>文春オンライン >なぜ今になって..? 教育研究者が「日本の公教育の崩壊が大阪から始まる」と嘆く”納得の理由“ >鈴木大裕によるストーリー・ >1時間・
(略)
>1%の「勝ち組」目指して99%が競争する社会
>「アメとムチ」の政策であるメリットペイ制度に対して各方面から批判が噴出すると、大阪市の吉村市長は「子供達の学力向上の努力をし、結果を出す教員が高く評価されるのは当然だ」と、アメの側面を強調してきた。
> しかし、そもそも事の発端が、全国学力テストで大阪市が政令指定都市中、2年連続最下位だったことに対する市長の怒りだったという経緯を考えれば、それはあくまでも建前に過ぎないだろう。
> いったんムチの側面に光を当てれば、このメリットペイ制度が、教員の身分保障の脆弱化を加速させるツールとなる危険性を孕むことがわかる。
>終身雇用資格の剥奪や正規公務員から非正規契約雇用への切り替えなど、教員の身分保障の脆弱化はもはや世界的な傾向となっている。
> 一つ理解しておきたいのは、市場化を目指す新自由主義政府にとって、教員など公務員の安定した雇用形態、およびそれを守る組合は邪魔な存在だということだ。
>新自由主義は、不安定性を肥やしにする。
>新自由主義的に言えば、1%の「勝ち組」を目指して99%の人間が生存競争をするのが理想的な社会のあり方なのだ。
> その意味では、「頑張っている」教員や校長へのボーナス支給を「エサ」にして導入されたメリットペイ制度が、政府に教育現場に対する管理の強化をもたらし、「結果」を出していない教員や校長を「正当に」解雇し、最終的に教員組合の解体へと突き進んでいくことは大いに考えられる。
> そうなれば教員の序列化は正当化され、公教育の枠組みの中で「アタリ」と「ハズレ」が生まれ、「公」の概念そのものが崩壊を起こす。
> そして皮肉なことに、「結果が全て」のテスト教育体制の中で、教員が目先の結果、つまり生徒のテストの点数を上げようと頑張れば頑張るほど、教員は自らの専門性を失い、「使い捨て労働者」になっていくのだ。
>「どんな複雑な問題にも決まって短く、単純で、間違った答えがある」
> 公教育に市場原理を持ち込めば諸問題が解決するというのは、まさに「短く、単純で、間違った答え」だった。
>メリットペイ制度の落とし穴
> 大阪市のメリットペイ政策に対しては、四方八方から反対意見が噴出した。
>中には、教育現場におけるメリットペイ制度には効果がない、という批判も多く見られた。
> しかし、この制度は「効果がない」のではない。
>むしろ「危険」なのだ。
> アメリカを代表する知識人であるマサチューセッツ工科大学(MIT)のノーム・チョムスキー博士は、「民衆を受け身で従順にしておく賢い方法は、議論の枠組みを厳しく制限し、その枠組みの中で活発な議論を奨励することだ」と指摘する。
> まさに今日、日本全国の地方自治体や学校が、文部科学省によって作られた枠組みの中で、受け身に、従順に、どうやったら全国学力テストの点数を上げられるかという議論を実に活発に交わしている。
> しかし、そもそも何をもって「学力」と呼ぶのかはほとんど議論されていない。
>これこそが私たちが囚われている「議論の枠組み」だ。
> いったん立ち止まって、全国学力テストの定義する「学力」とは何かを問い直したい。
学力テストの結果が学力でしょう。
知能検査の結果が知能指数ですね。
石蹴りの結果が遊びの力になるのかな。
数値化すると序列人間はこだわりを見せる。順位が下では恥ずかしい。
為政者は民の向上心を利用して序列競争をあおる。昔からのやり方ですね。
>それは国語と算数(理科は3年に一度)のペーパーテストの点数ということになる。
> 全国学力テストの結果が出るたびに、一喜一憂する各都道府県の姿が浮き彫りになるが、たった2教科の点数で学校や生徒を評価してよいのか。
一喜一憂は恥の文化の終着点ですね。浅薄な人間の成れの果てですね。
>私たちが真に問うべきはこの貧弱な「学力」観そのものではないか。
そうですね。浅薄国民の判断力ですね。
>「プロの仕事は素人にはわからないから『プロ』なんだ」
> 私の恩師はそう言い切る。
>この言葉が物語っているのは、プロの仕事を素人でも誰でも簡単に評価できるように数値化してしまうことの愚かさだろう。
>数値化の過程で、経験に裏づけられたプロの直感や技は跡形なく削ぎ落とされてしまうのだから。
> 結果責任……。
>このパラダイム(議論の枠組み)の外には、どのような光景が広がっているのだろうか。
>フィンランドの教育庁長官などを歴任したパシ・サールベルク教授(教育政策)のこんな言葉が思い出される。
>「私たちがどうやって教員を評価しているかですか?
>話もしませんよ。
>そんなことは私たちの国では関係ないのです。
>その代わりに、私たちは『どのように彼らをサポートできるか』を議論しますよ」
> 現場を信じて任せる……。
そうですね。信無くば立たず。(政治というものは 民 (民衆) の信頼無くして成り立つものではない。) [論語・顔淵]
>教育現場に結果責任を求めるのではなく、政治に教育現場への投資責任を求める、という全く別のパラダイムがそこにはある。
>たった2教科の点数で子どもの学力を評価してよいのか
> 子どもの学力を育てたい、頑張っている教員をちゃんと評価して欲しいという気持ちは、教育関係者であればなおさら強い。
> しかし、実際には個性豊かな子どもたちと日々かかわり、数値だけでは測れない子どもの多様な知性を知っている教育関係者だからこそ、たった数教科のペーパーテストの点数に基づく安易な学力観に対する懸念も強いのだ。
> そんな基準で教員を評価してよいわけがないとの反論が出るのは当然ではないだろうか。
そうですね。
> ハーバード大学の発達心理学者、ハワード・ガードナーが多重知能理論によって「知能」の多様性を指摘したのは40年も前のことだ。
>それによれば、人間の知能は、言語的知能、論理・数学的知能、空間的知能、音楽的知能、身体運動的知能、対人的知能、内省的知能、博物学的知能と、少なくとも八つに分類できる(図参照)。
> そのように多様性に富んだ子どもたちの知能を、たった数教科のペーパーテストで測ろうとするのはあまりにもお粗末だ。
そうですね。浅薄な人間のすることですね。
> この制度に反対する教員や教員組合が本当に守ろうとしたのは、自分たちの首などではない。
>極端に狭く偏った土俵での勝負を強いられる子どもたちだ。
‘不自由を常と思えば不足なし’ か。忍耐ばかりが日本人の美徳ではないですね。
> だからこそ、「メリットペイ制度には効果がない」という批判そのものが危険なのだ。
> それは、提示された貧弱な学力観に基づいた議論の枠組みを受け入れることであり、「効果がない」と言った途端に「じゃあどうやって子どもたちの成績を上げるんだ? 教員にはどうやって責任を負わせるのか?」と対案を求められ、仕組まれた議論の呪縛に自らはまっていくことになる。
そうですね。アメリカでは、教員になった後一定の年数以内に修士号を獲得しないと教職を追われますね。その年数は、ニュウヨーク州では5年、オレゴン州では10年です。これがアメリカ教員の身分保障の脆弱化です。
>(鈴木 大裕/Webオリジナル(外部転載))