>ノーベル化学賞(2000年)を受賞した白川英樹・筑波大学名誉教授は、科学や芸術などの学問を日本語で学び、考えることの大切さを説いている。>「言語にはコミュニケーションの道具としてだけでなく、考えるための道具としての役割がある。>人は母語で学ぶことによって、より核心に迫った理解ができる」と語る。>日本人は古来、大陸の漢字文化を学び、江戸期以降は欧米の科学知識を意欲的に日本語に翻訳して学問体系をつくり上げてきた。>現代の日本人が、世界の学問を容易に母語である日本語で学ぶことができるのは、先人たちによるこうした血のにじむような努力のおかげなのだ。
そうでしょうね。
>白川氏はノーベル賞を受賞後、「日本語で自然科学を学べる幸せ」についてずっと考え続けてきた。>日本人が日ごろ気付いていないこの恩恵は、歴史上どのようにして可能になったのか――昨今の英語教育早期化への見方なども含め、その思いを伺った。
時宜を得た探訪ですね。
>■意表突かれた質問、「なぜ日本にはノーベル賞受賞者が多いのか」
>――白川先生がこの問題への関心を深められるようになったきっかけは、ノーベル賞発表の際のある出来事だったとお聞きしました。
>白川 ノーベル賞受賞の一報は2000年10月10日の夜9時半ごろ、わが家に通信社からかかってきた電話でした。>その後も電話が鳴り続け、テレビでもテロップが流れました。>しかし、ノーベル財団から正式な連絡は何もないので、その夜は電話線を外して寝ることにしました。>翌早朝から報道陣が家を取り巻き、近所迷惑なので、7時ごろから玄関先で応対しました。>午後からはインタビューや取材を受け、来宅したスウェーデン大使館の人からやっと正式に受賞を告げられました。>その取材があらかた終わった後、香港の経済誌の特派員が帰り際に、「ところで」と1つ追加質問をしました。>「欧米諸国に比べると、日本人の受賞者は少ないけれど、アジア諸国と比べると断然多い。それはなぜだと思うか」というものでした。>意表を突かれた私は、とっさに「日本人は日本語で書かれた教科書を使い、日本語で学んでいるからではないか」と答えました。
そうかもしれませんね。それはアジア諸国と比べると断然多い理由でもあり、欧米諸国に比べると少ない理由であるかもしれませんね。
>頭の中にあったのは、アジアではインド、シンガポール、マレーシアなどは英国の、ベトナムはフランスの、インドネシアはオランダの植民地になったことから、各国はそれぞれの旧宗主国の言葉を使って学校教育をしているということでした。
アジアでは、自国語を使って学校教育ができないのですかね。
>つまり学ぶための言語と、ふだん生活で使う言語(母語)が違う。
それは、文語と口語が同じにならないようなものでしょう。
>この2つの言語は本来、学問を究める上で別々であっていいはずがないのです。
言語の特性は、様々ですからね。都合の良い言語を使ったらよいでしょう。航空交通管制は世界中通常英語で行われていますね。
>日本は欧米の植民地にされずにすみましたから、母語で学問ができるアジアでは珍しい国なのです。
そうですね。
>■丸谷才一氏の新聞コラムを読んで自説の正しさを実感
>――とっさに答えられたことが、先生のその後の思索のテーマになったわけですね。
>白川 そうです。その後ずっと、もし私の独りよがりな考えだったら困るなと思っていました。>すると2002年7月31日の朝日新聞文化欄に、作家の丸谷才一さんが書いた「考えるための道具としての日本語」という文章が載りました。>言語を「思考のための道具」と「伝達のための道具」に区別し、思考のための道具としての日本語がなおざりにされていると警告を発するコラムでした。
日本人の精神活動は、文章内容には表せないでしょう。人の心から心へと直接伝えられていると聞いていますがね。これは、以心伝心・不立文字です。
全ての考えは文章になる。文章にならないものは、考えではない。文章にならない日本人の精神活動は、バラバラな単語 (小言・片言・独りごと) により発せられる。相手は、それを忖度 (推察) で受けている。
ですから、日本語は ‘思考のための道具’ にもならず、’伝達のための道具’ にもなっていないのではないでしょうか。
>これを読んで、私があの日特派員に言ったことは正しかったのだと思いました。
「日本人は日本語で書かれた教科書を使い、日本語で学んでいる」は、以前から指摘されている事実ではありますが、果たしてその効率というものは、どのようなものでしょうかね。
>自然科学に限らず、人文科学、社会科学、芸術を究めるには、自然や人間をしっかり観察して考えなければなりません。
日本人は、理解の代わりに忖度 (推察) を使いますからね。この傾向は、現実直視には際して大変な弱点になっています。
山本七平は「『空気』の研究」のなかで、理解の代わりに忖度を使うことを指摘しています。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。
>私たちは母語である日本語を思考の道具として使い、そのことを実践しているのです。
忖度は、自分勝手な解釈です。議論になりません。独りよがりの態度の原因になりがちです。これは日本語を思考の道具として使う場合に、注意しなくてはならないことです。
>ノーベル賞受賞者の出身国と人数を調べて、どこで学び研究してきたか、考えてみました。>2000年時点でのアジアにおける受賞者(物理学、化学、医学・生理学の3賞)は、日本が6人(湯川秀樹、朝永振一郎、江崎玲於奈、福井謙一、利根川 進の各氏と、私・白川英樹)で、母国の大学で学び研究した人たちです。>他はインド1人、中華民国3人、パキスタン1人ですが、母国で学び研究したのはインドのチャンドラセカール・ラマン氏(1930年物理学賞)だけで、残る4人は米国や英国での研究成果が受賞対象です。>つまり母国で学び研究した受賞者の比率は日本と他のアジアでは、6対1なのです。
そうですね。しかし、アジアにおける比較だけで、どれほどの意義があるのでしょうかね。
>それ以降、日本は16人が3賞を受賞しましたが、他のアジア諸国は中国人の屠呦呦(ト・ユウユウ)氏(2015年医学・生理学賞)だけ。>通算するとその比率は22対2に広がります。この事実からも母語でしっかり学び、深く核心を突く考えを身に付けることの大切さが分かります。
話をアジアに限れば、そういうことになりますね。
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