>最も最低なのは、偏差値によって、すべても学童の序列を決めてしまっていることである。>偏差値によって、全人格を、決めつけとしまうような事は、即刻やめることだ。
そうですね。同感です。価値観の倒錯ですね。
>評価すべき事も曖昧な上、評価する基準や、方法も確立していない。>それでありながら、序列だけが、明確に決められてしまう。
大和民族は、ひたすら序列を求めてやみませんね。
>それによって、人生の進路まで決められてしまう。
そうですね。序列社会における個人の進路は、序列により決められています。
>これは、非道だ。>人倫の道にもとる。>人間として許されざる事だ。>何を、根拠にして、人に序列をつけるのか。
日本語には、階称 (言葉遣い) がありますから、’上とみるか・下とみるか’ の判断は避けられせんね。判断には、上下の基準が必要です。ですから、公の基準を求めることになります。
日本人は、礼儀正しい民族で、礼儀作法も序列により定められています。ですから、人を見損なってはいけないのです。序列感覚なしでは社会生活が成り立たないのです。だから、世俗の序列を求めてやまないことになります。序列なきところに、礼儀なしです。外人・非国民にはなりたくない。
>偏差値主義こそ、最も忌むべき差別思想である。
そうですね。残念ながら偏差値が我が国では人間序列の基準に使われていますね。世俗の価値は、何を採ってもむなしい限りです。哲学が無い。ただ、処世術にまい進するばかりです。
>偏差値は、我が国の教育制度の非人間性を象徴している。
そうですね。個性を認めない我が国の評価法は、非人間的ですね。
考えの内容は、個人個人で違います。考えが無ければ、個人の違いは出て来ません。没個性の状態は、ちょうど幼児やアニマルの様なものであります。
日本語は、現実描写のための言語です。考え (非現実) の内容は語れない。ですから、言説から個人の違いは出て来ません。言説から個人の違いが出てくるような状況であれば、この個人的な違いを擁護するために、個人主義が必要になります。個人に違いがみられないようであれば、個人主義の必要性もありません。
言語は、考えるための手段であります。言語が違えば、考え方も違います。英語の文法には時制 (tense) というものがありますが、日本語にはありません。時制があると、非現実の三世界(過去・現在・未来) の内容が語れます。ですが、日本語文法には時制が無いので、日本人には自分の考えが語れません。ただ、恥じらいを表します。ですから、日本人は没個性です。非人間的な処遇から脱することが出来ません。
日本語と英語の両方を学んで、理にかなった考え方を致しましょう。そうすれば、禍を福となすことが出来ます。
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