『時間線を遡って』 ロバート・シルヴァーバーグ (創元SF文庫)

タイムパトロールを主人公とした時間SFは数々あるが、タイムパトロールと同じ組織の中に、随伴ガイド部なんてものがあるのを知っているだろうか。これは社会の落伍者になりかけた男が時間旅行随伴ガイドとなり、ご先祖様に恋してドタバタを繰り広げる物語。
こんな旅行会社があったら古代文明の街へ、エジプトでも南米でもどこでもいいから、行ってみたいものだ。しかし、この随伴ガイドはご免だ。こんな面倒なことに巻き込まれたくは無い。
この小説は、シルヴァーバーグがワールドコンNippon2007で来日したときのシルヴァーバーク企画で話題に上がっていた小説だ。タイムトラベルの原理はマジックに過ぎないが、そこから導かれる論理的な設定が非常に興味深い。それはシルヴァーバーグの著作姿勢を特徴的に捕らえているのであろう。
どこまでなら大丈夫、ここから先は大騒ぎという線引きが明確で、読者とも共有されるがゆえに、後半のドタバタの重大さが際立つのだ。時間の流れとはまったく独立な因果関係は存在しうる。ゆえに、たびたび起こるドタバタはパラドックスではなく、れっきとした論理的な帰結なのである。
過去の改変によって存在が消えてしまうという演出も、映画『バックトゥーザフューチャー』のようなお笑いではなく、論理的な帰結として存在の消えるポイントが明確化されていたり、細かいところまで気を配っている。ただ、ラストだけは論理よりもストーリー優先かも知れないけど。
そして、タイムトラベルの論理と並んで、この小説で大きな要素となるのが性行為。未来人である主人公も、過去のビザンチン時代の人々も、滑稽なほどにヤリまくる。
ご先祖様とやったり、子供とやったり、同性愛なんて誰も驚きもしない。一部の人には認められないかもしれないが、現代は性がもっとも抑圧されている社会なのだ。この複雑な時間迷宮の中で繰り広げられる性行為の、どこまでをモラルとアンモラルの境目として認識するのかということは、読者の読み方にゆだねられている。
さて、Nippon2007のシルヴァーバーグ企画に出演していたひかわ玲子氏が、中学生時代にこの小説を読んで大変感動し、ワクワクしたということを繰り返し話していた。その話題の中で、タイトルを何度も「じかんせんを“たどっ”て」と言い間違っていたのは、当時のひかわ氏がそう読み間違っていたということなんじゃないかな、と思っている。
“遡って”も読めないくらいの子供がこんなエロエロ小説を読んで興奮しているなんて、想像すると、ちょっとヤバげなシーンである。

タイムパトロールを主人公とした時間SFは数々あるが、タイムパトロールと同じ組織の中に、随伴ガイド部なんてものがあるのを知っているだろうか。これは社会の落伍者になりかけた男が時間旅行随伴ガイドとなり、ご先祖様に恋してドタバタを繰り広げる物語。
こんな旅行会社があったら古代文明の街へ、エジプトでも南米でもどこでもいいから、行ってみたいものだ。しかし、この随伴ガイドはご免だ。こんな面倒なことに巻き込まれたくは無い。
この小説は、シルヴァーバーグがワールドコンNippon2007で来日したときのシルヴァーバーク企画で話題に上がっていた小説だ。タイムトラベルの原理はマジックに過ぎないが、そこから導かれる論理的な設定が非常に興味深い。それはシルヴァーバーグの著作姿勢を特徴的に捕らえているのであろう。
どこまでなら大丈夫、ここから先は大騒ぎという線引きが明確で、読者とも共有されるがゆえに、後半のドタバタの重大さが際立つのだ。時間の流れとはまったく独立な因果関係は存在しうる。ゆえに、たびたび起こるドタバタはパラドックスではなく、れっきとした論理的な帰結なのである。
過去の改変によって存在が消えてしまうという演出も、映画『バックトゥーザフューチャー』のようなお笑いではなく、論理的な帰結として存在の消えるポイントが明確化されていたり、細かいところまで気を配っている。ただ、ラストだけは論理よりもストーリー優先かも知れないけど。
そして、タイムトラベルの論理と並んで、この小説で大きな要素となるのが性行為。未来人である主人公も、過去のビザンチン時代の人々も、滑稽なほどにヤリまくる。
ご先祖様とやったり、子供とやったり、同性愛なんて誰も驚きもしない。一部の人には認められないかもしれないが、現代は性がもっとも抑圧されている社会なのだ。この複雑な時間迷宮の中で繰り広げられる性行為の、どこまでをモラルとアンモラルの境目として認識するのかということは、読者の読み方にゆだねられている。
さて、Nippon2007のシルヴァーバーグ企画に出演していたひかわ玲子氏が、中学生時代にこの小説を読んで大変感動し、ワクワクしたということを繰り返し話していた。その話題の中で、タイトルを何度も「じかんせんを“たどっ”て」と言い間違っていたのは、当時のひかわ氏がそう読み間違っていたということなんじゃないかな、と思っている。
“遡って”も読めないくらいの子供がこんなエロエロ小説を読んで興奮しているなんて、想像すると、ちょっとヤバげなシーンである。