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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

意思決定

2017-09-11 13:43:19 | 日本語文法

>人間は、「言葉」によって考えることは間違いありません。

そうでしょうね。独り言を言いながら考えるなどということがありますね。使用言語に制約されて考えるのですから、考え方も、それぞれの言語 (民族) 特有なものになるでしょうね。

>しかし残念ながら、日本語は厳密で抽象的な表現は得意でないように思います。

そうですね。日本語文法には、時制 (tense) というものがありませんので、非現実の内容を考えるのは、不向きですね。
時制があれば、非現実の三世界 (過去・現在・未来の世界) の内容をそれぞれ独立に展開できますね。よく知られている例としては、インド人が前世・現世・来世の三世を考えているようなものです。
時制が無ければ、世界は一つです。その内容も一つです。見ればわかる。見られないものは、嘘になる。
日本語は、現実の内容を表すための言語です。スケッチ用の言語です。現実の内容はただ一通りで、見ればわかります。見えないものはウソになります。現実離れをした話を聞いただけで三世界の内容を信じることが日本語では難しくなります。ですから、日本人には英米流の高等教育は不向きということになります。

>なので、我々日本人は「考える」ことが苦手なのかもしれません。

そうですね。考え (非現実) の内容は、見ることが出来ない。正確な言語を使用して、正しい (矛盾を含まない) 作文をして、それを正しく解釈することにより内容が伝わります。
曖昧な言語を使用して、バラバラな単語を使い、忖度 (推察) により勝手に解釈するのでは、考えの内容は体系を作ることはできませんね。だから、考えを伝えることもできません。自分さえ良ければとなり、孤立を深め、他者がいないことになります。

>では、「考える」とはもう少し詳しくいうとどういうことなのでしょうか。>考えることは、大きくは二種類に分けられると思います。>分析的に考えることと、創造的に考えることです。
>考える目的は、いろいろな言い方ができると思いますが、私は「意思決定」だと思っています。

単に考えを述べるだけなら、世界観になるでしょう。行動を起こす場合には、意思決定が必要になりますね。
意思は、未来時制の文章内容により表現されますが、日本語文法には時制というものがありません。ですから、日本人には意思がありません。それで、優柔不断・意志薄弱に見えます。意思が無いにもかかわらず、意思があるように見えるのは、恣意 (私意・我がまま・身勝手) があるからです。恣意は、文章にならず、バラバラな単語 (こごと・片言・独り言) のままです。文章にならないので、意味もなければ矛盾も指摘できません。言動にならないので、発声の際は相手の忖度 (推察) に期待をかけています。他力本願・神頼みといったところです。無為無策でいることになる。
英語には時制があり、英米人には意思があります。ですから、言動の基となるリーズン (理性・理由・適当) を答えることが出来ます。説明責任に応じられます。

>何かを決めるために考える。

そういう場合が多いですね。でも、能動の ‘決める’ は少なくて、受動の ‘決まる’ 場合が多いようですね。

>その際に、まず分析的に考えた上で、創造的に考えるというステップを踏むのではないでしょうか。

そうでしょうね。データを集めて、新しい方針を立てられたら立派な人達ですね。日本人には、論理的に意思決定をするという過程が欠落していますからね。だから、意思決定にはならなくて、恣意決定になります。これは人間の信頼に関わる問題です。我々の無視できない事実です。
山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを間接的に指摘しています。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。


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アインシュタイン

2017-06-24 22:23:32 | 日本語文法

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>われわれは、静かに生活をし、熱心に学び、親しげに微笑んでいる多くの日本人を目にします。

分かりました。微笑みと沈黙ですね。

>だれもが己を出さず、その微笑みの背後に隠されている感情を見抜くことはできません。

奥ゆかしいのですね。奥が無いので、何かかくしているだろうと推察して、それを見たくなる。もちろん、不可能です。

>そして、われわれとは違った心が、その背後にあることがわかります。

それは、本当の様ですね。

>もっとも気がついたことは、日本人は欧米人に対してとくに遠慮深いということです。

日本人は、欧米人を上と見ているからですね。特に遠慮深いのは、序列作法です。

>我がドイツでは、教育というものはすべて、個人間の生存競争が至極とうぜんのことと思う方向にみごとに向けられています。とくに都会では、すさまじい個人主義、向こう見ずな競争、獲得しうる多くのぜいたくや喜びをつかみとるための熾烈な闘いがあるのです。

お互いに名前を呼び捨てにするような社会では、序列作法は成り立ちませんですね。

>日本には、われわれの国よりも、人と人とがもっと容易に親しくなれるひとつの理由があります。それは、みずからの感情や憎悪をあらわにしないで、どんな状況下でも落ち着いて、ことをそのままに保とうとするといった日本特有の伝統があるのです。

忍耐ですね。理詰めの議論はできないから、忍耐するしかないでしょう。

>ですから、性格上おたがいに合わないような人たちであっても、一つ屋根の下に住んでも、厄介な軋轢や争いにならないで同居していることができるのです。

我々は、’和をもって貴しとなす’ と教えられています。

>この点で、ヨーロッパ人がひじょうに不思議に思っていた日本人の微笑みの深い意味が私には見えました。

成らぬ堪忍、するが堪忍ですか。

>個人の表情を抑えてしまうこのやり方が、心の内にある個人みずからを抑えてしまうことになるのでしょうか?
>私にはそうは思えません。この伝統が発達してきたのは、この国の人に特有のやさしさや、ヨーロッパ人よりもずっと優っていると思われる、同情心の強さゆえでありましょう。

我々日本人には理詰めの議論ができません。だから、忖度・推察で行くのです。決着はつけられないと見えている。

>けれども、人間同士の直接の体験が欠けたことを、芸術の印象が補ってくれました。>日本では、他のどの国よりも豊潤に、また多様に印象づけてくれるのです。

個人対個人の言説による対決はできませんね。あえて実行すれば、恣意 (私意・我がまま・身勝手) の戦いになります。意地・根性のむき出しになる。この無法状態には、救いがない。不自由を常と思えば不足なし。
日本人の精神活動は、文章・言説では表現できません。心から心へと伝えられるものです。

>私がここで「芸術」と言うのは、芸術的な意向、またはそれに準じ、人間の手で絶えず創作しているありとあらゆるものを意味します。>この点、私はとうてい、驚きを隠せません。

人間の手で絶えず創作しているというのは、改善のことでしょうね。創作した本家よりも優れた物を我が国は生み出しています。

>日本では、自然と人間は、一体化しているように見えます。…

そうですね。意思を示さない人間は、アニマルと同様になって自然の中に溶け込みます。

>この国に由来するすべてのものは、愛らしく、朗らかであり、自然を通じてあたえられたものと密接に結びついています。

自然との対決姿勢はないですね。皆なれ合っていますね。

>かわいらしいのは、小さな緑の島々や、丘陵の景色、樹木、入念に分けられた小さな一区画、そしてもっとも入念に耕された田畑、とくにそのそばに建っている小さな家屋、そして最後に日本人みずからの言葉、その動作、その衣服、そして人びとが使用しているあらゆる家具等々。
>…どの小さな個々の物にも、そこには意味と役割とがあります。そのうえ、礼儀正しい人びとの絵のように美しい笑顔、お辞儀、座っている姿にはただただ驚くばかりです。

そうですね。何もかも、小さくまとめられていますね。

>しかし、真似することはきません。

そうですね。ヨーロッパ人には、日本人の真似はできませんね。

>たしかに日本人は、西洋の知的業績に感嘆し、成功と大きな理想主義を掲げて、科学に飛び込んでいます。

そうですね。我々日本人には、知的業績が欠けています。科学に理想をかけています。

>けれどもそういう場合に、西洋と出会う以前に日本人が本来もっていて、つまり生活の芸術化、個人に必要な謙虚さと質素さ、日本人の純粋で静かな心、それらのすべてを純粋に保って忘れずにいて欲しいものです。

我々の生活に関する芸術化は保たれています。製品に込められた日本人の心は、国際間の言語障壁を乗り越えて外国人の心へと直接伝えられ、高い評価を受けています。おかげさまで、我国は技術立国を基礎にして経済大国にまでなりました。この成功体験を、我々は忘れることが出来ません。



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する・なる

2017-06-24 17:43:17 | 日本語文法
>自分主体で「する」文化を持つ英語と、相手主体で相手を受け入れる「なる」文化を持った日本語の違いが端的に分かります。
>改めて、日本人と西洋人の世界観の違いを感じました。

>以下通弁クリエイティブ翻訳さん(リンク)より引用します。
>***以下引用***

>「平和」というものは、西洋人は行動によって作り上げるもので、日本人はもともとそこにあるものと考えているということを聞いたことがあります。

戦争をやるかやらないかは意思で人間の決めるものですね。戦争する意思というものが無ければ、それは平和というものでしょう。

>西洋人は議論によってひとつの共通認識という「合意できる領域」に到達しようとしますが、日本人は、もともとそこにある「平和」を乱さないためにも、余計なことはしない(言わない)ほうがいいという傾向があるような気がします(最近では、思想的にもグローバル化してきていますので、一概には言えませんが、あくまでも固有の傾向として)。

そうですね。同感です。西洋人には、意思がある。意思のあるところには、合意形成も可能である。だから、到達しようとする意思もある。
日本人には、意思が無い。だから、到達の努力も合意形成にならない。

>自然に対する観方も日本人と西洋人では異なります。
>四季折々の変化を楽しむ日本人は自然との一体化、調和を好む国民であり、物事に対しても、人為的に強引に行うというよりも、「自然にそうなった」というのが好きです。

そうですね。日本人には意思が無い。無意思でなれば、それは自然ということでしょう。

>会議などでも、よほど特別に強調する場合でない限り、「我々全員がこう決めました」とは言わず、「会議で決まりました」と言うほうが普通です。

自己が無い。

>また、「子供を産みました」ではなく、「子供が生まれました」とか、「努力して自分の英語力を高めました」というより、「努力したら、英語が上達したんです」など、自分以外の存在のおかげで自然にそうなったような言い方が好まれます。

自己が無ければ、自分以外ということになるでしょう。

>自分を主体としないため、結果的に、そこに「謙虚さ」が感じられ、自分という主体をぼかしてしまうため、「主語」の概念も馴染みにくいのかもしれません。

日本人には意思の概念が無いので、無意思・自然の状態で表現します。国がひっくり返っても、それは自然のように見えています。責任者の意思に因るものではありません。

>受身的な「なる」に対して、「する」のほうは、動作を強調するため、その動作を誰がやったかという「主体」が必要になってくるのではないかと思われます。

意思が無いので、誰の意思かを表現できません。意思は未来時制の文章内容ですが、日本語には時制がありませんので、未来時制も無く、日本人には意思の内容が想定外となっています。

>日本で翻訳されたマニュアルなどの表現には「受動態」表現が多いとよく言われます。

>「電源を入れると、メニュー画面が表示されます」>When the power is turned on, the menu will be displayed.>というわけですが、これも、元の日本語に主語がないのですから、それこそ、自然に「受動態」になるのかもしれません。
>また、複雑な機械などの場合、原文の日本語に主語が表現されていないので、どのパーツを主語にしてよいかわからず、受動態で表現しておけば無難だという考え方もあります。

受け身の考え方ですね。

>一方、英語のライティングの手引書などでは、能動態を使うことを奨励しています。

‘とかく、この世は無責任’ とならないためには、能動態が良いですね。

>ただし、動作の主体を表現したくない、表現のバリエーションをつけたい、という場合には受動態を使用することもできると説明されています。

そうですね。

>もっとも、取扱説明書などの技術文書では、安全性に関わる問題も含んでおり、自然な日本語を追求しすぎてもよくない場合があります。>ある程度、不自然さに目をつぶり、主語、述語の関係を明確にしなければならないこともあります。

一般的には、文章には主語と述語が必要ですね。文章があれば、意味もある。矛盾も有れば、それを指摘できます。
ただ、単語を並べただけでは、文章にはなりません。歌詠みになる。忖度 (推察) が必要になります。忖度は、自分勝手な解釈です。恣意 (私意・我がまま・身勝手) の力に因るものでしょうか。忖度に力を入れるのは、日本人だけかもしれませんね。

>しかし、文章があまりにも長くなったり、不自然でわかりにくいということになるのでは逆効果です。

本当にそうですね。長い文章は、わかりにくいですね。

>***以上引用終わり***



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共同体と個人

2017-05-07 10:33:56 | 日本語文法
>@(内田樹)教育には色んな機能があるんですが、基本は、子供たちを大人にして、自分たちが構築し運営している共同体あるいは自治体のフルメンバーとして、それを担い得るような公共性の高い市民を育てると言うことです。

社会性のある個人が必要ということですね。同感です。

>学校教育が今歪んでしまったのは、教育活動を行うのは共同体の利益の為ではなく、教育を受ける個人がそこから受益するためのものだと勘違いが広まったからだと考えます。

日本人にあるものは、現実ばかりです。受益は現実から得られます。
日本人には世界観がありません。過去・現在・未来の内容は非現実ですから、日本人には、想定外になっています。非現実の内容は一人ひとり違っています。
非現実の中に、’あるべき姿’ の世界があります。
日本人には、個人主義 (individualism) が理解できていないのでしょう。利己主義 (egotism) と誤って解釈されているのではありませか。
自主・独立 (independent) の発想のできる個人を育成することが必要でしょう。

>学校教育を子供たちに授けることによって、最大の利益をうけるのは、共同体そのものなのです。共同体を支える公民的な意識を持った人間、公共の福利と私的利益の追求のバランスを考えて、必ずしもつねに私的利益の追求を優先しないようなタイプの大人を、社会のフルメンバーとして作っていくことは、共同体の存続にとって死活問題なのです。

昔から伝えられている‘今だ、金だけ、自分だけ’ の処世術ばかりでは、社会の進歩に行き止まりがありますね。
そうした処世術を頼りにして生きてきた人間を、戦時中は ‘お国のためだ’ といって死地に送り込んでいた。’共同体のためだ’ ということでしょうが、一体誰の共同体なのでしょうか。
この国がひっくり返った時にも責任者は出なかった。誰が、いつ、どこで、どのような間違った判断を下したのか、今でも明らかになっていない。とかく、この世は無責任。
この国が、どのような国であるべきなのか、'あるべき姿’を説くことのできる責任のある個人の出現が必要です。その ‘あるべき姿’ の内容は、非現実の内容であり、非現実の内容は、個人個人で違っている。だから、その方針の選択が国民にゆだねられています。賢い国民が賢い選択をすることになるでしょう。そうしたら、非現実の内容を現実の内容に変えることが出来ます。

>これは実に多くの人が勘違いしていますね。

それは、無理もないことです。日本語には、時制というものがありません。ですから、非現実の内容というものは考えられません。
理想は非現実の内容ですから、日本人には想定外になっていて、私たちの生活には夢も希望もありません。
理想を語る者に対して現実肯定主義者は、’そんなこと言っても駄目だぞ。現実はそうなっていない’ と反論します。
昔から我が国では ‘話にうつつ (現) を抜かしてはならない’ と、言われています。現実離れをした内容などは、日本人にはとても信じられません。
それは、無いことです。嘘・本当の ‘嘘’ でしょう。

>共同体の維持がいかに大切か。そしてその大切さを忘れている人がいかに多いか。

日本人には世界観がありません。ですから、移行すべき未来社会の内容は、想定外になっています。あくまでも、自分の考えは自分の為だけに絞られています。これは、現実に流されて生活する人間の悲哀です。
非現実が無いのであるから、哲学はない。現実ばかりでは、処世術・実学 (技術) に頼るしかありません。ですから、我々は、おしなべて無哲学・能天気の生活を続けています。ここに、我が国の教育改革の必要性があります。

>これはとっても重要で、正して行かないといけないことだと思います。

責任 (responsibility) とは何か。それは、応答可能性のことであります。
漢字は漢人 (中国人) の考えを示すために造られた文字です。いくら漢字を掘り下げてみても、横文字文化の内容は出て来ません。
意思のある所に方法はある。(Where there’s a will, there’s a way).
意思の無い人に対しては、折角の応答可能性も役には立たない。問題の解決方法 (非現実) を示すことが出来ないからです。
意思は未来時制の文章内容です。日本語には時制が無いので、日本人には意思が無い。優柔不断・意志薄弱に見える。
責任とは、’引き受けて、せねばならない努め’ であるという。方法もなく義務が課せられるのは、誰しも望まないことです。そこには牛馬の苦しみが待っています。だから、だから我が国には有能な責任者が育たない。
自他ともに、意思の存在を認めあうことが大切です。しかし、日本語文法に問題があって、これも一筋縄では解決しないことでしょう。百里の道も一歩から。

肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。
徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)

昔の日本人は、15歳の見習い乗子の責任は考えられたが、5代将軍と佐土原藩主の責任については考えられなかったようである。


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文章にして語れ

2017-04-10 11:49:30 | 日本語文法
>【日本語とは何か ( 日本語と英語は本質的に違う )】  
>世界には、本質的に異なる言語が、二種類ある。

その他にも本質的に違った言語があるかもしれませんよ。

>少なくとも、日本語は英語とは本質的に異なる。多分、欧米の他の言語とも本質的に異なるだろう。
>日本語と英語のそれぞれの語彙、文法、そして発音が違うのは勿論であるが、日本語と英語の基本的なスタンスが全く違う。
>結論から言うと、日本語は‘気持’を伝えるための言語であり、英語は物事、すなわち‘モノ・コト’を伝えるための言語である。

英語も日本語も、気持ちを伝えることが出来るのではありませんか。

>日本語は自分の気持を相手に伝えようとするのだから、当然、‘主観’の表明である。

自分以外の人の気持ちを伝えることもあるでしょう。気持ちは主観的な内容ではありますけれどもね。

>英語はモノ・コトを伝えようとするから、‘客観’的説明となる。

日本語も、実況放送・現状報告の内容を伝えるための言語の様ですよ。つまり、現実しか表現できない言語の様です。

>そして、その結果、日本語は自分の主観的気持を述べる‘感想文’とでもいうようなものになってしまう。

感想文よりも、気分を述べるバラバラな単語の群れの様です。和歌・俳句がその例です。日本人に人気があります。

>これに対し、英語は客観的にモノ・コトを伝える‘説明文’である。

英語は文章になります。歌詞も文章になっています。日本語の歌詞は、バラバラな単語の群れです。

>気持と事実(モノ・コト)、主観と客観とはまさに正反対のものである。

気分の内容は主観的、事実の内容は客観的ですね。

>主観的気持を主観的に伝えようとする日本語と客観的事実を客観的に説明しようとする英語は本質的に異なる言語である。

英語も日本語も、主観的な気持ちと、客観的な事実を伝える言語の様ですよ。

>(略)

>【追補 主観と客観、そして、意識の誕生 (日本語とは何か)】  
>日本語は主観の言語である。

日本語には、客観もあるのではないのですか。

>英語は客観の言語である。

英語には、主観も客観もありますね。

>ところで、主観とは、客観とは何か。なにが違うのか。

思想において、個人に依存する判断が主観、そうでないものが客観ではありませんか。

>日本語の「悲しい」は、自分の気持ちそのままの表明である。

単語には文章としての意味が無い。「悲しい」は、自分の気持ちか、他人の気持ちか、判断できませんね。

>主体である私の感情のそのままの表明である。

他人の感情かもしれませんよ。

>いってみれば、主感の告白である。

文章にならないと判断の内容がわかりません。ですから、主観・客観の区別はできませんね。

>ただ、言葉、例えば‘悲しい’という言葉は概念である。

そうですね。

>事態を抽象化し、言の一葉に託したものである。

そうでしょうね。

>感情という事態を ‘悲しい’という言葉に見做したのである。

そうですね。’悲しい’ は感情の種類でしょうね。

>そういう意味で「悲しい」という表現は主観である(観るという見做しが入っている)。

文章でないから、判断はできませんね。

>言葉が発明されたことによって、主感が主観として表明することができるようになったのである。

主観と客観の区別は、文章内容に関した区別でしょう。「悲しい」は単語ですから、その区別はありませんね。

>英語の「I am sad.」を日本語に直訳すれば、「私は悲しい状態にある」となり事態の説明である。

‘I am sad’. は文章ですね。文章には意味がある。この場合は、主観的ですね。

>これは、第三者の立場に立って自分の状況を観察し、これを描写しているのである。

自分の立場に立って述べているのでしょう。

>これが客観である。

自分のことを述べているのだから、主観的でしょう。相手は全く逆に狂喜しているかもしれません。

>日本語の「悲しい」により近い英語訳は「I feel sad.」である。

「悲しい」の主語は、’I’ (私) とは限りませんでしょう。直訳にもなっていませんね。
前者は単語、後者は文章です。両者はantonym (反意語・反義語・反対語) の関係にあります。文章は単語の集合体であります。文章でなければ、単語でしょう。単語には、文章としての意味がありません。
「悲しい」は、文章ではありませんね。単語です。文章としての意味もありませんから、その矛盾も指摘できません。

>‘feel’は主感である。

ただの単語では、主観・客観の区別はつかないでしょう。完全な思想を表さなければ、主観・客観の区別はできないのではありませんか。

>ただ、どう‘feel’するかという意味で‘sad’を加えなければならないので、やはり説明的となってしまう。

完全な文章になっていますね。

>英語には、例えば「I sad.」、あるいは「I sady.」という表現はありえないのである。

‘I sad’ とか ‘I sady’ は文章ではありませんね。文章の形態をなしていません。ですから、文章としての意味が無い。しかし、英語にも日本語にも、単語も文章も存在しますね。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

生涯のつまずきを避けるためにも我々は発言を文章にして語ることが大切であります。だが、日本語の場合は、時制がないので、英語のように異なる次元の文章を並置した上で比較して自らの結論に導くことはできません。だから、英米人のような大人の話はできない。そこで、以心伝心・不立文字となる。こうした精神状態では、国際社会に立つことはできないでしょう。彼らの言語では、考えは必ず文章になる。文章にならないものは、考えではありません。



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