『ブルーマーズ 〈上下〉』 キム・スタンリー・ロビンスン (創元SF文庫)
いやー、長かった。上下合わせて1200ページという長さも長かったが、《火星三部作》の第1巻、『レッド・マーズ』が出てからも長かった。『レッド』が1998年、『グリーン』が2001年。なんとそこから15年以上も空いての『ブルー』だ。
解説でも「諸事情あり」としか書いていないが、この諸事情はSF大会にでも行くと聞けるのだろうか?
この3部作では、〈最初の百人〉と呼ばれる科学者集団が火星に入植してから、火星が独立するまでの約200年が描かれるのだが、なんと老化抑制技術によって彼らの中から最後まで生き残るものが出てくる。というか、彼ら〈最初の百人〉が常に中心に描かれていく。第4世代の子供たちも出てくるが、誰それの子という紹介がなされるあたり、〈最初の百人〉の特別さが良くわかる。
それはある意味、今回のクライマックスである記憶再活性実験において、〈最初の百人〉の生き残りたちが『レッド』の舞台であるアンダーヒルに集結する場面で最大の効果を発揮する……はずだったのだろう。しかし、俺は10年以上前に読んだ本の詳細なんて覚えているはずもなく、この感動を味わえなかったんだよ。ああ、記憶の劣化よ!
『ブルー』は群像劇であり、様々な角度からテラフォーミング後の火星、さらには水星や金星での社会や文化、さらには生態系について考察を交えながら想像を膨らませるという趣向の作品だった。それらをひとつに繋ぐのは〈最初の百人〉のひとりであり、神出鬼没で生死の知れないヒロコの存在だった。だから、ラストではヒロコの行方が判明、もしくは暗示されるものだと思っていた。
しかし、ヒロコの行方は杳として知れず、果ては神格化された伝説と化してしまう。その代わりに作品を貫く主題として浮かび上がってくるのが〈最初の百人〉を襲う記憶障害と突発性崩壊である。そしてそれが、記憶の原理の解明と再賦活化技術(このあたりは最新科学というよりは完全に著者の創造なのだろうが)へとつながり、アンダーヒルでの回想シーンに至る。
最後のシーンは〈最初の百人〉のひとりが、〈最初の百人〉の名前を受け継ぐ子供たちと穏やかに過ごすひと時である。マスクも、防寒服も要らず、アイスが融ける渚で遊ぶ子供たち。これこそが、火星と〈最初の百人〉が勝ち取ったものだ。衝撃的な事件も、不穏な空気も無く、穏やかな日々。これこそが勝利だと思える結末だった。
作品中で描かれる様々なシーンやテーマは多岐に渡るが、印象的なものが多かった。
ひとつは、火星憲法の制定である。様々な立場の人々からなる制憲会議において、そもそも憲法とは何かが議論される。このあたりの議論は、憲法改正が取り沙汰される現在の日本においても興味深かった。
さらには、火星で原始人さながらの狩を行う人々の物語は読んでいて楽しかった。槍を持ち、獲物を追う。それはスポーツでもあり、レクリエーションでもある。これは火星に豊かな生態系が現れた証明でもあるが、日本で考えるとなかなか難しいかもしれない。
もちろん、移民の問題は避けて通れない。火星に地球の文化や摩擦を持ったまま入植しようとする人々。もちろんそこに様々な摩擦が生まれるが、人工増加と海面上昇でパンクしそうな地球の各国はなりふり構っていられない。結果的に火星は戦争を避けるために、人道的に移民を受け入れざるを得ない。このあたりの話題は、2010年代になって初めて日本でも身近に感じられる危機になってきたわけで、そういった意味では今になって出版されたのも悪くなかったのかもしれない。
水星の移動都市も、火星の空を飛ぶ鳥人も、さらなる外惑星や他星系への旅立ちも、他の様々な話題も実に興味深く、それぞれの章だけで一晩中語れそうな具合だ。それぐらい濃密な想像力が溢れてくる作品だった。いずれ、『レッド』から通して読み直すために、積読の棚に積み直したわけだが、果たしていつになることやら。
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