『オリクスとクレイク』 マーガレット・アトウッド (早川書房)
![](http://www.hayakawa-online.co.jp/images/item/111553.jpg)
スノーマンが主人公ということで、寒い冬には最適のファンタジーかと思いきや、スノーマンは雪だるまじゃなくって、主人公の通称だったでござる。ついでに、語源も雪だるまじゃなくって〈憎き雪男〉だったでござる。
破滅SFの系譜とはいえ、SFプロパーの中から生まれたのではなく、ブッカー賞、カナダ総督文学賞候補作というだけあっての文学系作品。
どのあたりが文学的かというと、オチがありません。まぁ、これは3部作の1作目ということもあるのかもしれないが、2作目はこの物語の直接の続編ではないらしい。物語を語るというよりは、描写することに主眼があるような作風。
いや、オチが無いというのは語弊がある。読後の感想として、何も終わっておらず、何も語られていないという感覚が大きすぎるというのが正しいか。なぜ人類はスノーマンを残して滅亡したのかという経緯、その結末は語られる。しかし、スノーマンが語るその経緯は、客観的な真実だったのだろうか。
スノーマンの回想の中で、SF的でもあるテーマがいくつも折り重なり、様々な切子面を見せる。遺伝子工学の行き着く先、絶滅していった動物たち、新たに生まれた動物たち、世界的貧富の格差、人工的に作られた平和、製薬会社のトンデモ陰謀、そして、天才達の日常。
もろくも滅び去った文明の岸辺で、スノーマンはクレイクの子供達と共に生きる。言葉と文学の追想に晒される彼は文学者ではなく、皮肉にも、遺伝子工学社会の中では落ちこぼれた詐欺まがいの広告クリエイターだった。
旧友である天才クレイクと、二人の恋人であったオリクスの残した、遺伝子操作された無邪気な子供達はスノーマンの語る偽物の神話を信じ、無邪気に暮らす。この世界はなぜ壊れたのか。クレイクの子供達はなぜスノーマンと共にいるのか。スノーマンの回想と幻覚がそのいきさつを読者に示す。
まるで遥かな遠未来のようでありながら、実はすべてが終わってからほんの数ヶ月。スノーマンの深い絶望が読者を惑わせるが、文明の残滓はまだ消え果てはいない。スノーマンの短い旅は、まるで創世神話のような冒頭からは意外なオープンエンドへと至る。
スノーマンことジミーは常識外れな天才クレイクと異なり、常識的な人物として描かれるが、果たしてその一人称的な語りは正しいのか。彼が見た世界の終わりに至るクレイクの半生は、本当に彼の見たとおりの姿だったのか。
アジアの貧しい村から売られた少女オリクスのガレージ生活を、ジミーは同情と義憤によって受け止めたが、彼女にとってガレージはこれまでの生活とは比べ物にならない天国だった。そのように、ひとつの事実に真実はいくつもある。ジミーの見たクレイクの真実は事実なのか。
クレイクとオリクスが作った遺伝子操作された人間(展示物)の〈パラダイス〉は、ユートピアなのか、ディストピアなのか。思想的な結論は明確ではなく、そして何が起こったかという結果だけが、スノーマンという語り手によって語られる。
クレイクはなぜオリクスの喉を切り裂いたのか。それも、帰ってきた途端に。そのとき、クレイクが浴びていた返り血は誰のものだったのか。オリクスに何があり、クレイクはそのとき何をしようとしていたのか。このあたりが謎に包まれたままで、何か納得しているのはおかしい。
そしてまた、ジミーの母親の物語も、ジミーの人格形成に大きな影を落としているにもかかわらず、謎すぎる。いったい彼女は何をしようとしていたのか。そして、何を成し遂げたのか、あるいは、成し遂げられなかったのか。
20の扉のように特徴から絶滅動物を当てるゲームと、すべての不幸は人が多すぎるからという言葉の関連性も思わせぶりだが、そのまま思わせぶりなだけ。そこからクレイクの思想を読み取れというのは、意図的に誤読を誘っているようにも思える。
作品中で取り上げられる個別のテーマはそれぞれ興味深く、ジミー、クレイクとオリクスの三角関係恋愛小説としても、バイオハザード系破滅SFとしてもすらすら読める。しかし、作品全体として解釈可能な幅は広すぎて、思索の迷宮へと読者を誘うのである。
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スノーマンが主人公ということで、寒い冬には最適のファンタジーかと思いきや、スノーマンは雪だるまじゃなくって、主人公の通称だったでござる。ついでに、語源も雪だるまじゃなくって〈憎き雪男〉だったでござる。
破滅SFの系譜とはいえ、SFプロパーの中から生まれたのではなく、ブッカー賞、カナダ総督文学賞候補作というだけあっての文学系作品。
どのあたりが文学的かというと、オチがありません。まぁ、これは3部作の1作目ということもあるのかもしれないが、2作目はこの物語の直接の続編ではないらしい。物語を語るというよりは、描写することに主眼があるような作風。
いや、オチが無いというのは語弊がある。読後の感想として、何も終わっておらず、何も語られていないという感覚が大きすぎるというのが正しいか。なぜ人類はスノーマンを残して滅亡したのかという経緯、その結末は語られる。しかし、スノーマンが語るその経緯は、客観的な真実だったのだろうか。
スノーマンの回想の中で、SF的でもあるテーマがいくつも折り重なり、様々な切子面を見せる。遺伝子工学の行き着く先、絶滅していった動物たち、新たに生まれた動物たち、世界的貧富の格差、人工的に作られた平和、製薬会社のトンデモ陰謀、そして、天才達の日常。
もろくも滅び去った文明の岸辺で、スノーマンはクレイクの子供達と共に生きる。言葉と文学の追想に晒される彼は文学者ではなく、皮肉にも、遺伝子工学社会の中では落ちこぼれた詐欺まがいの広告クリエイターだった。
旧友である天才クレイクと、二人の恋人であったオリクスの残した、遺伝子操作された無邪気な子供達はスノーマンの語る偽物の神話を信じ、無邪気に暮らす。この世界はなぜ壊れたのか。クレイクの子供達はなぜスノーマンと共にいるのか。スノーマンの回想と幻覚がそのいきさつを読者に示す。
まるで遥かな遠未来のようでありながら、実はすべてが終わってからほんの数ヶ月。スノーマンの深い絶望が読者を惑わせるが、文明の残滓はまだ消え果てはいない。スノーマンの短い旅は、まるで創世神話のような冒頭からは意外なオープンエンドへと至る。
スノーマンことジミーは常識外れな天才クレイクと異なり、常識的な人物として描かれるが、果たしてその一人称的な語りは正しいのか。彼が見た世界の終わりに至るクレイクの半生は、本当に彼の見たとおりの姿だったのか。
アジアの貧しい村から売られた少女オリクスのガレージ生活を、ジミーは同情と義憤によって受け止めたが、彼女にとってガレージはこれまでの生活とは比べ物にならない天国だった。そのように、ひとつの事実に真実はいくつもある。ジミーの見たクレイクの真実は事実なのか。
クレイクとオリクスが作った遺伝子操作された人間(展示物)の〈パラダイス〉は、ユートピアなのか、ディストピアなのか。思想的な結論は明確ではなく、そして何が起こったかという結果だけが、スノーマンという語り手によって語られる。
クレイクはなぜオリクスの喉を切り裂いたのか。それも、帰ってきた途端に。そのとき、クレイクが浴びていた返り血は誰のものだったのか。オリクスに何があり、クレイクはそのとき何をしようとしていたのか。このあたりが謎に包まれたままで、何か納得しているのはおかしい。
そしてまた、ジミーの母親の物語も、ジミーの人格形成に大きな影を落としているにもかかわらず、謎すぎる。いったい彼女は何をしようとしていたのか。そして、何を成し遂げたのか、あるいは、成し遂げられなかったのか。
20の扉のように特徴から絶滅動物を当てるゲームと、すべての不幸は人が多すぎるからという言葉の関連性も思わせぶりだが、そのまま思わせぶりなだけ。そこからクレイクの思想を読み取れというのは、意図的に誤読を誘っているようにも思える。
作品中で取り上げられる個別のテーマはそれぞれ興味深く、ジミー、クレイクとオリクスの三角関係恋愛小説としても、バイオハザード系破滅SFとしてもすらすら読める。しかし、作品全体として解釈可能な幅は広すぎて、思索の迷宮へと読者を誘うのである。