>日本人のやることはすべて嘘。> 外面、比較、他者との競争でしかない。>リンクから引用させていただきます。
>---------------------------------------
>学校に行けば、勝ち負け、何番で、比較ばかり。
‘上とみるか、下とみるか’ の判断ですね。勝負で決めるのが一番わかりやすい。我が国では、人間の序列が大切ですね。
>音楽や美術も、楽しいから、わたしがやってみたいから、という心の内側からのものではなく、比較、競争、コンクール主義。 勝ち負け、うけるか否かの世界。
そうですね。品定めが大切ですね。
> (中略)
>生きること自体を問う「恋知(哲学)」の文化はなく、学校ではそういう時間はゼロ。代わりに「道徳教育」とは恐れ入る。
日本人は、無哲学・能天気ですからね。自己の哲学が無ければ、判断基準としてお仕着せの徳目を暗記するしかないでしょう。
> (中略)
>言葉ではいいことを言う人も、本音(日々の生活仕方・価値観)は、五十歩百歩です。
本音は、恣意 (私意・我がまま・身勝手) ですね。人に話すことは出来ない内容のもの。
>「日本に哲学なし」とか「日本人は生まれながらに哲学とは無縁」といわれて久しいですが、目の前主義で「外面人間になる努力」以外は知らないで生きる人の集団が日本人だとしたら、言葉を失うほど悲しいこと。
内面が無ければ、外面だけになる。
内面の内容は、哲学 (非現実)であって、見ることは出来ない。話になる。あるべき姿の内容である。
外面の内容は、処世術 (現実) であって、見ることができる。今だけ、金だけ、自分 (たち) だけの結果となる。
>日本にあるのは、ただの事実学の累積と技術知だけかもしれません。
そうですね。我が国の実社会に対応する学問は、実学 (技術) です。教養はありません。
>哲学までもその延長で、西ヨーロッパの近代哲学(キリスト教化された視点から解釈されたギリシャ哲学も含む)の書物の読解が哲学と思われているようです。それでは、大学教授の職業テツガクにすぎません。
そうですね。我が国の大学から、受け売りの論客が輩出しています。不毛の議論で会議が空転しています。
> 自分が感じ想うところから、自分の頭で考えるという人間の人間的な生がフィロソフィー(恋知)なのに、その基盤・土台が脆弱なために「情報」や「書物」に頼り知ったかぶりをするのはヒドイ話です。
日本語は、現実描写のための言語です。非現実の内容は、文章になりません。全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
現実の内容は、見ることが出来ます。ですが、非現実の内容は見ることが出来ません。だが、話 (文章) になります。これは、考えの内容です。
現実の内容は、頭の外に存在する。非現実の内容は、頭の中に存在する。両者は所在が違うので、内容が同じにはならない。
現実の内容を現実に再現すれば、それは模倣となる。暗記の様なもの。
非現実の内容を現実に実現すれば、それは創造したことになる。人間の知力のたまものである。
特亜三国 (日本・中国・韓国) の人々は、模倣が得意で、創造が苦手である。哲学の基盤・土台が脆弱なためです。
>これを読んでいるあなたも要注意!
はい、私も注意して読ませていただいております。
>フィロソフィー(恋知)なしに生きるなら、それは人間の人間としての生ではありません。
そうですね。アニマルもそれで生活しています。
>いまの暗記とパターン知のテストで満点を取るような人は、この基盤がない証拠です。
そうですね。ニホンザルの湯あみ程度のものかもしれませんね。
> 恋知とは、知識ではなく、誰でもがもつ自分の固有の精神世界を豊かにしていく日々の実践です。
そうですね。西洋人は、大人になると ‘考える人’ になります。
印欧語族の言語には文法に時制というものがあって、非現実の内容を盛り込む枠組みが脳裏に出来ています。この枠組みの中の空白はどうしても気になるので、考える人になります。思慮深い人が出てきます。
日本語文法には時制というものがなく、脳裏に非現実の内容を盛り込む余地はありません。ですから、無哲学・能天気のままで一生を過ごすことになります。浅薄な人間のままで過ごします。
>自分が感じ、想い、考えるのですから、誰でもいつでもできますが、その方向(沈思と自問自答)への教育がなく、個人の努力がありません。
感じ、想い、考える単語は、日本語には構文がないで、バラバラなまま存在します。ですから、日本人は歌詠みになります。バラバラな単語は忖度 (推察) されて鑑賞されています。忖度は、自分勝手な解釈であるから論拠もなく、議論の対象にはなりません。ですから、日本人は、議論下手です。
>それなくしては意味のある対話は成立せず、ただ、相手に勝つ話法と部分知識ばかりの不幸な世界。
不毛の議論ばかりですね。処世術のなれの果てか。
>(中略)
>それならば、「日本人のやることはすべて嘘」になります。
現実は本当のこと。非現実は嘘。考えの内容は、すべて嘘。現実の世界は、嘘か本当かの世界です。子供の世界の様なものか。
>心の内から湧き上がるものがないままに「優秀」な人になる!?芸術家になる~???みな「芸を仕込まれたアシカ」になるだけです。
そうですね。自己の表現が無い。個性が無い。世界に影響を与えるものが無い。
>なんともヒドイ話ですが、相当程度現実です。
当たらずと言えども、遠からず。
>--------------------------(引用終わり)-----
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>学校に行けば、勝ち負け、何番で、比較ばかり。
‘上とみるか、下とみるか’ の判断ですね。勝負で決めるのが一番わかりやすい。我が国では、人間の序列が大切ですね。
>音楽や美術も、楽しいから、わたしがやってみたいから、という心の内側からのものではなく、比較、競争、コンクール主義。 勝ち負け、うけるか否かの世界。
そうですね。品定めが大切ですね。
> (中略)
>生きること自体を問う「恋知(哲学)」の文化はなく、学校ではそういう時間はゼロ。代わりに「道徳教育」とは恐れ入る。
日本人は、無哲学・能天気ですからね。自己の哲学が無ければ、判断基準としてお仕着せの徳目を暗記するしかないでしょう。
> (中略)
>言葉ではいいことを言う人も、本音(日々の生活仕方・価値観)は、五十歩百歩です。
本音は、恣意 (私意・我がまま・身勝手) ですね。人に話すことは出来ない内容のもの。
>「日本に哲学なし」とか「日本人は生まれながらに哲学とは無縁」といわれて久しいですが、目の前主義で「外面人間になる努力」以外は知らないで生きる人の集団が日本人だとしたら、言葉を失うほど悲しいこと。
内面が無ければ、外面だけになる。
内面の内容は、哲学 (非現実)であって、見ることは出来ない。話になる。あるべき姿の内容である。
外面の内容は、処世術 (現実) であって、見ることができる。今だけ、金だけ、自分 (たち) だけの結果となる。
>日本にあるのは、ただの事実学の累積と技術知だけかもしれません。
そうですね。我が国の実社会に対応する学問は、実学 (技術) です。教養はありません。
>哲学までもその延長で、西ヨーロッパの近代哲学(キリスト教化された視点から解釈されたギリシャ哲学も含む)の書物の読解が哲学と思われているようです。それでは、大学教授の職業テツガクにすぎません。
そうですね。我が国の大学から、受け売りの論客が輩出しています。不毛の議論で会議が空転しています。
> 自分が感じ想うところから、自分の頭で考えるという人間の人間的な生がフィロソフィー(恋知)なのに、その基盤・土台が脆弱なために「情報」や「書物」に頼り知ったかぶりをするのはヒドイ話です。
日本語は、現実描写のための言語です。非現実の内容は、文章になりません。全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
現実の内容は、見ることが出来ます。ですが、非現実の内容は見ることが出来ません。だが、話 (文章) になります。これは、考えの内容です。
現実の内容は、頭の外に存在する。非現実の内容は、頭の中に存在する。両者は所在が違うので、内容が同じにはならない。
現実の内容を現実に再現すれば、それは模倣となる。暗記の様なもの。
非現実の内容を現実に実現すれば、それは創造したことになる。人間の知力のたまものである。
特亜三国 (日本・中国・韓国) の人々は、模倣が得意で、創造が苦手である。哲学の基盤・土台が脆弱なためです。
>これを読んでいるあなたも要注意!
はい、私も注意して読ませていただいております。
>フィロソフィー(恋知)なしに生きるなら、それは人間の人間としての生ではありません。
そうですね。アニマルもそれで生活しています。
>いまの暗記とパターン知のテストで満点を取るような人は、この基盤がない証拠です。
そうですね。ニホンザルの湯あみ程度のものかもしれませんね。
> 恋知とは、知識ではなく、誰でもがもつ自分の固有の精神世界を豊かにしていく日々の実践です。
そうですね。西洋人は、大人になると ‘考える人’ になります。
印欧語族の言語には文法に時制というものがあって、非現実の内容を盛り込む枠組みが脳裏に出来ています。この枠組みの中の空白はどうしても気になるので、考える人になります。思慮深い人が出てきます。
日本語文法には時制というものがなく、脳裏に非現実の内容を盛り込む余地はありません。ですから、無哲学・能天気のままで一生を過ごすことになります。浅薄な人間のままで過ごします。
>自分が感じ、想い、考えるのですから、誰でもいつでもできますが、その方向(沈思と自問自答)への教育がなく、個人の努力がありません。
感じ、想い、考える単語は、日本語には構文がないで、バラバラなまま存在します。ですから、日本人は歌詠みになります。バラバラな単語は忖度 (推察) されて鑑賞されています。忖度は、自分勝手な解釈であるから論拠もなく、議論の対象にはなりません。ですから、日本人は、議論下手です。
>それなくしては意味のある対話は成立せず、ただ、相手に勝つ話法と部分知識ばかりの不幸な世界。
不毛の議論ばかりですね。処世術のなれの果てか。
>(中略)
>それならば、「日本人のやることはすべて嘘」になります。
現実は本当のこと。非現実は嘘。考えの内容は、すべて嘘。現実の世界は、嘘か本当かの世界です。子供の世界の様なものか。
>心の内から湧き上がるものがないままに「優秀」な人になる!?芸術家になる~???みな「芸を仕込まれたアシカ」になるだけです。
そうですね。自己の表現が無い。個性が無い。世界に影響を与えるものが無い。
>なんともヒドイ話ですが、相当程度現実です。
当たらずと言えども、遠からず。
>--------------------------(引用終わり)-----
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