お正月なので、もう少しひとりごちてみます。
最近思い立って昔好きだったバロック音楽を、ピアノやオルガン(昨年1月に東京で購入した安いデジタルピアノですが、なかなか良いパイプオルガンの音が入っているので)で弾いたりしています。
昨日そろそろ曲を暗譜しようとスコア(楽譜)なしで弾き始めたのですが、その途端、これまで間違えたことない場所でミスをしたり、急におどおどした感じになって自分でも思わず苦笑してしまいました。
振り返ってみると、今その瞬間に自分が奏でている音だけしか感じておらず、まるで暗中模索のような状態だったことに気付きました。
しかしこれは僕達が、日々生きていくことも似ているな、とそんな風に思います。
今精一杯で生きているその瞬間、その瞬間だけで、先の見えない毎日。
とくに昨今のような暗い話題がとかく多い、また将来に希望を見つけにくい世の中であればなおさら、意味もなく不安な気持ちに襲われることがあります。
でももし、全体の演じるべき音楽(曲)の姿がはっきり見えた状態で、フレーズの中で1つ1つ確かめるように音を奏でることが出来れば、、、。
よくよく考えてみれば、所詮は毎日弾いている馴染みの曲。
5本の指をピアノの鍵盤の上に戻して、全体のフレーズ、自分の目指すべき全体の曲の姿を思い浮かべて、それをなぞるように音を奏でていくと、嘘のように先程までの不安な気持ちが無くなりました。
10代から音大生だった大学時代までは、RockやPops以上に、僕はクラシック音楽を演奏する機会が多かったのですが、それまでうまくいっていたのに、たった1フレーズミスしただけで酷く動揺し、残りの演奏がボロボロになってしまうことがよくありました。
これも昨日のひとりごとではありませんが、自分は心が弱いせいだ、なんて思ったりしていたのですが、結局はその瞬間、瞬間の「点」で音を奏でるだけで、自分の目指すべき音楽、その全体のフレーズの線をなぞるように演奏できていなかったから、1つのミスで頭が真っ白になってしまったのだろうと思います。
この世に完璧な人間などなく、間違いや失敗をするのが人間という生き物ならば、全体の数百、数千分の一音のミスを悔やんで、その他を台無しにするより、音を奏でた瞬間、瞬間に、それを躊躇なく次々と捨て去るように忘れて、絶えず全体のフレーズを感じながらその先の音を奏でていく方が、結果としてずっと素晴らしい演奏ができるのだと、今は思います。
そしてそれは人生も同じ。
生きていくことに酷く不安に思うそんな夜は、きっと自分の進むべき姿を見失っているのかもしれません。
人生に答えが無いならば、進むべき姿というのは、きっと自分のなりたい姿、やりたい事、こんな風に生きてこんな風に死んで行きたいという、そんな人生のことなんだろうと思います。
とはいえ、追われるように慌ただしく過ぎていく毎日の生活の中で、今の自分が正直どうしたいのかよくわからなくなることがあります。
そんな時僕は、旅先の孤独という名の静寂の中で、「お前はどうしたいんだ?どう生きたいんだ?」とそう自分に問いかけています。
楽譜には音を奏でる音符と、音を奏でない休符が書かれています。
でも音楽の中で休符というものは「意味の無いただの休み」ではなく、全体の曲を構成する上で、「非常に重要な役割」を持っています。この休符をどう使うかで、全体の曲の雰囲気がガラッと変わってしまったりもします。
自分にとって、旅先での自分自身との会話の時間は、この「休符」の役割なのかもしれないなと思ったりもします。
人生もそう、「音の鳴っている部分」だけで成り立っている訳ではありません。
生きていくことに不安を感じたら、そう。なんちゃってフィクション作家にでもなりきって、生まれてから死ぬまでの自分の自伝を、子供の頃の落書きのように、書いてみるといいのかもしれません。
その中で今、自分が何ページ目にいるのか考えてみる、、、そんなことを今度やってみようかな、なんて思っています。
(といっても、生まれた、生きた、死んだの三行で終わっちゃったりしたら、どの辺りなんて感じる余裕はありませんが。<おいおい、もうちょっと書けるだろう。笑)
生前葬なんてモノがある位だから、生前自叙伝?なんていうのもあっていいんじゃないかと思います。
どうせ他人にみせないなら、思いっきり図々しいヤツを今度書いてみようと思う、今日この頃です。(笑)
最近思い立って昔好きだったバロック音楽を、ピアノやオルガン(昨年1月に東京で購入した安いデジタルピアノですが、なかなか良いパイプオルガンの音が入っているので)で弾いたりしています。
昨日そろそろ曲を暗譜しようとスコア(楽譜)なしで弾き始めたのですが、その途端、これまで間違えたことない場所でミスをしたり、急におどおどした感じになって自分でも思わず苦笑してしまいました。
振り返ってみると、今その瞬間に自分が奏でている音だけしか感じておらず、まるで暗中模索のような状態だったことに気付きました。
しかしこれは僕達が、日々生きていくことも似ているな、とそんな風に思います。
今精一杯で生きているその瞬間、その瞬間だけで、先の見えない毎日。
とくに昨今のような暗い話題がとかく多い、また将来に希望を見つけにくい世の中であればなおさら、意味もなく不安な気持ちに襲われることがあります。
でももし、全体の演じるべき音楽(曲)の姿がはっきり見えた状態で、フレーズの中で1つ1つ確かめるように音を奏でることが出来れば、、、。
よくよく考えてみれば、所詮は毎日弾いている馴染みの曲。
5本の指をピアノの鍵盤の上に戻して、全体のフレーズ、自分の目指すべき全体の曲の姿を思い浮かべて、それをなぞるように音を奏でていくと、嘘のように先程までの不安な気持ちが無くなりました。
10代から音大生だった大学時代までは、RockやPops以上に、僕はクラシック音楽を演奏する機会が多かったのですが、それまでうまくいっていたのに、たった1フレーズミスしただけで酷く動揺し、残りの演奏がボロボロになってしまうことがよくありました。
これも昨日のひとりごとではありませんが、自分は心が弱いせいだ、なんて思ったりしていたのですが、結局はその瞬間、瞬間の「点」で音を奏でるだけで、自分の目指すべき音楽、その全体のフレーズの線をなぞるように演奏できていなかったから、1つのミスで頭が真っ白になってしまったのだろうと思います。
この世に完璧な人間などなく、間違いや失敗をするのが人間という生き物ならば、全体の数百、数千分の一音のミスを悔やんで、その他を台無しにするより、音を奏でた瞬間、瞬間に、それを躊躇なく次々と捨て去るように忘れて、絶えず全体のフレーズを感じながらその先の音を奏でていく方が、結果としてずっと素晴らしい演奏ができるのだと、今は思います。
そしてそれは人生も同じ。
生きていくことに酷く不安に思うそんな夜は、きっと自分の進むべき姿を見失っているのかもしれません。
人生に答えが無いならば、進むべき姿というのは、きっと自分のなりたい姿、やりたい事、こんな風に生きてこんな風に死んで行きたいという、そんな人生のことなんだろうと思います。
とはいえ、追われるように慌ただしく過ぎていく毎日の生活の中で、今の自分が正直どうしたいのかよくわからなくなることがあります。
そんな時僕は、旅先の孤独という名の静寂の中で、「お前はどうしたいんだ?どう生きたいんだ?」とそう自分に問いかけています。
楽譜には音を奏でる音符と、音を奏でない休符が書かれています。
でも音楽の中で休符というものは「意味の無いただの休み」ではなく、全体の曲を構成する上で、「非常に重要な役割」を持っています。この休符をどう使うかで、全体の曲の雰囲気がガラッと変わってしまったりもします。
自分にとって、旅先での自分自身との会話の時間は、この「休符」の役割なのかもしれないなと思ったりもします。
人生もそう、「音の鳴っている部分」だけで成り立っている訳ではありません。
生きていくことに不安を感じたら、そう。なんちゃってフィクション作家にでもなりきって、生まれてから死ぬまでの自分の自伝を、子供の頃の落書きのように、書いてみるといいのかもしれません。
その中で今、自分が何ページ目にいるのか考えてみる、、、そんなことを今度やってみようかな、なんて思っています。
(といっても、生まれた、生きた、死んだの三行で終わっちゃったりしたら、どの辺りなんて感じる余裕はありませんが。<おいおい、もうちょっと書けるだろう。笑)
生前葬なんてモノがある位だから、生前自叙伝?なんていうのもあっていいんじゃないかと思います。
どうせ他人にみせないなら、思いっきり図々しいヤツを今度書いてみようと思う、今日この頃です。(笑)