>人間は、「言葉」によって考えることは間違いありません。
そうでしょうね。独り言を言いながら考えるなどということがありますね。使用言語に制約されて考えるのですから、考え方も、それぞれの言語 (民族) 特有なものになるでしょうね。
>しかし残念ながら、日本語は厳密で抽象的な表現は得意でないように思います。
そうですね。日本語文法には、時制 (tense) というものがありませんので、非現実の内容を考えるのは、不向きですね。
時制があれば、非現実の三世界 (過去・現在・未来の世界) の内容をそれぞれ独立に展開できますね。よく知られている例としては、インド人が前世・現世・来世の三世を考えているようなものです。
時制が無ければ、世界は一つです。その内容も一つです。見ればわかる。見られないものは、嘘になる。
日本語は、現実の内容を表すための言語です。スケッチ用の言語です。現実の内容はただ一通りで、見ればわかります。見えないものはウソになります。現実離れをした話を聞いただけで三世界の内容を信じることが日本語では難しくなります。ですから、日本人には英米流の高等教育は不向きということになります。
>なので、我々日本人は「考える」ことが苦手なのかもしれません。
そうですね。考え (非現実) の内容は、見ることが出来ない。正確な言語を使用して、正しい (矛盾を含まない) 作文をして、それを正しく解釈することにより内容が伝わります。
曖昧な言語を使用して、バラバラな単語を使い、忖度 (推察) により勝手に解釈するのでは、考えの内容は体系を作ることはできませんね。だから、考えを伝えることもできません。自分さえ良ければとなり、孤立を深め、他者がいないことになります。
>では、「考える」とはもう少し詳しくいうとどういうことなのでしょうか。>考えることは、大きくは二種類に分けられると思います。>分析的に考えることと、創造的に考えることです。
>考える目的は、いろいろな言い方ができると思いますが、私は「意思決定」だと思っています。
単に考えを述べるだけなら、世界観になるでしょう。行動を起こす場合には、意思決定が必要になりますね。
意思は、未来時制の文章内容により表現されますが、日本語文法には時制というものがありません。ですから、日本人には意思がありません。それで、優柔不断・意志薄弱に見えます。意思が無いにもかかわらず、意思があるように見えるのは、恣意 (私意・我がまま・身勝手) があるからです。恣意は、文章にならず、バラバラな単語 (こごと・片言・独り言) のままです。文章にならないので、意味もなければ矛盾も指摘できません。言動にならないので、発声の際は相手の忖度 (推察) に期待をかけています。他力本願・神頼みといったところです。無為無策でいることになる。
英語には時制があり、英米人には意思があります。ですから、言動の基となるリーズン (理性・理由・適当) を答えることが出来ます。説明責任に応じられます。
>何かを決めるために考える。
そういう場合が多いですね。でも、能動の ‘決める’ は少なくて、受動の ‘決まる’ 場合が多いようですね。
>その際に、まず分析的に考えた上で、創造的に考えるというステップを踏むのではないでしょうか。
そうでしょうね。データを集めて、新しい方針を立てられたら立派な人達ですね。日本人には、論理的に意思決定をするという過程が欠落していますからね。だから、意思決定にはならなくて、恣意決定になります。これは人間の信頼に関わる問題です。我々の無視できない事実です。
山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを間接的に指摘しています。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。
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