オオタカの幼鳥とは言え、目と嘴は猛禽類だけあって鋭いですね!
以前、このブログで紹介した(日本近代化の要因(2回シリーズ)その2)文部官僚をしていた叔父の随想の中に、廣瀬淡窓について引用した漢詩を記載した文章があるので以下にその一部を再掲する。
「維新前後には、西欧分明に目覚めた先覚者が、禁を犯して海外に渡航し、帰国後指導者となった事実も見逃せない。新島譲・福沢諭吉などはその代表的な人物である。明治政府も1870年に「海外留学生規則」を制定し、優秀な人材を官費留学生として派遣した。
その後数回の改正があったが、明治年間(45年間)に海外へ派遣された官費留学生総数は719名(うち女子7名)に達した。これら帰国留学生の多くは、帝国大学の教授として、また、官界・政界の指導者として活躍した。この官費留学生制度は1921年に改正され、現在の在外研究員制度に移行したのである。
明治時代に留学した人たちは、英・米・仏・独などの欧米諸国に派遣されたが、言語
・風俗・習慣の障壁を乗り越えて、在留国の学生に劣らぬ優秀な成績を修めた者も多かった。また、残念ながら中途挫折して帰国した者も20名もいた。これら先覚者が嘗めた辛酸は、想像に難くないし、またいろいろな逸話もあるが、紙面の都合で割愛する。
自分の先祖、広瀬淡窓(1782~1856年 江戸時代末期の思想家・教育者)の創設した咸宜園には全国から3,000人の人士が集まった。淡窓の詩に「休道 他郷多苦辛 同朋有友自相親(下略)」という言葉がある。その意味は、「文句を言ってはいけない。
他国で修行するには苦労が付き物だ。しかし、学友の中には必ず親友が出来てお互いに扶けあうようになる。」留学生諸君も、日本での勉学に、また生活にいろいろなご苦労があると思うが、自国の先覚者の苦労を偲び、初志を貫徹して学びを終え、母国のために一日も早く寄与されることを心から切望する次第である。」(このシリーズ最終回です)