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近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

差別と平等(4回シリーズその1)

2013年07月14日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 日常会話の中で無意識のうちに使う言葉には相手にとっては耐え難い侮辱ともとれ、人間関係を台無しにすることさえある。有名人や、評論家、政治家やマスコミ関係者までもが、一言で長年培ってきた立場を一瞬にして失うこともある。知らなかったでは済まされない言葉の重みを背負って行かねばならないことが予測できる。一般には差別用語といわれるものである。言葉は新しく生まれ、今では使われなくなった言葉も多いし、当初使っていた言葉の意味も変化している。今回取り上げた差別と平等について考えてみたい。

 言葉には話し言葉と書き言葉があり、日常会話でも丁寧語、謙譲語、尊敬語等相手によって違いがある。詳細については触れないが、家庭の中でも、職場でも、買い物や相談事等言葉を使って自らの意志を相手に伝える。意思疎通が出来なければ、社会の中では生きていくことが出来ない。
 最近の教育現場でのいじめ問題や家庭内暴力による幼児の死亡事故の報道は、被害にあった本人はもとより、関係者の多くが、問題解消に知恵を絞っていることと思われる。再発防止には何らかの役には立つであろう。しかし、被害者の立場に立てば、他人から受けた侮辱や嘲笑等の心の痛みは簡単に癒えないし、解消するわけではない。また、失われた幼い命が戻るわけでもない。今回のテーマとまんざら関係ないとは思えない。

 自らの経験から申し上げれば、読者の方に参考になるかもしれない。父の仕事が水産業で、遠洋航海であった。年に数回しか帰宅しないが、寄港地に母に連れられ何度か迎えに行った記憶がある。時には数年間居住することもあったが、小学校は3度転校した。低学年の時はあまり気にならなかったが、山口から杉並区の桃井小学校に転校したときは今でいういじめが激しかった。 特に山口弁の方言が原因していたのかもしれない。いじめグループに呼び出され、小突かれ、無理難題を押しつけられ、学校へ行くのが辛かった。(次回へ続きます)