『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』 仁木稔 (ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)
『グアルディア』に始まるHISTORIAシリーズの最新刊。このシリーズのはじまりを描く連作短編集。
昔、『グアルディア』を2chのSF板で絶賛したらボロボロにたたかれたものだけれど、そんなことは昔話になったようだ。月日は流れて変わるものだ。
今となっては伊藤計劃と宮内悠介の流れを組む、伊藤計劃以後SFの旗手とか言ってるやつもいるし。時系列をわきまえていなくて、ほんと阿呆すぎ。もともと伊藤計劃以後SFとか言ってるやつらはSFの歴史を踏まえていないことが多いんだけれどね。ただし、商業的目的で意図的に取り上げている場合を除く。っていうか、商業戦略を真に受けてるんじゃないよ。
そんな一部の妄言はさておき、『グアルディア』を読んだときの高揚感が蘇る「はじまりと終わりの世界樹」が一番好きかも。ここからすべての物語が始まるという背筋がゾクゾクする感覚が半端ない。
ここでこの物語に出てくる“少女”が『グアルディア』の生体端末、アンヘルにつながる少女であることが確定する。そして、生体甲冑を纏うJDの出自までもが明らかになる。まさに、『グアルディア』に直結の物語。
ただし、テーマとしては崩壊前のいわゆる黄金時代が何であったかという、いわばユートピアSF。
解説や本人のブログにもある通り、これは“オメラス”なのである。しかも、自覚的に汚濁を押し付ける先を作り上げた“人工のオメラス”である。
亜人という存在が初めて社会に登場するのは、安価な労働力としてだった。この時点で、モノのように扱われ、虐待される亜人に対しては、やはり倫理観を揺さぶられるものはある。
しかし、それが「Show must go on」における戦争エンターテイメントのキャラクターとなるにあたり、その概念が揺らいでいく。(少なくとも、俺にとっては)
たとえば、児ポでよく話題になる架空の児童に対する虐待は倫理的に咎められるべきなのか、表現の自由なのか。そこから、コンピューターゲームのキャラクター、さらに、それを現実世界で戦争を演じるロボットと考えていった先に亜人があるとすれば、果たして戦争エンターテイメントのために亜人を殺すことは倫理的に是か非か。
ヒトでは無いものをヒトの下に置き、すべての差別や破壊衝動をそこへ向けることにより、ヒトの間における負の感情を解消する。そういった形で解決を図るために、ヒトの下に置くことが許されるのはどこまでなのか。
ヒトの共感能力をめぐる議論や、いわゆる遺伝子操作ではなく繁殖と淘汰だけによる種の改造、勝敗をオーディエンスが決める戦争など、
他にも興味深い視点がいくつもあり、一筋縄ではいかない連作だった。
……まぁ、著者のブログがあるので、そこを読めば全部書いてあるんだけどさ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます