gooブログはじめました!

日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

情けない

2017-03-17 00:59:58 | 日本語文法
>原発災害も放射能汚染も国民を見殺しにしようとしている政治家と官僚も看過して、このまま傍観者を続けるつもりなのだろうか?

傍観者ですね。自分の意思をしめす人は、当事者・関係者となります。意思を示さない人は、傍観者にとどまる。
意思は、未来時制の文章内容として示される。だが、日本語には時制がない。だから、日本人には意思がない。日本人は蚊帳の外。
政治家は、有権者の標本のようなものでしょう。政治家の思慮のなさは、有権者の思慮のなさを反映しているといえるでしょう。

>それとも食べ物、大地や海が放射能に汚染されていても安全だとでも思っているのだろうか?

日本人には、序列メンタリティがある。序列判断は、日本人の強迫観念になっています。世俗の上位の事柄にとらわれて、現実直視ができない。敗戦を終戦と捉えるようなものですね。現実軽視の風潮が、災害をより大きくしています。

>ほんと情けない。

我々は、変わらなくてはならない。(We can change!) そうでしょう。

>日本人に希望を持てなし、期待も出来ない。

そうですね。希望は未来の内容であります。だが、未来の内容は、日本人には想定外となっています。
未来の世界の内容は、未来時制の文章として語らなければならない。ところが、日本語文法には時制というものがない。だから、日本人は未来が語れない。我々は ’声なき民’ にとどまっています。だから、お先真っ暗であります。
我々には、未来構想が必要です。さすれば、希望が持てる。期待できる。

>もちろんこの中には、脱原発・反原発のデモに出ている人たちもいるだろう。

政治に対する意思表示は大切なことですね。

>しかし、そのデモも子供を連れていたり、犬や猫を連れていたりする勘違いしている奴らもいる。>デモは政治活動だという事がわからないのだろうか?

政治には、個人の意思表示が大切ですね。身なりではないでしょう。我々の意思の内容でしょう。

>ほんと情けない。>こんな情けない国にいると自分もレベルが低くなりそうだ。

皆さん似たようなレベルの人間ではないですか。心がけさえ変えれば、さらに立派な国になります。我が国には国内の紛争が少ないから、その分発展に力を集めることが出来ます。

>外国に移住する事を本気で考えなければならないのかも知れない。

情けない人は、移住先でも情けない生活をするでしょうね。日本人が海外に出て、偉大な国を作った話は聞いたことがありません。意思が無ければ、社会建設のための力も発揮できないのでしょう。本人の自覚が大切ですね。意識改革というのかな。


.







ナナメの関係

2017-03-16 14:13:11 | 日本語文法
>世代を超えた先輩・後輩との関係のことを、僕は「ナナメの関係」と呼んでいます。その地域に住んでいるおじさん、おばさんとの関係や、おじいちゃん、おばあちゃん、兄弟との関係などがそうです。>教師と生徒の関係は「タテの関係」、親子の関係も「タテの関係」、それに対して、同世代の友だち同士の関係は「ヨコの関係」。>それらと区別しているのです。

わかりました。

>「タテの関係」は基本的に上下がはっきりしていますから、君は従うか反発するかの二者択一になりがちで、コミュニケーション能力を鍛えるにはあまりふさわしくないんです。>「ヨコの関係」では、興味のあるタレント、テレビや部活の話に花が咲くでしょう。親友には、好きな人のことや悩みの相談もするかもしれません。>しかし、友人との会話は、チャットのような独り言の応酬になりがちなことに君自身は気づいていましたか?

はい、気づいておりました。それ以外は考えられません。

>独り言の応酬というのは、合間合間にひたすら自分の話をしていくような会話のことを指します。

はい、わかりました。小言・片言・独り言の類ですね。

>「昨日、このテレビ見た」と友人が言うと、君が「僕はこっちを見た」と、自分のしたことや感想を独り言のようにつぶやくマナーで会話が続きますよね。>これだと、相手を傷つけてしまう心配がないので仲良しを続けるには好都合なのですが、コミュニケーション技術を高めることにはならないのです。

そうですね。小言・片言・独り言は文章にはならないので、意味はありません。だから、コミュニケ―ションには役に立ちませんね。せいぜい感動を伝える程度のものですね。

>友だち同士のシチュエーションでは、意見を戦わせるようなこともないでしょう。

意見もないので、論戦もないのでしょう。

>コミュニケーション能力を伸ばすのは、「ナナメの関係」の第三者との会話です。

タテの関係は上意下達。ヨコの関係はナアナア主義。ナナメの関係は文章による会話ですか。

>親子やよく知っている先生とも違うし、友だちでもないから、相手のアタマのなかにある情報を想像して会話しないと理解しあうことができません。

相手の頭の中にある情報は、文章にして理解しましょう。勝手な想像をしていては相手に迷惑がかかります。

>相手のことがわからないから、どういう切り口でコミュニケーションし、関係を結ぶかを試行錯誤せざるをえない。

そうですね。以心伝心の効果が期待できないから大変ですね。

>だから、「ナナメの関係」の知り合いが豊かになると、君のコミュニケーション能力を向上させる機会も豊かになることになります。

同感です。ブログで意見を公表すると、知り合いが豊かになりますね。コミュニケーション能力を向上させる方法を具体的に考えてゆきましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
現実の有様は、文章になる。
非現実 (考え) の内容は、日本語の場合は、文章にならない。英語なら、時制のある文章になる。意思は未来時制の文章内容になる。

文章は、意味を表す。文章は頭の中にたまる。だが、これは胸にたまった感じがする。熱い胸の内を打ち明けることはできる。筋道だった表現ができる。意思となる。議論もできる。

単語は文章にならないと意味を表さない。だが、バラバラな単語も頭の中にたまるが、これは腹にたまったように感じられる。腹を割って話をするのは難しい。公言できない。小言・片言・独り言になる。内容の筋が無いので表現に難渋する。恣意 (私意・我がまま・身勝手) にとどまって腹芸となる。



.



日本人の考え方

2017-03-13 20:16:31 | 日本語文法
日本人の考え方

イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>より

>(1)自己の論理的矛盾に全然気づかないこと。

日本語は、写生画の言葉である。明確な写生画的表現には矛盾がない。もしもおかしいところかあれば、それは事実関係調べを通して解決される。
しかしながら、考え (非現実) の内容は、写生画的表現にはならない。だから、目で見ることが出来ない。話の筋には、理解が必要になる。だが、日本人は、考えを文章内容として表現する方法を持たず、矛盾の淘汰の仕方も知らない。知っているのはバラバラの単語を並べた歌詠みだけである。文章がなくて、意味が伝えられないので、精神活動の蚊帳の外にいることになるのでしょう。

>(2)歴史として感じる感覚が皆無なこと。

日本語には、過去時制が無いので、脳裏に過去の世界を再現することはできませんね。過去と現在とを取り間違えて、時代錯誤ということになることも多いでしょう。

>(3)見るよりも価値判断が先行するために、’対象を見ること’ が不可能になる事。

序列を付ける考え方は、日本人の強迫観念にまでなっています。いつも、上を注目しているので、下の注意はおろそかになります。世界を色眼鏡で見ていることになるのでしょう。現実直視が難しくなる。敗戦は終戦か。

>(4)自己の条理が何を基準にしているかについての自覚がないこと。

日本人には、世界観がない。だから、自分の条理をはっきりと脳裏に描くことが出来ない。そして、自己の発言に確信が持てない。’我々は何処に向かうのか’ という質問には自分自身の答えが出せない。だから、指導性が発揮できないので、いつも人の後からついて行く。

>(5)自己の言葉を客体化して、自己の言葉から自由になる、という考え方が皆無なこと。

日本人の考えには、非現実の内容がない。話の内容が ‘現実離れ’ していると、信じることがむずかしい。
現実肯定主義の人は相手の意見を聞いて、’そんなことを言っても駄目だぞ。現実そうなってはいない’ と反発する。自分自身が現実の中に閉じ込められていて、自己の変革は考えられない。’不自由を常と思えば不足なし’ ということか。


.