスともいわれる変革の時期となり、探偵小説不遇の時代を迎え、旅情サスペンスと化していくのである。
【能面殺人事件】が長編賞を受けた日本探偵作家クラブも、日本推理作家協会へと変遷する。
高木彬光もこの流れに少なからず影響され、社会派ピカレスクロマンとでも表現すべき、代表作のひとつ【白昼の死角】を執筆することとなる。
ところが角川の映画参入により、横溝正史の【犬神家の一族】が映画化されるや、正史の第二次ブームが到来し、レトロな探偵小説は復興することとなった。
それに加えて乱歩文学とも呼ばれる、江戸川乱歩の妖しくも官能的な世界や、ノスタルジックな少年探偵団にも、根強いマニアの存在があった。
その一方では【白昼の死角】も映画化され、大ヒットとなった。
高木彬光は晩年、脳梗塞の発作に数度みまわれ、心身とも蝕まれ、ついにはペンを折ることとなった。
乱歩から受け継いだ、鮎川哲也による新人発掘及び育成の努力が実り、やがて新本格派が旗揚げすることとなり、探偵小説は見事市民権を取り戻したといえるだろう。


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