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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

真面目にやれ 2/2

2019-12-15 01:20:15 | 文化

思春期になれば言語能力が飛躍的に向上するので、各人は ‘考える人’ になる。英米流の高等教育機関は、各人の哲学 (考え) を完成させるために備えられている。歴史に関する考えは歴史哲学になる。政治に関する考えは政治哲学、宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学は科学哲学、人生は人生哲学などなど。個人の哲学の完成度により学士・修士・博士の称号が与えられる。博士号 (Doctor of Philosophy: Ph.D.) を持たなければ、アメリカでは研究者と認められない。修士でなければ、アメリカでは長く教員として勤めることはできない。アメリカは学歴社会である。
自己の世界観の内容を基準にして現実を批判すれば、その人は批判精神の持ち主となる。
日本語には時制がなく、日本人には世界観がない。だから、自己の世界観を基準にとって現実を批判することもない。だから、わが国には、批判精神の持ち主は現れない。

>少なくとも2011年3月の東日本大震災の2年まえ、トップが招集した役員会での報告の事実がある。>だ羅漢だから云われるまで知識がなかったというなら、なぜこの時点で非常事態の電源確保だけでも直ちに先行着手しなかったのか、国民は承服できない。

だら幹 (堕落した幹部) には、その大切な意思がない。無意志の人間には責任がない。兎角この世は無責任。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも、彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意というものがないからである。

>・東電はこの度の千葉の大停電でも、危機対応が全くなっていないことを白日の下に曝した。>全く変わっていない、対応がなっていない。

日本人には意思がない。意思がないところには方法 (仕方) がない。意思の無い人間は変わりようがない。
<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。
私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)

>こんな電力会社の連中に50基以上の原発の危機管理や、想像を絶する原発廃炉の後始末を任せておけるだろうか。

とても無理ですね。各人にとっては任期明けまでの辛抱ですね。不自由を常と思えば不足なし。

> 多分彼らは決められたことには従うが、自分にはこんな対応は無理だと心の奥底では開き直ってるに違いない。>体制の内側で制度に従った頭の使い方しかできない。>だからただの受験エリート止まりで、定められた試験の範囲しか頭に入らない試験脳である。

そうですね。彼らは、思考停止の状態ですからね。
非現実 (考え) の内容を現実の世界で実現したら、それは創造になる。
現実の内容を現実の世界で再現させたら、それは模倣になる。これは、体制の内側で制度に従った頭の使い方である。

>それは裁いた裁判官も同じである。>つまり日本の権力の中枢は自分達には無理、だから罪はない、だから許されると、平然と開き直る人々だ。

日本人には意思がない。意思の無い人には加害者意識がない。罪の意識に苛まれる経験がない。罪は話の焦点にならない。だから罪深い行いにも歯止めがかからない。

>これからも無策のまま、権力を座布団に胡坐をかいていくだろう。

そうですね。無為無策で居ながら権力 (上意下達) を使って恣意 (私意・我儘・身勝手) を実行させるでしょうね。バカ殿様は、わが国に昔から存在しますね。
日本人には意思は無くとも恣意がある。意思の内容は文章になるので意味があるが、恣意はバラバラな単語のまま (小言・片言・独り言) で存在するので文章にならず意味がない。意思疎通は無くとも、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) がある。議会は疎かであっても談合 (腹の探り合い) がある。意思決定 (理性判断) が無くても、恣意決定 (盲目の判断) がある。だから、日本人は人生の裏街道から抜け出すことが難しい。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」


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真面目にやれ 1/2

2019-12-15 00:58:52 | 文化

>持国天 19/09/22 AM09 【印刷用へ】 >福島原発の爆発と破壊は国民が固唾をのむ目の前で起こった。>水素爆発で立ち上る黒煙と白煙の衝撃は目に焼き付いて離れない、衝撃の現場は息をのむ惨状となった。>激しい放射能汚染の中、深夜に始まる脱出行やそのまま被爆を甘受せねばならなかった人々、今でも生々しい生き地獄を思い起こさす。

原子力による事故は、わが国に多いですね。子供の火遊びのようなものか。

>広島と長崎は一発を浴びただけだが、三基が続けて爆発し、しかも未だに放射線を放出していく。世界レベルでもチェルノブイリ原発事故(1986年)と並ぶ最悪のレベル7の事故である。

本当に最悪ですね。

>・本日の東京地裁判断は断じて歴史が許さない、権力の怠慢や犯罪は裁かない日本の司法は死んだに等しい。

そうですね。日本人には意思がない。だから、意思の所在を指し示すことができない。
意思の無い人には、責任がない。わが国の責任には意思が欠けている。だから、日本人の責任はただ義務ばかりである。これでは、牛馬の苦しみばかりである。
肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。
徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)

>すでに明らかにされてきたが、地震による津波に対してトップが招集した会議で、10mを超える津波で非常時電源がダウンするという報告は、少なくとも2年まえにトップの面前で報告されている。>担当役員レベルでは8年の4月には明らかにされている。

担当役員は優秀ですね。危険察知はできたのですね。

>電力などの基幹産業経営トップに求められるのは危機察知と迅速なトップ指揮である。>本能レベルの危機察知が作動していない。

そうですね。トップは、’何事も成ってみなければ分からない’ 程度の想いですね。
そうですね。日本人には、意思がない。それで、無為無策で過ごしている。
意思は、未来時制の文章内容である。ところが、日本語の文法には時制 (tense) というものがない。だから、日本語脳には未来時制がなく、日本人には意思がない。
意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 日本人は仕方がないから、無為無策でいる。まったく変わっていない。
日本人の意思決定が鈍いことは、相当前から知られていることですね。
フランク・ギブニー (Frank Gibney) 氏の著書 <人は城、人は石垣> には、日本人の意思決定に関して次のようなことが記されています。
ペリー提督は、日本人はアメリカ人のように敏速に行動しないと注意された。それは、このように説明された。数人の日本人が黒船を訪れたいと思って集まったとする。一人が「いい日だな」という。これに二人目が「なんという気持ちのいい日だ」と調子を合わせる。三人目が「波も見えないぞ」という。最後に四人目が「船に行ってみようじゃないか」と提案する。  ニューヨーク・デイリー・ニューズ (1854年6月13日) (引用終り)

>これは無責任な凡人を裁く裁判ではない。>嘗ての軍法会議(法廷)並みに、無策で部下を戦死させた上官を裁く、厳しく上司の責任を問う裁判だ。

日本人には自己の ‘あるべき姿’ (非現実) がない。だから、会議に批判精神 (critical thinking) の持ち主は現れない。
非現実・考えの内容は、時制 (tense) のある文章内容として表現される。時制のある文章内容は、非現実のそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) になっている。生まれた時には、それぞれの世界は白紙の状態であるが、成長するにしたがって白紙の状態は誰しも気にかかる所となる。そこで、各自がその内容を自主的に埋めて行く。これが世界観というものである。その内容は何処までも展開可能である。各人に哲学が必要である。Everyone needs a philosophy.


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