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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

なれ合い  

2024-12-11 21:15:26 | 文化

>ニューズウィーク日本版     >「移民大国」日本で我々は「なれ合い」つつ滅びるのか...ユニクロ柳井氏の発言から考える   >外国人リレーコラム Tokyo Eye 石野シャハラン (異文化コミュニケーション アドバイザー) によるストーリー・   >4時間・   

><中国やイランの海外移民と違い、日本人は外国では助け合わず、国内で仲間うちだけで「なれ合う」...これで我々は生き残れるのか?とイラン出身の石野シャハラン氏は問い掛ける>   

>ユニクロを展開するファーストリテイリングの柳井正会長兼社長がテレビのインタビューで「このままでは日本人は滅びる」と日本の将来に危機感をあらわにし、後日の記者会見でも「日本人同士のなれ合いみたいなことは廃止すべき」と警鐘を鳴らした話は、多くの方もご存じだろう。   

 

そうですね。知っていますね。   

 

>最初、私はこの「なれ合い」発言に少々反発を覚えた。   

>私の祖国イランの国民は、毎年多くが国外へ移住している。   

2020年には、全人口に占める国外移住者が2.2%に膨らんだ。   

>移住先の多くは欧米で、それぞれが近くに住み、頻繁に行き来をして助け合っている。   

>私には日本に住む中国人の友人も多いが、やはりコミュニティーの団結は強い。   

>新参の家族へのサポートはもちろん、母親が日本国外に単身赴任した家族には、近所の同胞たちが毎日夕飯のおかずを持って行き、朝早く家を訪れ登校前の娘の髪を結んでやるなど、温かくサポートしている。   

>それに比べて海外在住の日本人は、あまり日本人同士でベッタリすることを好まない人が多い。   

>付き合いはあっても、一定のライン以上は踏み込まないことを礼儀とするようだ。   

>だからこそ日本人は現地になじみやすく、評判も悪くないであろうが、冷たいとも思える。   

>アメリカの大学を卒業して現地でバリバリ働く友人の日本人男性は「英語の会議や入札がよく理解できないから、日本人のよしみで教えてくれ」と言ってくる人は大嫌いだといつも怒っている。   

>彼のいら立ちも分からないではないが、これがイラン人や中国人だったら喜んで同胞の力になるだろう。   

>日本は少子化で国内市場も小さくなり、企業は必然的に海外に出ていかなければならない。   

>独立独歩の姿勢も素晴らしいが、外資企業や国外で成功するため、そして翻って日本社会が繁栄するためにも、日本人同士の助け合い、融通し合い、お互い様精神は必須だ。   

>だが、柳井氏の「日本人のなれ合い」は私も大いに感じるところがある。   

>日本は行政でさえも日本人しか相手にしていない。   

>私はインバウンドの旅行社の仕事も手がけているが、残念ながら外国人が無許可でインバウンド客相手の旅行業務に携わっている例が多く見られる。   

>つまり行政によって監督されず、集客や手配に関する法律やルールは無視してやりたい放題なのである。   

>白タクや白バスも同様で、運転者の最低賃金や労働時間制限も守らず、極端に安い料金で集客するため、外国の旅行エージェントは無許可の旅行社や白タク白バスを選ぶ。   

>日本人はインバウンドのおかげで経済的に潤っていると思っているだろうが、その少なくない利益が不法に外国人にかすめ取られていることを知ったほうがいいだろう。   

>この事態は一見、日本人だけを厳しく律しているようでいて、ルールが通じやすい仲間うちだけで社会を回そうとする「なれ合い精神」の発露といえないだろうか。   

 

そうですね。「「権威主義」が悪の源でもなく、「民主主義」が混乱を生むものでもなく、それよりも、もっと根底にある日本人の習性である、「人」には従ったり(人を従えたり)、影響され(影響を与え)ても、「ルール」を設定したり、それに従う、という伝統がない社会であるということが、最も大きなガンになっているようである」 (中根千絵)    

 

>イラン人も中国人も、移民コミュニティーをつくりつつもその国の法律を守って仕事と生活をしている。   

>日本に住む外国人もそのほとんどがキチンと法を守り生活している市民だ。   

>だがところどころ法を逸脱している部分も見受けられる。   

>日本に住む外国人も実際の法律適用の枠組みに入れて日本人と同様に監督・指導していかないと、外国人とは一緒に仕事ができないのだ。   

 

そうですね。   

 

>日本は、近年の統計で永住型移民の年間受け入れ数では先進国中10位、一時滞在型移民では6位、労働移民の年間受け入れ数では5位だ。   

>実質的には移民受け入れ大国なのだから、外国人にも主張すべきところは主張し、法を守らせて共存しなければならない。   

 

そうですね。   

 

>それが柳井氏の言う、「なれ合い」を廃することの真意であるように思う。   

>石野シャハラン   

SHAHRAN ISHINO   

1980年イラン・テヘラン生まれ。   

2002年に留学のため来日。   

2015年日本国籍取得。   

>異文化コミュニケーションアドバイザー。   

YouTube:「イラン出身シャハランの『言いたい放題』」   

Twitter@IshinoShahran   

 

日本テレビの単独インタビューで「このままでは日本人は滅びる」と日本の将来に危機感をあらわにしていた、ファーストリテイリングの柳井正会長兼社長。[2024年 10月] 10日の会見でも「日本人同士のなれ合いみたいなことは廃止すべき」と改めて警鐘を鳴らしました。 

日本人は‘なあなあ主義’ で話をする。‘なあなあ主義’ とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。 ‘以心伝心・阿吽の呼吸’といったところか。     

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

 

TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。

孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)(引用終り)  

 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、言葉 (ロゴス) について以下のように語っています。

、、、、、 母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明晰かつ透明 (英語ならクリヤー) に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範通りであれ、ということである。だが、クリアーということは、原則的にいえば、その人間が頭脳の中に組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。、、、、、日本では、「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉 (ロゴス) そのものは言い方や態度に関係がない。従がって厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。(引用終り)     

 

日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。

日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。

 それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。

 英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。(引用終り)     

 

宮本政於の著書〈お役所の掟〉には、官僚絶対主義のことが出ている。以下は、著者(宮)と厚生省幹部(幹)との会話である。

宮「憲法に三権分立がうたわれているのは、権力が集中すると幣害がおきるから、との認識に基づいているのでしょう。今の日本のように、官僚組織にこれだけ権力が集中すると幣害もでてきますよね」、幹「ただ、日本はこれまで現状の組織でうまく機能してきたのだ。それによく考えてみろ。いまの政治家たちに法律を作ることをまかせられると思うのか。そんなことをしたら日本がつぶれる」、「日本の立法組織にそれほど造詣(ぞうけい)が深くないのですが、私も認めざるをえません」、「そうだろう。『やくざ』とたいしてかわらないのもいるぞ」、「私もテレビ中継を見て、これが日本を代表する国会議員か、と驚いたことがなん度かあります。とくに、アメリカとか英国とは違い、知性という部分から評価しようとすると、程遠い人たちが多いですね。でも中には優秀な人がいるんですがね」、「政治は数だから。いくら優秀なのがひとりふたりいてもしようがない。ある程度の政治家たちしかいないとなれば、役人が日本をしょって立つ以外ないのだ」(引用終り)     

 

 

 

 

 

 

 


岡本順子氏  

2024-12-11 20:03:44 | 文化

>東洋経済オンライン   >「学歴はオワコン?」日本人エリートの致命的弱点 学歴に胡坐をかき学びを忘れた人が多い現実   >岡本順子の意見・   >7時間・   

>一部上場企業の社長や企業幹部、政治家など、「トップエリートを対象としたプレゼン・スピーチなどのプライベートコーチング」に携わり、これまでに1000人以上の話し方を変えてきた岡本純子氏。   

>たった2時間のコーチングで、「棒読み・棒立ち」のエグゼクティブを、会場を「総立ち」にさせるほどの堂々とした話し手に変える「劇的な話し方の改善ぶり」と実績から「伝説の家庭教師」と呼ばれている。   

>その岡本氏の著作『世界最高の話し方』シリーズは累計20万部のベストセラーとなっているが、その「真骨頂」ともいえる「人前での話し方のスキル」をまとめた新刊『なぜか好かれる「人前での話し方」』がついに発売された。   

>コミュニケーション戦略研究家でもある岡本氏が「人前での話し方」を切り口に「学歴はオワコンか」について解説する。   

>「学歴オワコン説」は本当?   

>過激な発言で知られるホリエモンこと、堀江貴文氏が唱える説のひとつに「学歴オワコン説」があります。   

>あるネット番組で彼は、「今、京大なんか通ってるヤツって本当にバカなのね」  

>「今の時代に大学行くのはマジでバカよ。   

>こんなSNSが発達している時代に、わざわざ金をかけてくだらない学問を学びにいくわけよ。   

>バカみたいな教授いっぱいいるでしょ、本当にバカだと思うよ」   

>「学はネットで身につけんだよ」と発言していました。  

>彼らしい極論ではありましたが、私はこの内容に、深く共感してしまいました。

>それは、私が、日本の「トップエクゼクティブの話し方の家庭教師」として、日本のエリートたちの「もろさ」や「弱み」を日々、目の当たりにしているからにほかなりません。   

>必死になって受験戦争を勝ち抜き、一流大学を卒業し、超一流企業に勤めること。   

>これが、日本人の典型的な「勝ち筋」とされてきました。   

>私はそうしたいわゆる「勝ち組」たちに、グローバル水準のコミュニケーションを教えていますが、常々、エリートらしからぬ、いえ、エリートゆえのコミュ力の脆弱さ、弱点に気づかされます。   

>「人前での話し方を学ぶ」場も機会もない   

>雑談や会話から、プレゼンやスピーチなど「人前での話し方」、子どもや部下のほめ方、しかり方まで、コミュニケーションのスキルは多岐にわたります。   

>実はコミュニケーションは、心理学や脳科学などの科学的エビデンスに基づいた「正解」がありますが、海外と異なり、日本ではそのルールや方程式を教育や研修などを通じて学ぶ機会がほぼありません。   

>エリートにとどまらず、多くの日本人が何らかの苦手意識を持っているわけですが、日常的に人と接する現場の人と比べて、机やPCに向かうことの多い高偏差値の技術職、ホワイトカラーワーカーの「対人コミュ力」の低さには驚かされることばかりです。   

>もちろん、全員というわけではありませんが、何万人もの話し方を見てきた経験から感じる「日本のエリートの弱点」には、次のようなものがあります。   

>難解・不可解・誤解だらけの「あうん」のコミュニケーション   

>多様性の極めて低い男性中心、製造業中心の日本企業では、「言わなくてもわかる」「言えばわかる」という幻想がまかり通り、そのコミュニケーションの流儀は難解・不可解・誤解だらけです。   

>同質性の高い組織の中で、「あうんの呼吸」「以心伝心」で理解してもらえるという思い込みがあり、「わかりやすく話す」という技術が培われてきませんでした。   

 

そうですね。    

 

"ありんこ"のように極小の文字で埋め尽くされた資料や専門用語だらけの説明、抑揚のまったくない話し方、ただただデータやファクトや抽象論だけをたれ流すプレゼン、スピーチ、あいさつ……。   

>多様化社会、グローバル社会の現代に、いまだこうした「ホワイトカラー村」の内輪言葉に固執しているのが、「日本のエリート」の現実なのです。   

>「知識の呪い」と言われる現象が   

わからない人が「なぜわからないのか」がわからない   

>語弊がある言い方かもしれませんが、「わからない人が『なぜわからないのか』が、わからない」エリートが少なくありません。   

>自分は理解できるのだから、相手も理解できるはずだと思い込み、自分なりの解釈・説教・説明を押し付ける。   

>これは「知識の呪い」と言われる現象で、自分がよく知っていることほど、知らない人の身になることが難しいということです。   

>「エリート」は難しいことを難しいまま、何なら、やさしいことまで難解な言葉に置き換えて話す傾向があります。   

>シンプルな言葉に咀嚼して、誰にでもわかりやすく伝えるのが非常に苦手。   

>これは官僚や法曹界、医者など「超エリート」の使う言葉を見れば、よくわかるでしょう。   

>100あることを100伝えようとする   

>データやファクトに強いこだわりを持つので、単純化して伝えることが非常に苦手です。   

>「このプレゼンで伝えたいたったひとつのキーメッセージは何ですか」。   

>私がコーチング相手の生徒に尋ねて、パッと一言で返すことができる人はあまりいません。   

>暗記中心の日本の受験勉強を勝ち抜いたエリートたちの多くは、生真面目で勉強好き。   

>ディテールにこだわり、社内資料の会議にはとにかく1から100まですべての情報を詰め込みます。   

 

秀才は他人の受け売りと、その後追いを専門にしていますからね。   

 

>まさに、「木を見て森を見ない」。   

>その理由は「上司にダメ出しされたときに、『ここに書いてある』と言えるから」だそうです。   

>大切なことをたったひとつのメッセージに込めれば、伝わるかもしれませんが、100あることを100伝えようとしても、何も伝わらない。   

>そんなことを理解しているエリートは少ないのです。   

>コミュニケーションの巧拙は「恥」の場数で決まる   

>「正しさ」にこだわり、恥をかけない   

>コミュニケーションの巧拙は、実は「恥」の場数で決まります。   

>人前に自分をさらし、恥をかくことで、自分の殻を破り、コミュ力を上げていくことができます。   

>しかし、「エリート」は「正しさ」や「正解」にこだわり、間違いを恐れる傾向があります。   

>「減点主義」の色濃い日本の組織では、下手な挑戦は、大きなリスク。   

>綿々と昭和スタイルの上意下達の伝統を引き継いでいくうちに、真のコミュ力を養う機会を失ってしまうのです。   

 

そうですね。上からの昇進、上からの賃上げ、上からの改革などなどですね。指示待ち人間のエスカレーターですかね。      

 

>結果的に、「正論」づくしの「はみ出さないコミュニケーション」を続けるわけですが、それでは、何の面白みもなく、人の心にもまったく刺さりません。   

>こうした弱点の背景には、知識偏重で受動的な学校教育、上意下達で、自由にものが言いにくい日本の企業体質、日本独特のコミュニケーション文化などがあります。

 

そうですね。日本人には言葉遣いというものがあって、満足に発言ができず議論ができない。議論は英米人のようにため口でやると良い。対等な立場で議論することができる。 (ため口: 相手と対等な立場でモノを言うこと   

 

>生徒に向き合うのではなく、黒板と壁打ちするかのように講義をする教授や、言語不明瞭の上司や企業幹部などがまだまだ多数派であり、まともなコミュニケーション教育の場がない現状を踏まえると、「コミュ障エリート」はまだまだ量産され続けそうです。   

 

そうですね。   

 

>学歴には「ハロー効果」はある   

>もちろん、「学歴」はまったく意味がない、と全否定するわけではありません。   

>強い特徴が、全体の印象に影響を与える「ハロー(後光)効果」の最たるものであり、簡単に人の評価を上げる「ブランド」「指標」です。   

>ハーバード、プリンストン、スタンフォード、東大などのグローバルエリート校の威力は否定できないところですが、その重要性は低下しているというデータもあります。   

2022年のハーバードビジネススクールの調査によると、学歴より、スキルや経験・実績など、実践的な能力や成果を求める企業が増えてきており、特にIT業界やスタートアップなどで、その傾向が顕著になっています。   

>いわゆる非学歴系の「インフルエンサー」や「クリエーター」が大量に生まれ、注目を集め、存在感を高める一方で、従来型の「エリート」への逆風も強まっています。   

>「上級国民」などと揶揄され、既得権益を持つ側として、ともすれば攻撃の対象になりやすい。   

AIが台頭し、多くの知的ワークをこなす時代に、「戦闘力」の弱い頭でっかちのエリートが競争力を維持できるのかも不透明です。    

>実際に、「昨日の常識が今日の非常識」の時代に、学歴だけで一生、勝負ができるわけがなく、蓄積した「知識」と「経験」が通用しない現実に、4050代の中堅エリートは絶望感に打ちのめされているのが現実です。   

>ホリエモン曰く、「必要なのは学歴ではなく『学び歴』」。   

>「学歴」に胡坐をかき、"学び"を忘れた人があまりに多い今の日本のエリートたち。   

 

我が国では、勉強は子供のするものですからね。   

 

>「コミュ力」は誰でも、いつからでも、鍛えることのできる人生最強の戦闘力です。   

>まずはここから学び始めませんか。   

 

そうですね。    

 

日本テレビの単独インタビューで「このままでは日本人は滅びる」と日本の将来に危機感をあらわにしていた、ファーストリテイリングの柳井正会長兼社長。[2024年 10月] 10日の会見でも「日本人同士のなれ合いみたいなことは廃止すべき」と改めて警鐘を鳴らしました。 

日本人は‘なあなあ主義’ で話をする。‘なあなあ主義’ とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。 ‘以心伝心・阿吽の呼吸’といったところか。     

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

 

TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。

孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)(引用終り)  

 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、言葉 (ロゴス) について以下のように語っています。

、、、、、 母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明晰かつ透明 (英語ならクリヤー) に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範通りであれ、ということである。だが、クリアーということは、原則的にいえば、その人間が頭脳の中に組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。、、、、、日本では、「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉 (ロゴス) そのものは言い方や態度に関係がない。従がって厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。(引用終り)     

 

 

 

 

 

 


渡辺洋介氏  

2024-12-11 17:00:03 | 文化

>朝日新聞デジタル   >ノーベル平和賞とは、日本被団協の功績とは背景にある世界の危機   >朝日新聞社によるストーリー・   >18時間・   

> 日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)に10日、ノーベル平和賞が授与される。   

>核兵器が生み出されて約80年、核兵器をめぐる世界の状況と日本被団協のあゆみをたどる。   

>■世界になお1.2万発が存在   

> 世界には、今なお12千発以上(退役・解体待ちを含む)の核弾頭が存在している。   

>その源流は、第2次世界大戦末期の19457月、米国がニューメキシコ州で行った史上初の核実験だ。   

> 米国の核開発計画を指揮したのは、今年のアカデミー賞7冠の映画「オッペンハイマー」の主人公となった物理学者、ロバート・オッペンハイマー。   

>核開発の成功を知ったトルーマン米大統領は3週間後、広島と長崎に原子爆弾を投下し、人類は「核の時代」に足を踏み入れた。   

> 戦後、49年にソ連が初の核実験に成功すると、米ソの核開発競争が激化する。   

5060年代には英国、フランス、中国が核保有国に加わった。   

70年には核不拡散条約(NPT)が発効し、米ソ英仏中の5カ国を「核兵器国」と認める代わりに核軍縮の義務を負わせたが、その後も核兵器の数は増え続け、ピークの80年代半ばには計7万発に達した。   

> 一方で、世界中で核戦争への危機感が高まり、80年代には反核の機運も高まっていく。   

>米国のレーガン大統領とソ連のゴルバチョフ書記長は85年、「核戦争に勝者はない」と合意。   

>世界の核弾頭数は80年代半ばから減少に転じ、ゆるやかとはいえ核軍縮が始まった。   

>米ソは87年、中距離核戦力(INF)全廃条約を結んで核兵器の削減に踏み切り、91年に第1次戦略兵器削減条約(START1)も締結された。   

> ただ、東西冷戦が89年に終結すると、今度は「核の拡散」が進む。   

98年にパキスタンが、2006年には北朝鮮が、それぞれ核実験に踏み切った。   

21世紀になり、核兵器削減のペースは鈍っている。   

> 国際情勢が流動化する中、22年からウクライナに侵攻するロシアのプーチン大統領は核使用を示唆する「核の脅し」を繰り返し、232月には米国との新戦略兵器削減条約(新START)の履行停止を決めた。   

> 中東では、事実上の核保有国であるイスラエルと、核開発を進めるイランの対立が深まっている。   

>東アジアでも中国は核兵器を増やし、北朝鮮はミサイル実験を繰り返している。   

>米国も、核兵器数こそ減らしているものの、核の近代化を進める。   

> こうした中でも、核廃絶の動きは粘り強く続けられている。   

17年に核兵器の保有や使用、威嚇を禁じた核兵器禁止条約が採択され、21年に発効した。   

>署名国は100カ国近くになった。   

>他方、自らは核を保有しなくとも「核の傘」に依存する国も数多く存在する。   

>「唯一の被爆国」を自任する日本政府も米国の「核抑止」への依存を深めており、核禁条約のオブザーバーにも参加していない。   

>(渡辺洋介)   

 

「アメリカがあのタイミングで原爆投下して、どれだけ破壊力があるかを世界中に知らしめられたことで、冷戦中の核兵器使用が防がれた。世界の滅亡を避けられたじゃないか。大体、日本は被害者なのか。  

ユダヤ人大虐殺をしたドイツと連盟を組んで、他のアジアの国にもひどいことをしたじゃないか。それでいて第二次世界大戦といったら原爆投下の被害ばかり語るのっておかしくない?  そもそも戦争中っていろんな国がめちゃくちゃひどいことをしたわけだから、日本が、日本が、って核兵器についてばかり言うのはおかしいと思う」 (あるアメリカの学生

 

御尤もですね。日本は加害者ですね。しかし、日本人には意思がない。だから、日本人には加害者意識 (罪の意識) がなくて、被害者意識だけがある。わが国は戦犯が存在しなくて犠牲者ばかりの国ですね。     

唯一の被爆国というのは被害者が被害を語る時の否定されることのない固い論拠であるとだけ考えているのでしょうね。   

日本人には罪の意識がないので悪びれた態度がない。だから、遠慮・ためらいもなく核兵器についてばかりを世界中に大声で言うのですね。これは常に考えられている楽ちんな気休めですかね。     

 

我が国の日本人の記事は実況放送・現状報告の内容ばかりで、読者のためになる所が少ない。‘それでどうした、それがどうした’の問いに答を出せる編集者が必要である。我々は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。だが、自己の見解を含まない発言には価値が少ない。我が国には社会の木鐸 (ぼくたく世の人を教え導く人) が必要である。そうでなければわが国は迷走に迷走を続けて、いつまでたっても国家目標に到達しない。だから、政治はわが国の若者にも夢と希望を与えない。

心ここにあらざれば、視れども見えず。(心が上(うわ)の空の状態では、じっと見ているようでも実際には何も見えていない。精神が集中していないと何もできない事)    

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)