英語には時制があるから、英米人には世界観がある。自己の世界観に基づいて現実の内容を批判するので、その人は批判精神 (critical thinking) の持ち主となる。
日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。’話がちいせえのう’ と言われることになる。そして、批判精神もない。つまり、自己の世界観に基づいて現実を批判することがない。こうした精神状態の持ち主は、政治が暴走しても歯止めをかけることが難しい。ただただ自然鎮火を待つばかりである。
大学に進学しても自己の哲学 (非現実の内容) は作れない。だから、四年間を遊んで過ごさなければならない。日本人は、無哲学に終わる教養教育が無駄であることを誰に教えられなくても知っている。フランク・ギブニー氏も指摘しているように ‘(略) しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’
私は、日本人のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何回も質問を受けた。彼は、大学において哲学を学んでこなかったようである。だから、哲学 (考え) が身に付いていない。各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy. そうでなければ、民主政治は衆愚政治の域を脱することができない。
イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。
評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)
日本人には意思がない。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制というものがないので日本人には意思がない。
意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 日本人は仕方がないので無為無策でいる。何事にも迅速に対処できない。フランク・ギブニー氏の著書 ‘人は城、人は石垣’ によれば 以下のように説明されている。 ペリー提督は、日本人はアメリカ人のように敏速に行動しないと注意された。それは、このように説明された。数人の日本人が黒船を訪れたいと思って集まったとする。一人が「いい日だな」という。これに二人目が「なんという気持ちのいい日だ」と調子を合わせる。三人目が「波も見えないぞ」という。最後に四人目が「船に行ってみようじゃないか」と提案する。 ニューヨーク・デイリー・ニューズ (1854年6月13日) (引用終り)
' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' (山本五十六: やまもと いそろく) 無意思によって引き起こされる無能を克服するために日本人は自分自身で打開策を講じている、それは、精神主義である。自主的に精神修養に励んでいる。武芸の稽古により機敏な動作の人間が養成される。だが、この種の修行によりリーズン (理性・理由・適当) を獲得することは難しい。意思は文章内容になるので意味がある。恣意は文章内容にならないので意味がない。恣意を意地・根性・大和魂として鍛えても筋道のある目的には行き着かない。
'敗因について一言いはしてくれ。我が国人が あまりの皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである。我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである' (昭和天皇)
我々日本人は、日本語の弱点について周知徹底させなくてはならない。日本語に関する自己慶賀についてはほどほどでよい。
.