『神林長平トリビュート』から芥川賞作家に続いて直木賞作家まで出てしまい、神格化された存在になりそうなのが神林長平。その名前からして神様っぽい神林長平、『アンブロークンアロー 戦闘妖精・雪風』以来、3年ぶりの長編。
これは『いま集合的無意識を、』で予告された伊藤計劃への回答であり、〈わたし〉と〈フィクション〉と〈リアル〉を巡る思索小説である。……のだろうか?
〈わたし〉がスタンドアローンの存在として、ネットに生まれつつある集合的無意識に対抗する武器としての〈フィクション〉。一方で、都市が生む無意識の集合体と、その中でしか生きられない都市的住民が生み出した〈リアル〉も〈フィクション〉に過ぎない。
〈わたし〉の〈フィクション〉が〈リアル〉を作りだし、そこに生きる人々は都市の無意識が〈わたし〉の〈フィクション〉の中で〈リアル〉に現実化しているに過ぎない。
自分で書いていてもよくわかりませんが……。
それよりも、神林の過去の著作、たとえば『太陽の汗』や、『死して咲く花、実のある夢』に近いテーマなのではないかと思う。世界の現実は観測(ああ、懐かしきワーカム!)によって得られた主観的なものに過ぎず、あなたの現実とわたしの現実は違う。そのテーマに続いているのが、この作品なのではないか。
twitterやSNSを元ネタとしたケータイによる「さえずり」が共通に出てくるが、この作品では、いわゆる無意識の集合体としての「さえずり」ではなく、他人の考えが読めるという疑似テレパシーの具現化として登場している。最終的にこの世界は一人の男が制御する世界であることが暴かれるわけだが、つまりこの疑似テレパシーは自問自答の思索にすぎないわけだ。そこは「いま集合論的無意識を、」での取り扱いと大きく異なる。
伊藤計劃への回答、『神林長平トリビュート』参加の若手作家に対する裏切りと挑戦。そういった前評判があったせいで身構えて読んだのが悪かったのか、その意味ではかなりの肩すかしを喰らった感じ。
意外といえばエンコーのくだりくらいで、それ以外は、思いっきり神林長平らしさが炸裂している。10代の頃に好きだった、現実を足元から揺れ動かし、突き崩していく感覚。お前の見ているもの、見えているものは幻であると突きつけられる感覚。それが懐かしくも新鮮に蘇ってきた。
これが神林長平なのだよ。フムン。
“未だ有らず”という名前の姉と、“まったく無い”という名前の弟。この二人の名付け方も、神林らしい。しかし、この世界で普遍的に存在しつつ、まったく無いとはどういうことか。
そして、情報震が揺らしているのはいったい何なのか。
まだまだ消化不良のようなので、近いうちに再読しよう。『太陽の汗』だって、3回目ぐらいから急に面白くなった記憶がある(笑)