>東洋経済オンライン >「学歴はオワコン?」日本人エリートの致命的弱点 学歴に胡坐をかき “学び” を忘れた人が多い現実 >岡本順子の意見・ >7時間・
>一部上場企業の社長や企業幹部、政治家など、「トップエリートを対象としたプレゼン・スピーチなどのプライベートコーチング」に携わり、これまでに1000人以上の話し方を変えてきた岡本純子氏。
>たった2時間のコーチングで、「棒読み・棒立ち」のエグゼクティブを、会場を「総立ち」にさせるほどの堂々とした話し手に変える「劇的な話し方の改善ぶり」と実績から「伝説の家庭教師」と呼ばれている。
>その岡本氏の著作『世界最高の話し方』シリーズは累計20万部のベストセラーとなっているが、その「真骨頂」ともいえる「人前での話し方のスキル」をまとめた新刊『なぜか好かれる「人前での話し方」』がついに発売された。
>コミュニケーション戦略研究家でもある岡本氏が「人前での話し方」を切り口に「学歴はオワコンか」について解説する。
>「学歴オワコン説」は本当?
>過激な発言で知られるホリエモンこと、堀江貴文氏が唱える説のひとつに「学歴オワコン説」があります。
>あるネット番組で彼は、「今、京大なんか通ってるヤツって本当にバカなのね」
>「今の時代に大学行くのはマジでバカよ。
>こんなSNSが発達している時代に、わざわざ金をかけてくだらない学問を学びにいくわけよ。
>バカみたいな教授いっぱいいるでしょ、本当にバカだと思うよ」
>「学はネットで身につけんだよ」と発言していました。
>彼らしい極論ではありましたが、私はこの内容に、深く共感してしまいました。
>それは、私が、日本の「トップエクゼクティブの話し方の家庭教師」として、日本のエリートたちの「もろさ」や「弱み」を日々、目の当たりにしているからにほかなりません。
>必死になって受験戦争を勝ち抜き、一流大学を卒業し、超一流企業に勤めること。
>これが、日本人の典型的な「勝ち筋」とされてきました。
>私はそうしたいわゆる「勝ち組」たちに、グローバル水準のコミュニケーションを教えていますが、常々、エリートらしからぬ、いえ、エリートゆえのコミュ力の脆弱さ、弱点に気づかされます。
>「人前での話し方を学ぶ」場も機会もない
>雑談や会話から、プレゼンやスピーチなど「人前での話し方」、子どもや部下のほめ方、しかり方まで、コミュニケーションのスキルは多岐にわたります。
>実はコミュニケーションは、心理学や脳科学などの科学的エビデンスに基づいた「正解」がありますが、海外と異なり、日本ではそのルールや方程式を教育や研修などを通じて学ぶ機会がほぼありません。
>エリートにとどまらず、多くの日本人が何らかの苦手意識を持っているわけですが、日常的に人と接する現場の人と比べて、机やPCに向かうことの多い高偏差値の技術職、ホワイトカラーワーカーの「対人コミュ力」の低さには驚かされることばかりです。
>もちろん、全員というわけではありませんが、何万人もの話し方を見てきた経験から感じる「日本のエリートの弱点」には、次のようなものがあります。
>難解・不可解・誤解だらけの「あうん」のコミュニケーション
>多様性の極めて低い男性中心、製造業中心の日本企業では、「言わなくてもわかる」「言えばわかる」という幻想がまかり通り、そのコミュニケーションの流儀は難解・不可解・誤解だらけです。
>同質性の高い組織の中で、「あうんの呼吸」「以心伝心」で理解してもらえるという思い込みがあり、「わかりやすく話す」という技術が培われてきませんでした。
そうですね。
>"ありんこ"のように極小の文字で埋め尽くされた資料や専門用語だらけの説明、抑揚のまったくない話し方、ただただデータやファクトや抽象論だけをたれ流すプレゼン、スピーチ、あいさつ……。
>多様化社会、グローバル社会の現代に、いまだこうした「ホワイトカラー村」の内輪言葉に固執しているのが、「日本のエリート」の現実なのです。
>「知識の呪い」と言われる現象が⋯
>わからない人が「なぜわからないのか」がわからない
>語弊がある言い方かもしれませんが、「わからない人が『なぜわからないのか』が、わからない」エリートが少なくありません。
>自分は理解できるのだから、相手も理解できるはずだと思い込み、自分なりの解釈・説教・説明を押し付ける。
>これは「知識の呪い」と言われる現象で、自分がよく知っていることほど、知らない人の身になることが難しいということです。
>「エリート」は難しいことを難しいまま、何なら、やさしいことまで難解な言葉に置き換えて話す傾向があります。
>シンプルな言葉に咀嚼して、誰にでもわかりやすく伝えるのが非常に苦手。
>これは官僚や法曹界、医者など「超エリート」の使う言葉を見れば、よくわかるでしょう。
>100あることを100伝えようとする
>データやファクトに強いこだわりを持つので、単純化して伝えることが非常に苦手です。
>「このプレゼンで伝えたいたったひとつのキーメッセージは何ですか」。
>私がコーチング相手の生徒に尋ねて、パッと一言で返すことができる人はあまりいません。
>暗記中心の日本の受験勉強を勝ち抜いたエリートたちの多くは、生真面目で勉強好き。
>ディテールにこだわり、社内資料の会議にはとにかく1から100まですべての情報を詰め込みます。
秀才は他人の受け売りと、その後追いを専門にしていますからね。
>まさに、「木を見て森を見ない」。
>その理由は「上司にダメ出しされたときに、『ここに書いてある』と言えるから」だそうです。
>大切なことをたったひとつのメッセージに込めれば、伝わるかもしれませんが、100あることを100伝えようとしても、何も伝わらない。
>そんなことを理解しているエリートは少ないのです。
>コミュニケーションの巧拙は「恥」の場数で決まる
>「正しさ」にこだわり、恥をかけない
>コミュニケーションの巧拙は、実は「恥」の場数で決まります。
>人前に自分をさらし、恥をかくことで、自分の殻を破り、コミュ力を上げていくことができます。
>しかし、「エリート」は「正しさ」や「正解」にこだわり、間違いを恐れる傾向があります。
>「減点主義」の色濃い日本の組織では、下手な挑戦は、大きなリスク。
>綿々と昭和スタイルの上意下達の伝統を引き継いでいくうちに、真のコミュ力を養う機会を失ってしまうのです。
そうですね。上からの昇進、上からの賃上げ、上からの改革などなどですね。指示待ち人間のエスカレーターですかね。
>結果的に、「正論」づくしの「はみ出さないコミュニケーション」を続けるわけですが、それでは、何の面白みもなく、人の心にもまったく刺さりません。
>こうした弱点の背景には、知識偏重で受動的な学校教育、上意下達で、自由にものが言いにくい日本の企業体質、日本独特のコミュニケーション文化などがあります。
そうですね。日本人には言葉遣いというものがあって、満足に発言ができず議論ができない。議論は英米人のようにため口でやると良い。対等な立場で議論することができる。 (ため口: 相手と対等な立場でモノを言うこと)
>生徒に向き合うのではなく、黒板と壁打ちするかのように講義をする教授や、言語不明瞭の上司や企業幹部などがまだまだ多数派であり、まともなコミュニケーション教育の場がない現状を踏まえると、「コミュ障エリート」はまだまだ量産され続けそうです。
そうですね。
>学歴には「ハロー効果」はある
>もちろん、「学歴」はまったく意味がない、と全否定するわけではありません。
>強い特徴が、全体の印象に影響を与える「ハロー(後光)効果」の最たるものであり、簡単に人の評価を上げる「ブランド」「指標」です。
>ハーバード、プリンストン、スタンフォード、東大などのグローバルエリート校の威力は否定できないところですが、その重要性は低下しているというデータもあります。
>2022年のハーバードビジネススクールの調査によると、学歴より、スキルや経験・実績など、実践的な能力や成果を求める企業が増えてきており、特にIT業界やスタートアップなどで、その傾向が顕著になっています。
>いわゆる非学歴系の「インフルエンサー」や「クリエーター」が大量に生まれ、注目を集め、存在感を高める一方で、従来型の「エリート」への逆風も強まっています。
>「上級国民」などと揶揄され、既得権益を持つ側として、ともすれば攻撃の対象になりやすい。
>AIが台頭し、多くの知的ワークをこなす時代に、「戦闘力」の弱い頭でっかちのエリートが競争力を維持できるのかも不透明です。
>実際に、「昨日の常識が今日の非常識」の時代に、学歴だけで一生、勝負ができるわけがなく、蓄積した「知識」と「経験」が通用しない現実に、40〜50代の中堅エリートは絶望感に打ちのめされているのが現実です。
>ホリエモン曰く、「必要なのは学歴ではなく『学び歴』」。
>「学歴」に胡坐をかき、"学び"を忘れた人があまりに多い今の日本のエリートたち。
我が国では、勉強は子供のするものですからね。
>「コミュ力」は誰でも、いつからでも、鍛えることのできる人生最強の戦闘力です。
>まずはここから学び始めませんか。
そうですね。
日本テレビの単独インタビューで「このままでは日本人は滅びる」と日本の将来に危機感をあらわにしていた、ファーストリテイリングの柳井正会長兼社長。[2024年 10月] 10日の会見でも「日本人同士のなれ合いみたいなことは廃止すべき」と改めて警鐘を鳴らしました。
日本人は‘なあなあ主義’ で話をする。‘なあなあ主義’ とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。 ‘以心伝心・阿吽の呼吸’といったところか。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。
孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)。(引用終り)
イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、言葉 (ロゴス) について以下のように語っています。
、、、、、 母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明晰かつ透明 (英語ならクリヤー) に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範通りであれ、ということである。だが、クリアーということは、原則的にいえば、その人間が頭脳の中に組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。、、、、、日本では、「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉 (ロゴス) そのものは言い方や態度に関係がない。従がって厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。(引用終り)