>書く力の向上は、まず話す力から
自分の話す力は、正しい (矛盾のない) 文章作りから始まるのではないでしょうか。
>書く力のない子は、話す力も乏しいという特徴があります。>きちんとした文章ではなく、単語で話すことが多いのです。
考えを表すための文章ができないために、単語で話すことが多いですね。文章にならないものは、意味もなく、矛盾も指摘できません。議論にもならないです。
>たとえば、話す力が乏しい生徒が宿題を忘れてきた時、
>「先生、・・・宿題・・・」としか言わず、あとは推測してと言わんばかりにもじもじしながら立っています。
>「宿題が何?」と聞き返すと、
>「宿題を・・・忘れました。」と、短い文章で話したあと、また宿題を忘れたボクに何か指示をしてくださいと言いたげな顔だけして、下を向いています。
>「宿題を忘れたから何なのか、はっきり言いなさい」と促して、ようやく「次回持ってきます。」とまた短い言葉が返ってくるのです。
日本人には意思が無い。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制 (tense) というものがない。だから日本人には意思が無い。英語には時制がある。英米人には意思がある。
全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。
日本人の想い (非現実) は文章にはならない。未来時制の構文がないから、未来時制の文章内容にならない。意思のための単語は、バラバラなままである。小言・片言・独り言を本人が言うのを聞いて、相手は忖度 (推察) する。なれ合いか、アニマル風か。忖度は、自分勝手な解釈であるから、発言者には責任がない。とかく、この世は無責任。忖度は、我が国の無責任体制の始まりであります。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、バラバラな単語でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
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