>今後、自分を含めた集団や社会がどうなっていくのか?という事に対する興味関心は、以前にも増して加速していくだろう。
そうでしょうね。社会の変化は、加速していますからね。未来社会の内容は、我々の気になるところですね。
>もちろん、日々の仕事に求められる提案内容にも、これまでにない大きな期待と突破口の提示が求められていく。>あらゆる領域で、調査や分析等が行なわれる。
日々のデータからは、未来社会の内容は見えて来ませんね。
>もちろん、状況認識は重要で、未来予測的な観点からも必要な事であろう。
そうですね。状況認識を誤ると、交通事故で命を落とすことにもなりかねません。未来予測どころではない。
>しかし、「今どうなのか?」という事実認識や状況認識に対して、「今後どうなるか?」については、すべて未来の出来事である。>したがって、この位相には事実認識も状況認識もはじめから存在しない。
そうですね。非現実・考えの内容は頭の中にある。それは、見ることができない。ただの話である。話の筋を理解するには、その文章を理解しなくてはならない。だから、聞き手は、考える人にならなくてはならない。これは、しんどい。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。考え・非現実の内容は、時制のある文章になる。
英文法には、時制というものがあるので、その文章内容は、独立した三世界 (過去・現在・未来) を表すことになる。かくして、英米人は、自分独自の世界 (非現実) を展開して見せることが可能になっている。非現実の内容を現実の内容として実現できれば、それは創造力を発揮したことになる。
日本人には時制がないので、非現実の位相に関する事実認識も状況認識も想定外になっている。
>データをいくら積み上げても、新たな現実や突破口が生み出せない理由である。
実況放送や現状報告の内容ばかりでは、新たな現実には対処できないですね。
> 必要なのは、みんな発の充足イメージ。>すなわち、みんなの充足する生活や集団や社会を将来どのように実現していきたいか?というこれからの社会像・集団像を構築する思考であり、能動的かつ創造的かつ具体的な思考であり、明確にイメージを構築する思考。
つまり、‘あるべき姿’ の内容ですね。非現実 (考え) の内容は、時制ある文章内容の中で語ることができます。
>そして、それを実現する意志。
そうですね。意思のあるところに、方法 (仕方) がありますね。Where there’s a will, there’s a way. ところが、日本人には意思がない。
意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には、時制 (tense) というものがない。だから、日本語の脳裏には未来時制は存在せず、日本人には意思がない。仕方がないので、無為無策のままでいる。
> 明確な充足(実現)イメージの構築や実現の意志を棚上げにしたまま、いくら緻密な状況認識や未来予測の共有を行ない方法論で切り抜けても、それは所詮思考のルーチンワークであり、受動的思考領域と現在形の延長に留まってしまう。
意思がなければ、能動は無い。時制がなければ、現実のみがある。
>与えられた条件(現実)という状況認識は、「充足イメージ」と「実現の意志」を以って、初めて有用な認識(=武器)となるからだ。
そうですね。’世界観’ と ‘実現の意思’ により成し遂げることが可能になりますね。
>つまり今や何をするにせよ、最も重要な思考の起点と源泉に、皆の潜在思念発の充足イメージの構築と共有がある。
未来社会の建設という共同作業には、‘あるべき姿’ の内容を構成員が共有することが必要ですね。しかし、’あるべき姿’ (非現実) の内容は、現在においては ‘存在しない姿’ ですね。
非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。それは、見ることができない。ただの話である。話の内容を理解するには、その文章を理解することが必要です。だから、聞き手は考える人になる必要があります。それは、しんどい事です。教養が必要です。
>そして、そのイメージを幹とした皆による固い実現の意志と結束が不可欠なのである。
そうですね。あるべき姿の内容とその実現に向かう構成員の固い意思が必要ですね。
世界観を持つことと恣意を表明することには、文法に時制というものが必要です。
我々日本人は、日本語と英語の双方を良く学んで時制の大切さを十分に理解し、自己の世界観を実現する意思を内外に示すべきでしょうね。さすれは、国際的にも広く協力者が得られて世界貢献を果たすことが可能になるでしょう。
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