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近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

大分雑感 廣瀬淡窓その1

2014年01月02日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 前代の仏教に変わって、封建時代後期特に、江戸時代の思想界に君臨した儒学は、主として、シナの宋・明の学風を受け継いだものであって、朱子学派、京師学派、陽明学派、古学派、折衷学派等があったが、古学派は江戸時代中期に起こった儒学の一派であった。

 朱子学などの注釈によらずに直接、孔子・孟子の原典を研究しようとするもので、実証的・歴史的研究の学風が強く、国学や洋学の勃興にも刺激を与え、且つ、国民道徳の強調に、政治経済の批判に、詩文の面にあまたの学者を輩出した。山鹿素行が先駆をなし、次いで元禄期には伊藤仁斎、享保にかけて、江戸に荻生徂徠のけん園学派があって、朱子学を凌ほどの勢いを示した。特に、荻生徂徠門下からは学者文人が多く出たが、廣瀬淡窓もその一人である。

 廣瀬淡窓は1782年5月22日に豊後国日田郡豆田町で博多屋三郎右衛門の長男として、生誕し、1856年11月に没している。享年75歳であった。若いときから病弱であったため、家督を弟廣瀬九兵衛に譲り、本人は儒学や漢詩を学究する道に進んだ。淡窓は号で、通称は寅之助、後に求馬(もとめ)といった。現在の大分県知事である廣瀬勝貞氏は弟廣瀬九兵衛の子孫である。また、郵政大臣で衆議院議員であった故廣瀬正雄氏は勝貞氏の父親である。

 日田市豆田上町にある長福寺に私塾を開き、咸宜園(かんぎえん)に発展させ、淡窓死後も末弟の廣瀬旭荘や、林外、青邨(せいそん)等10代の塾主によって1897年(明治30年)まで続き、全国からここで学んだ塾生は3000人以上とされている。(次回へ続きます)