『キック・アス ジャスティス・フォーエバー』
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あの『キック・アス』の待ちに待った続編。自主制作映画からメジャー制作になったおかげで、ヘンにお行儀よくなってしまうことを危惧していたけれども、お下劣でグロい部分はそのままに、字幕監修も町山智浩なので、細かいパロディネタも問題無し。
ヒット・ガール=ミンディのダンスシーンひとり演武シーンや、紫色のバイクをブッ飛ばすシーンは恰好良過ぎ。特に、アドレナリン爆発状態で瞳孔を見開いた、スーパーサイヤ人的狂えるスーパー・ヒットガールはかわいさ抜群、怖さも抜群。コワ*kawaiiでびっくりですよ。
敵役の神取忍みたいなマザー・ロシアもすごかった。というか、他の殺し屋がへぼ過ぎで、こいつが目立ち過ぎなのだけれど。
で、映像や演出には大満足ではあるのだが、やっぱり何かが違う。これは脚本のミスなんじゃないか。というか、ストーリーの方向性のミスというか。
『キック・アス』は「ヒーローってなに? 正義ってなに?」っていうテーマを、ヒーローにあこがれるイケてない少年を主人公に描ききった傑作だった。バカ強いヒロインのヒット・ガールは、ダメなキックアスの対極に配置される存在として生まれたはずだった。
一方で、『ジャスティス・フォーエバー』では、父親と子供の関係(アメリカ人ってこのテーマ好きね)がメインになっていて、正義とかヒーローとかはどうでもよくなっているような気がする。
デイヴ=キック・アス、ミンディ=ヒット・ガール、そして、敵役のクリス=マザー・ファッカーも、それぞれに父親、もしくは、父親代わりの存在との間に問題を抱えている様子が描かれる。そして、それはそれぞれに、不幸な結末を迎えてしまう。それはいいのだけれど、それって『キック・アス』の続編としてメインに描くべきものなのだったのか?
さらには、高校生活になじめないミンディのハイスクール・カースト話なんかも、結局どうしたいのかがわからない。「私は私」とか言いつつ、クイーンビー的な価値観を変えるところまでは描けていないような気がする。しかも、デイヴも(白人ってそういうものなのかもしれないけれど)いつのまにかムキムキ筋肉マンになってるし。
俺ら、ナードが世界の価値観をひっくり返す話が観たいのであって、ナードがマッチョになる話を観たいんじゃないんだよ。
メジャーになったせいで、いろんな人がいろんな意見を言って、あれもこれもと欲張り過ぎた結果、どのテーマも掘り下げが浅くなって、ただのクロエのプロモーションビデオになってしまった感じ。
さらに言えば、正義ヒーロー集団のジャスティス・フォーエヴァーはアベンジャーズのパロディなのだけれど、風刺や批判のためのパロディではなく、ただの真似っこでしかなくなっている。物語内の位置づけとして、ただの表面的な模倣であることは当然なのだけれど、メタ的な意味でもう少し意味づけを与えることはできなかったのか。
どちらかというと、悪玉親分のレッド・ミストマザー・ファッカーの方が、「悪ってなに?」という葛藤があったように思う。その結果が、「シティを爆破してやるぜ」というショッカー的に無意味な計画になっていったのだろう。ただ爆破するだけ。そこにはテロのような主義も主張もない。ただ、何でもいいから、悪いことをやりたいだけ。
「正義ってなに?」という『キック・アス』のテーマに対置するように、「悪ってなに?」というテーマがありえたんじゃないか。
クリスがマザー・ファッカーと名乗り始めたのも印象的。クリスの母親殺しの自責の念と開き直りがこの名前に凝集されている。そういう意味では、クリス側を主人公に掘り下げた方が面白味が出たような感じ。
エンドロールの前後に挿入されるシーンからすると、さらに続編もありそうなのだけれど、このまま下品なだけのヒーロー映画で終わるのは惜しい。次作があるとすれば、もう少し脚本を考えて欲しいものだ。