神なる冬

カミナルフユはマヤの遺跡
コンサドーレサポーターなSFファンのブログ(謎)

[SF] 雲の王

2012-07-15 13:43:43 | SF

『雲の王』 川端裕人 (集英社)

 

 

第51回日本SF大会 variconの企画で川端さんと大森さんの対談、というかパネルを見た。

そこでの話が面白かったので、その場で買ってしまった本。当然のようにサイン入り。一番乗りだったコンサドーレユニは俺です。すみません。


水蒸気を見ることができ、空の温度分布を見ることができる。それにより天気を予測する超能力を持つ一族。それに対し、気象を観測し、予測し、さらには制御しようとする科学技術。

「充分に発達した科学技術は、魔法と見分けが付かない」というが、これが超能力ではなくて、特殊な観測技術であっても大枠の話は成り立つ。しかし、郷や一族の歴史が与えてくれる暖かな感覚は、冷たさを感じる科学技術には替え難い。

この暖かいとか冷たいとか言った感じ方がステレオタイプなのは自分でもわかっているし、これも文化のひとつなのだよなと思った。

雲を科学的に正しくとらえるということと、非科学的な能力を持った一族の歴史と葛藤を描くということがうまく組み合わさり、科学小説でありながらファンタジーであるということを両立させる稀有な小説になっている。そしてそれは、自然と相対するときの著者の姿勢、思想を表しているように思え、それに影響され、読者のものの見かたさえも変えてしまう力がある。

宇宙や未来ということよりも、身近なものに感じるセンス・オブ・ワンダーを題材にしたいという意識そのまま。『雲の王』において、空の一族という架空の存在を通して描かれるのは、遠い異星の気象ではなく、まさしく我々を取り巻く地球の大気であり、日本の台風である。水蒸気が見える、温度分布が見えるという特殊能力は、そのまま科学的なガジェットにも置き換え可能ではあるが、空の一族という土着の人々を登場させることにより、農耕民族として自然と折り合いながら(敢えて共存とは言わず)生きてきた日本人の歴史の重みを感じる。

そしてまた、大富豪が指揮するLCIという機関が目指す「善いと信じる研究を成せ」という精神は、ノーベルやアインシュタインの後悔を越え、科学技術を発展させる上での重要な指標になるはずだ。そこにもまた、著者の思想が見える。しかし、それは非常に難しい。はたしてそれはどうすれば可能なのか。

台風という怪獣を、科学技術で力づくで押さえ込むのではなく、穏やかに抑えるということができれば、「善きを成せ」と言われる思想を踏まえて、自然と共存する豊かな未来が見えるかもしれない。

雲や気象だけの問題にとどまらず、著者が追い続けているクジラやイルカの問題、さらには、原発事故や再生可能エネルギーの問題にまで、その思想は広がっているはずである。そして、雲だけではなく、いろいろなものの見方を変える力を持つ小説ではないかと思う。(ちょと大げさすぎか……)


台風の来ないと言われていた北海道生まれなので、台風に対するわくわく感は、実はあんまり無い。きっと子供の頃であれば、学校が休みになったりしたんだろうけど、社会人じゃ、電車が止まっても会社は休みにならないし、めんどくさいだけだ(´Д`)

北海道だと、朝の最低気温が、確かマイナス27度まで行くと始業時間繰り下げになったので、それはワクワクしながらニュースを見てた記憶がある(笑) そういった意味では、自然という怪獣にワクワクするこどもたちには共感せざるを得ない。もちろん、昨今の集中豪雨などでも、わくわくするでは済まされない被害が出ているのを承知の上であってもだ。肉親や知り合いを災害で失っていれば、また感じ方は違うのだろうけれど。


ちなみに、リンク先の集英社の特設サイトには、小説中に登場する「プードルの顔」のような雲をはじめ、いろいろな雲の写真も掲載されており、一見の価値あり。

 


[SF] SFマガジン2012年8月号

2012-07-15 12:16:03 | SF

『S-Fマガジン 2012年8月号』 (早川書房)

 

 

今月号の特集は「日本作家特集」。

といっても、普段の記事構成とあまり変わらず、特集記事っぽくない。最近の日本SFはこんな感じでーみたいな俯瞰の記事が一本あっても良かったんじゃないか。

Jコレ10周年記念トークショー採録もあるけど、6月号でJコレ特集やったばっかりじゃん。

ぼくたちのリアル・フィクションからJコレに続き、第6世代、さらには第7世代の作家を発掘し、紹介していくという早川書房の姿勢には非常に感銘を受けるし、これからも日本SFの牽引役として先頭に立っていただきたいのですが、とっととハヤカワSFコンテストを再開しろよ。

 


「ロワーサイドの幽霊たち」 宮内悠介

 なんにせよ、このネタを書く勇気には敬服する。アメリカ人にどのように受け止められるのかが不安ではあるけれど。
 内容的には肯定なのか否定なのかよくわからない感じ。リアルでやるなよ、ぐらいが正しいか。
 あ、遅ればせながら、直木賞候補おめでとうございます、

「はじまりと終わりの世界樹」 仁木稔
 えーと、これは『グアルディア』に直接続く話でいいのかな。
 何でそうなるんだよという違和感をいくつも重ねながらも、まったく泣けない悲劇的な話。
 

他に気になったのは、アップルシードの荒牧監督が『スターシップ・トゥルーパーズ』をリメイクする話ぐらい。

川又千秋の『幻詩狩り』英語版の解説が《現代SF作家論》シリーズとして載ったことには、内容よりもその事実に驚いた。日本SFは言語の問題があってなかなか海外には出ていけないのだけれど(神林作品だって、日本語の駄洒落や語感の面白さに支えられている)、こういう風に日本SFが海外でどのように評価されているのかを読むのも面白い。

肝心の『幻詩狩り』は、そういえばフー・メイっていたなくらいしか覚えていないのでなんとも……。

 

 


[SF] いま集合的無意識を、

2012-07-15 11:36:38 | SF

『いま集合的無意識を、』 神林長平 (ハヤカワ文庫 JA)

 

 

小説を読んだら、映画を見たら、すべて感想文を書こうと思っている。そう決めている。いわば、自分ルールである。したがって、この短編集についても、何かを書かねばならぬ。

ところが、正直言って、俺みたいな読者にとって、飛氏の解説に付け加えるようなものもないし、個人的な感想といえば、「ああ」とか、「うぉお」とかの感嘆にしかならない。読んだのは5月くらいだったのだけれど、気持ちがまとまらなくて感想文は棚上げになっていたままだった。

それでも、感想をまとめなければと思ったのは、『ぼくらは都市を愛していた』を買ってしまったからだ。

ついに神林長平の久々の長編『ぼくらは都市を愛していた』が発表された。『アンブロークンアロー』から3年。シリーズもの以外の長編と考えると、『ラーゼフォン』以来10年ぶりである。しかし、この長編を読む前に、この短編集を片付けておかなければならない。なぜならば、『ぼくらは都市を愛していた』は、「いま集合的無意識を、」の回答編であるはずだからだ。


実は「いま、集合的無意識を、」を最初にSFマガジンで読んだときには、いまひとつピンと来なかった。

(余談だが、これが掲載されたのはSFマガジン2011年8月号、あの初音ミク特集である。ミク目当てで買った、あまりSFコアに近くない人たちがこの小説をどのようにとらえたのか。ある意味タイムリーな神の采配であるかもしれない。)

伊藤計劃の死と、東日本大震災に対するコメントを求められた神林長平が作品として放ったもの、それは新たな挑戦への決意表明だった。それならば、あえて小説の形にすることもなかったのに。そう思っていた。

しかし、短編集として「ぼくの、マシン」から読み通したときに、そのテーマ性がきれいにつながり、ああ、これは小説として発表されるべきして発表されたのだと思った。


端的に行ってしまえば、古来スタンドアローンとして生きてきた人間が、クラウド化の波に飲み込まれようとしている。シンクライアント化する人間の存在に対し、スタンドアローンを志向/嗜好/思考してきた人間が何を感じ、何をしようとしているのか。言葉にしてしまえば陳腐になってしまうかもしれないが、焦点はそこにある。

そして、それは一人の人間の尊厳を定義するものでもある。俺は俺だ。それを実感すること。そのテーマは、神林のデビュー作「狐と踊れ」まで遡り、今この2012年の現代に実体化する。

同調圧力、読むべき空気、ネット世論、衆愚政治、偏ったTL、いいねだらけのウォール、連絡先登録の多さで測るコミュ度……。


「いま集合的無意識を、」は不完全なタイトルだ。その続きはそのまま本文にある。“人類は意識しようとしている。”

それはまさに、今この現代を指している。

そして、そのあとに続く文章は現代社会への不安と不満を示す。“でもそれはぼくの意識ではないし、僕の無意識でもない。”

さらに“まだ、いまのところは。”と続く。

この危機感を共有できる人はどのくらいいるのだろう。ぼくの意識の喪失を恐怖として実感できる人はどのくらいいるのだろう。


“意識が生んでいる〈わたし〉こそがヒトにとっての最強のフィクションなのだ。そういうものがないと、ヒトは圧倒的な〈リアル〉の力に対抗できない”

もう、感想というより、引用するしかできない。ただ、ここで注目すべきは、フィクションとしての〈わたし〉を囲う括弧と同じ括弧で〈リアル〉が囲われていることだ。それは、〈リアル〉も集合的無意識が生むフィクションでしかないことを明確に示している。

〈リアル〉に対抗するための〈わたし〉を生む意識、それが武器になる。武器が無ければ戦えず、〈リアル〉に飲み込まれる。

それに恐怖感を覚える人もいるだろうし、祝福だと感じる人もいるだろう。


そして、小説家は語りかける。「もう大丈夫だ」

その回答を、これから見に行こう。

 

 

……で、いつ読むのさ?

 


[コンサ] 2012 J1 第18節 磐田 vs 札幌

2012-07-15 10:39:36 | コンサ

2012年 J1 第18節 ジュビロ磐田 4-1 コンサドーレ札幌 @スカパー

 

前半戦、1勝1分けの勝ち点4。ここからの後半戦、なんとか気を取り直してがんばっていきたいところ。

しかし、遂にキャプテン河合まで怪我で長期離脱となり、まともに戦える状態にならない。

苦肉の策で河合の代わりに宮澤を中央に置いた3ボランチで挑む。しかし、宮澤はもともと攻撃の選手。守備の要を任せてしまって大丈夫なのか?

 

序盤は意外にもプレスもきつく、4-3-3が機能していた。真ん中に固まるのではなく、中盤も左右に開いたり、攻撃にもバリエーションが出てきた。これは3ボランチというより、普通に4-3-3なんでは?

しかし、25分にコーナーキックから失点。後ろから飛び込んでくる選手をつかまえきれていない上に、相手も高過ぎた。

しかも、30分にまったく同じ形でコーナーキックから失点。1回ならば事故かもしれないが、2回連続はやばいだろ。まったく学習能力が無いのか。

ここから完全に意気消沈したのか、はたまた内地の暑さと湿気に一気にスタミナ切れしたのか、まったくボールがつなげなくなって終了。

後半開始早々にも綺麗に失点。

その直後、日高のゴールで1点返すものの、これはオウンゴール気味のスカッとしないゴール。まったく気持ちが盛り上がらん。

さらに1点奪われて、もうどうしようもない。

 

うまくいってたのは序盤だけ。コーナーキックからの失点で選手が委縮したのか勢いは失速。失点した時点で精神的に試合終了してたような感じ。負けているのに守りに入ってしまったように見える。

先週、ヤンツーさんに「もっと自信を持て」と言われた通り。もうそろそろ開き直って、吹っ切れてもいい頃合じゃないのか。練習したって急にうまくなるわけじゃないのだから、メンタル面からでも盛り上げていこう。

 

選手のコメントを見ても「もっと精度を上げなければならない」という言葉が並ぶ。監督が「イージーなミス」と言い続けていることが影響しているのだろうか。

しかし、何度か書いているけれど、お前ら下手なんだから、そこから出発しなきゃ無理だろ。下手なチームが下手なチームなりにどうやって戦うのかを考えろよ。誰でも練習すれば、いきなりメッシやクリロナになれるとでも思ってんのか?

どうも、「俺の戦術はパーフェクトなんだけれど、選手がミスするから勝てない」というように聞こえてしまうんだよね。

監督を変えろと言うつもりは、まったくないけれど、その大きな理由は金銭的問題でしかないのだよ。

サポーターは覚悟できてるけど、確実に不満もたまってるよ。それに対してもケアしていかないと、J1に上がったことがチームにとってマイナスにしかならなくなってしまう。さて、どうする?