鳥!連続写真!掲載中!

近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

敷居テープ

2014年06月23日 00時00分01秒 | マニュアル

 リフォームは使用頻度や年数の経過によって、各部署に手を入れることであるが、日頃忘れがちで簡単に修復が出来る敷居のメンテナンスについて紹介したい。部屋の中の敷居は襖や障子ばかりではなく扉が付いているところである。掃除をしていても引き戸が重くなり、開け閉めに苦労することがある。昔はロウソクを使って蝋を塗るとそのときは滑りが良くなったことを思い出す。

  思い立ったときに行えば、苦労しないのであるが、どうすればよいのか判らずにそのまま放置している家庭も多い。建物のひずみで敷居が変形し、襖や障子の上下を鉋で削らなければならないこともあるが、普通は、扉の重さでテープ表面の凹凸が摩耗して隙間が無くなる。また、埃や調理時の浮遊する油が付着して動かなくなることが多い。最近の敷居にはプラスチックのテープが貼ってある。築後20年も経過するとプラスチックが劣化する。古くなったテープを剥がして新たにテープを貼ればよい。

  敷居テープはホームセンター等で販売されていて、敷居の幅に合わせ、各種ある。18~21ミリメートルで長さもマチマチであるが、剥離紙を剥がして敷居の長さに切り、貼り付ける。

  重たいガラス扉や板張りの扉は床面に2箇所に戸車が付いている。戸車が機能していない場合もあり、点検すると良い。特に床と戸車設置部分に数ミリの隙間が必要である。引き戸を引いてゴトゴトと音がするようであれは、ローラーが劣化している。ローラーが正常ならばベアリングが壊れている。ホームセンター等で売っているので購入し、取り付ける。 雨戸や屋外に面している扉には屋外用の敷居テープが市販されている。

  ガラス扉はガラスのはめ込みビスが緩んでいて、ガラス板が落下することがある。時々ビスの締め増しを行う。


漁獲規制(2回シリーズその2)

2014年06月22日 00時00分01秒 | 提言

 食生活とも関係がありそうである。我が国は周りが海に囲まれていることによって、近海、遠洋の漁業が発展し、漁獲高も他国の追従を見ない。おかげで、手軽に取れるタンパク源としても人気が高く、多くの鮮魚が食卓に上る。和食は海産物だらけである。特に注目したいのは魚卵である。魚卵の料理も多い。

 いくら、たらこ、数の子、唐墨、子持ち○○魚(カレイ、ししゃも、エビ等)数えれば相当種に及ぶ。産卵期を迎えた魚種を捕獲すれば当然魚体数は減少する。人間が捕獲しなくても他の大型魚類や海洋動物の餌になるだけだという専門家も多い。しかし、どう考えても魚卵が高価格で取引されている現状は、ユーザー側に原因が無いとも言えない。

  今後2020年のオリンピックには多くの外国人が来日するであろう。当然我が国の食生活に触れる機会でもある。鮮魚を多用する和食が世界遺産に指定され、日本食ブームは多くの国に伝わり、特に、中国の富裕層は刺身と寿司、天ぷらがブームになっていると聞く。魚の味覚が広く知れ渡ることはよいことであるが、反面、乱獲による魚体数の減少に更に拍車が掛かるであろう。養殖が多くの魚種で試みが成されてはいるが、設備や管理など漁師が簡単に転業できるわけではない。

  乱獲に有効な手段や政策はあるのであろうか?乱獲は今に始まったことではない。北方領土返還に希望を持つことは大事なことであるが、漁師にとっては200海里内の海洋資源を期待しているようだ。自然保護研究者は現状を維持することを提唱しているが瞬く間に魚体が消え去るのは時間の問題といっている。漁業に従事する労働者は減ったと聞くが、その分、漁法や漁船が近代化し、漁獲量は減っているが枯渇したわけではない。

 水産資源の管理を管轄する農水省は全国の漁業組合を抱え、全中と同様な漁業者の保護を建前に、補助金や、海洋独占を継続してきている。外部からの意見を聞く耳を持たず、漁業の面でも制度疲労を起こしている。今後組織の見直しや規制緩和は早急に着手しなければならない段階に来ているといえるであろう。(このシリーズ最終回です)


漁獲規制(2回シリーズその1)

2014年06月21日 00時00分01秒 | 提言

 水産資源も化石燃料と同様枯渇されることが予測され、環境庁の絶滅危惧種に指定される魚種が増えている。絶滅危惧種に指定され、その後の規制等によって個体数が現状維持か増加することは、自然の食物連鎖を考える際の重要なポイントになる。南氷洋の鯨については国際捕鯨委員会(IWC)の許可で我が国は継続してきた調査捕鯨が国際司法裁判所から現行の方法の調査捕鯨は認められないとする判決が出た。我が国は目視による調査とするよう変更を促される事態となっている。

 ウナギを食用とする国民は日本ばかりではない、イタリア、フランス、アメリカでもウナギ料理がある。エジプトに派遣されていたときに紅海で捕れたウナギ料理を食べたことがある。最近の新聞報道によって、ウナギの稚魚が乱獲によって個体数が減り、日本人の高級食材である日本ウナギの蒲焼きが口に入らなくなるかも知れないということが伝えられている。

 関係者の憂慮は計り知れないが、ウナギの人工授精による養殖が軌道に乗っていないこともあり、漁獲規制が強まれば価格の高騰を招くと共に、環境省から絶滅危惧種に指定されたことで、価格の高騰は避けられないであろう。今後は徹底した管理が期待されている。

  水産資源は科学技術の発展と共に漁船が大型化し、漁獲方法も魚群探知機を使い、トロール船など根こそぎ網で取る方法等の乱獲が漁場を狭め、公海においても多くの国が参入している。一国だけが規制を強化しても他国でも同様な規制が行われなければ資源保護は無意味となる。(次回へ続きます)


芭蕉の足跡旅行福島・宮城・岩手(7)

2014年06月20日 00時00分01秒 | 日記

(7)中尊寺

 6月3日(火)、7時30分にホテルを出発し、一路北上して平泉に向かう。今朝は薄曇り、気温22度でちょっと肌寒い。ちょうど1時間で中尊寺(岩手県平泉町衣関202、0191‐46‐2211)に着く。着くころには温度も上がり、空も晴れた。

 中尊寺へは月見坂を登ってゆく。途中から道の両側に弁慶堂、薬師堂、地蔵堂などといったいくつものお堂が並んでいる。中尊寺の本堂は金色堂にゆく中ほどにある。中尊寺は天台宗の東北大本山で、850年、慈覚大師円仁の開山である。その後、12世紀初めに藤原清衡によって大伽藍が造られたが、14世紀に焼失したという。本堂には新しいものだが丈六の釈迦如来像が安置されている。

 金色堂の手前には讃衡蔵があり、宝物殿になっていて薬師如来、阿弥陀如来(平安後期)、千手観音の他、寺ゆかりの品が展示されている。金色堂は1124年に建立された。覆い堂から中に入るとまさに金色の浄土の世界である。本尊は阿弥陀如来で観音、勢至菩薩の脇侍、地蔵菩薩、持国天、増長天が立ち並んでいる。平和を願う清衡の思いが込められている。中央に清衡、向って左に基衡、右に秀衡の遺体と泰衡の首が納められている須弥壇も美しい象嵌細工で飾られている。立派なものである。芭蕉はここで

  五月雨の降のこしてや光堂  芭蕉

と詠んでいる。寺の中にある白山神社には1853年に伊達家が建立した能舞台があり、雨風にさらされた風格があった。

 芭蕉は平泉で先ず義経の館があったとされる高舘にゆき、世の無常に涙したと言われる。

  夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡   芭蕉

この地では1189年に義経が死に、藤原氏が滅亡している。義経31歳。

 毛越寺はすぐ近くだ。寺の中は新しい本堂が目立つだけで、これといったものはないが、ここは円仁が850年、薬師如来の化身のお告げを受けて建立した寺だという。中尊寺と一体で世界文化遺産に指定された寺の中には池を巡る庭園がある。

 10時30分、今回のすべての予定を終え帰路に着く。登戸に17時着。M君、全走行距離1100Km、運転お疲れさまでした。A君、楽しい旅でした。二人とも有難う。


芭蕉の足跡旅行福島・宮城・岩手(6)

2014年06月19日 00時00分01秒 | 日記

(6)多賀城跡・塩竃神社

  仙台は端折って、利府塩釜ICで高速を下りて、多賀城跡に14時過ぎに着く。丘の上に城址があり、今は館跡の礎石が置かれているばかりであるが、草を刈られた一帯は結構大きく、広々した構えであり、陸奥国支配の本拠地としての歴史を感じさせる。ここは神亀元年(724年)に創建されたという。山上の館跡から150mばかり下って道を渡った所に「壺の碑」と呼ばれる石碑が立っている。昔の南門の近くと言う。これは碑文の通り天平宝字6年(762年)に建てられた多賀城のいわれを記した古いものであり、芭蕉も感激した所である。その傍らには芭蕉の句碑がある。

  あやめ草足に結ん草鞋の緒   芭蕉

仙台を出る時、世話になった加右衛門が藍で染めた鼻緒の草鞋を贈ってくれたことを詠んだ句である。

 そこから塩竃神社までは近い。15時に着いて、正面階段を登る。階段は一直線に200段プラス36段。息が切れる。登ると立派な社殿があった。

 芭蕉たちのルートからは外れるが、松島、石巻は省略して、今日は内陸部の古川市駅前のホテルに泊まる。16時30分着。「ときわ」という店で飲んだが、落ち着いた店だった。


芭蕉の足跡旅行福島・宮城・岩手(5)

2014年06月18日 00時00分01秒 | 日記

(5)二木の松・道祖神社

 そこから白石ICまで高速道路を通り、11時、宮城県岩沼市の竹駒神社(岩沼市稲荷町1‐1、0223‐22‐2101)に着いた。小野篁が842年に陸奥守として着任する時、祈願した神社と言う。神社は稲荷社で大きいものだが、鉄筋造りで新しい。そこの売店でソバを食べながら、おばさんに武隈(たけくま)の松、あるいは二木(ふたぎ)の松とよばれる松の場所を聞く。教えてもらった神社の横手方向3分くらいの所に、根元から2本に分かれた7代目の松があった。古くから歌に詠まれてきた所で橘李通の歌碑には

 武隈の松はふた木を都人いかがと問はばみきとこたへむ 橘季通

とあり、芭蕉の句碑には

 桜より松には二木を三月越し   芭蕉

とある。江戸を出る時に二木の松の辺りで遅桜でしょうか、と送られたことに対し、ここに来るのに三月越しになったと詠っているのである。

 次いで名取市にある道祖神社(名取市愛島笠島字西台1‐10、022-382‐3887)に行く。日本武尊が東征の折、ここに祈願したとされ、また藤中将実方がここで落馬して亡くなったといういわれのある場所だ。政争に敗れた実方は995年、陸奥守に左遷されてこの地に来た三六歌仙の一人である。

くねくねとした山道のような所を通って着いた神社は、ひっそりとしていて人もなく、ホトトギスが鳴いていた。西行も訪れたこの地を、芭蕉は探し求めながら五月雨にぬかる道のために諦めて素通りしている。

笠島はいずこさ五月のぬかり道   芭蕉

朽ちもせぬ其名ばかりをとゞめおきてかれのゝ薄かたみにぞみる

                 西行

西行の歌は実方の墓の薄を詠ったものである。この神社は1602年に焼失したが、元禄13年(1700年)、藩主伊達綱村により再興されている。

 われわれは、仙台空港付近の津波被災地跡をぐるりと一巡りして、その惨状の一端をみた。


芭蕉の足跡旅行福島・宮城・岩手(4)

2014年06月17日 00時00分01秒 | 日記

(4)文知摺石・飯坂

  6月2日(月)、今日も良い天気だ。8時に出発して、8時40分、文知摺観音(福島市山口字寺前5,024-535-1471)が開いたと同時に入場する。源融(822~895年)が都から巡視に来て、この地の山口長者の娘虎女と会い、再会を願う虎女の悲恋の伝説がある所である。寺の入口からまっすぐ奥に入ったところに文知摺石がある。この岩を草で擦ると文様が乱れて現れ、恋心の乱れに通じるとされ有名な歌枕になった所である。石は幅、奥行きが2m程度、高さは奥が1.5m、手前が1.2m程度の大きさであるが、震災後除染を行って表面の苔がすっかり無くなっていた。

人の良い寺男が、人懐っこく色々話をしてくれたが、境内の除染作業は続いており表土を除去した庭に芝を植えていた。境内には観音堂、形の良い多宝塔などがあり、源融(河原左大臣)の歌碑、芭蕉、子規の句碑がある。

 みちのくのしのぶもちずり誰故に乱れ染めにし我ならなくに  源融

 早苗とる手もとや昔しのぶずり  芭蕉

 涼しさの昔をかたれ忍ぶずり   子規

 そこから福島市の北西の飯坂町にある瑠璃光山医王寺(福島市飯坂町平野字寺前45、024-542-3797)に行く。藤原秀衡の家臣で、この地に大きな勢力を持っていた佐藤基治とその子継治、忠信兄弟らの墓がある。継治、忠信は義経に従っていずれも戦死した勇者である。芭蕉は義経の一生の栄枯盛衰に感じるところが多く、その史跡を歩いている。また、義経は為朝に追われて平泉に向かう途中、ここに立ち寄り、二人の供養をしている。

寺に入った所に左右に大きなシラカシの木がある。そこからまっすぐに杉の大木が並ぶ道を進むと薬師堂があり、その後ろに佐藤一族の墓地がある。瑠璃光殿と称される展示スペースには弁慶の笈(おい)、直筆の経とされるものなどが残されている。

笈も太刀も五月にかざれ紙幟(かみのぼり) 芭蕉

また、入口の右側にある本殿には、佐藤兄弟の妻たちの鎧姿の人形がある。本尊は大日如来、その脇に不動明王が安置されている。寺を出る時カッコウが鳴いていた。


芭蕉の足跡旅行福島・宮城・岩手(3)

2014年06月16日 00時00分01秒 | 日記

(3)須賀川・黒塚

  芭蕉は須賀川で一週間も長逗留しており、相楽等躬の問いかけに答えた句や、近隣の僧可伸の庵を詠った句が残っている。

  風流の初めやおくの田植うた   芭蕉

  世の人の見付ぬ花や軒の栗

 十念寺(須賀川市池上町101)は道を回りこんだ少し高い所にある文録元年(1592年)に開山された浄土宗の寺であり、芭蕉たちも須賀川を出発する前日に訪れている。ここには土地の俳人、市原多代女が安政2年に建てた「風流の…」の句碑がある。寺は本堂、鐘楼もあるが、庭にある古い墓石は誰の物かも解らぬまま、3年前の東日本大震災で倒れたままになっており、震災の激しさを思い起こさせた。

 乙字が滝に着いたのは15時である。ここは阿武隈川の川底が5mばかり断層になって垂直に切れ落ちて滝をつくっているところである。傍らの滝見不動の横に

  五月雨の滝降りうつむ水(み)かさ哉   芭蕉

の句碑がある。川幅は広くないが切れ落ちた滝は一見の価値がある。滝の中央にえぐれた所があり、そこは舟を通すために穿ったのだという。

 今回は芭蕉が「花かつみ」を探し求めたという浅香山(安積山)は立ち寄らないことにして、一度、高速に戻る。二本松で高速を下りるつもりが話をしていて乗り過ごし、次の松川PAでETC専用出口から出て安達ケ原にゆく。走っている景色は変わりばえがしないが、緑が美しい。阿武隈川を渡って、16時20分、有名な鬼女伝説の場所である安達ケ原に着く。岩屋は観世寺(二本松市安達ケ原4-126,0243-22-0797)の中にあり、大きな岩が重なりあってあたかも岩室のようになって奇観である。天台宗のこの寺の本堂には阿弥陀三尊が祀られ、本堂の欄間の彫刻も美しい。本堂の右横には小さな資料館があり、人の良さそうな住職が鬼女伝説の解説をしてくれたが、気持ちの良いものではない。門の外の河岸に鬼女を埋めたとされる黒塚があり、杉の大木が一本立っている。

 能の「黒塚」は、諸国行脚の山伏裕慶たちが一夜の宿泊を頼んだ老女の一軒家で、老女が夜、薪を取りに行った時、見るなと言われていた閨を覗いて、骨が散乱しているのを知る。一目散に逃げ出した裕慶たちを鬼となった老女が追いかけるが、裕慶は五大明王の功力で祈り伏せる、といった話である。

 今日は福島駅近くのホテル泊り。福島着17時30分。夕食は飲み屋で。お兄さんお勧めの地酒、国権・本醸造が美味い。