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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

津田大照氏 2/2

2019-12-21 21:50:45 | 教育

>  就活でも評価されない、入社しても大して評価されない、大学に残ってもポスドクになるか非正規しかない。>そんな状況でわざわざ高い授業料払ってまで日本の大学院に行くわけないですよね。

知的な評価が欠けていると、日本人の外国留学も不人気になりますね。

>  こんなことをやっていたらますます世界から取り残されて行くのに…。>残念です。

同感です。日本人は、知的な世界に今なお気づいていないのですね。

>  そして、このような問題が報じられると決まって「だから年功賃金が悪い!」「だから終身雇用が悪い!」と言い出す人たちいますが、そもそもの問題はそこなのでしょうか? >いいえ、違います。 

年功賃金・終身雇用は、わが国の序列制度に基づいていますね。序列制度は日本語の階称 (言葉遣い) から発していますね。
知的な問題は日本語の無時制から発していますね。日本人には世界観 (非現実) の内容がない。


>  学問の府である大学が就職予備校化しているのが問題であり、もっと言ってしまえば、自分たちが「使いやすい人材」=優秀な人材と勘違いしている企業の問題です。

企業の側からの個性の選択が必要ですね。

>  経団連が加盟各社に毎年実施している「新卒採用調査」を見ると、2001年時点では、「誠実性」「協調性」「主体性」「チャンレジ精神」「コミュニケーション能力」はほぼ同じ程度、採用時に重視されていました。>  ところが2005年以降は、「チャレンジ精神」が低下傾向に転じ、一方で「コミュニケーション能力」がダントツトップに躍り出ました。

チャレンジ精神は個人の興味に深く関わりますが、コミュニケーション能力は個人の興味とはあまり関係ありませなからね。

>  その引き金になったのが、経済産業省が2006年2月に「社会人基礎力に関する研究会」の中間とりまとめの中で提唱した「社会人基礎力」にあると、私は考えています。 >  この研究会では、社会に出るまでに身につけておいて欲しい能力を議論。 >かつては、職場や地域社会で活躍するために必要な能力は、大人になる過程で自然に身につくものと考えられていました。 >しかし、家族の形が変わり、地域の結びつきが弱まり、日本社会の中でこうした能力を身につけることが難しくなり、「社会人基礎力」を定義することで大学のキャリア教育に生かそうとしたのです。

キャリア教育とは、医師や弁護士など高度の職業人を育てる教育のことですね。

> 社会人基礎力は、 1.人との関係を作る能力 (例)コミュニケーション能力、協調性、働きかけ力 等 2.課題を見つけ、取り組む能力 (例)課題発見力、実行力、創造力、チャレンジ精神 3.自分をコントロールする能力 (例)責任感、積極性、柔軟性 の3つの能力に分類されます(2006年2月8日公表の経済産業省「社会人基礎力に関する研究会」の「中間とりまとめ」より)。 > 繰り返しますが、これらの基礎力はキャリア教育のための指針です。

そうでしょうね。

>  ところが、企業側が採用を行う際、その人材の良しあしを測る、“モノサシ”に用いているようになった。

企業側がキャリア教育を行うのですね。

>「コミュニケーション能力」という実に曖昧な能力で人材の良し悪しを測り学業の成績や専門性を軽んじる超ガラパゴス採用が続けられているのです。

企業側が無哲学・能天気では話になりませんね。各人に哲学が必要です。Everyone needs a philosophy.
歴史に関する考えは歴史哲学になる。政治に関する考えは政治哲学、宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学は科学哲学、人生は人生哲学などなど。

>  海外で名刺交換をすると、大抵そこには「Ph.D」という肩書きがあります。>Doctor of Philosophy、学術博士、博士号です。>経営をするにも、人をマネジメントするにも礎となる専門性が必要不可欠です。

そうですね。博士 (Doctor of Philosophy: Ph.D., 哲学博士) 号が無ければ、外国では研究者とは認められませんからね。

>  二言目には「競争力をつけなければ世界で勝てない!」と経団連のお偉い方達はおっしゃりますが、まずは自分の目で世界を見た方がいい。

個性の分野での競争が必要ですね。経営者は従業員の個性を見分ける必要がありますね。

>世界の企業がどんな人材を重視し、そのために世界のトップ自身がどれだけ学びを続けているか。>その努力を怠っている人たちが、日本を低学歴な国に沈没させている。>そう思えてなりません。

そうですね。
‘(略) しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー)

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津田大照氏 1/2

2019-12-21 21:19:57 | 教育

>352037 勉強しても報われない。日本の若者の大学院進学率が低下した理由
>津田大照 ( 42 現場監理 ) 19/12/19 AM10
>このまま行けば、日本の国際競争力低下に歯止めをかけることはますます困難になるかもしれません。

そうでしょうね。わが国は、伝統的な低学歴の国ですからね。
>東大教授らの調査により、日本の修士・博士号取得者数が減少していることが明らかになりました。

無哲学・能天気の国であるから、修士・博士号の魅力はありませんね。

>なぜ我が国では、世界的な流れに逆行するこのような状況が進みつつあるのでしょうか。

わが国の人は、思考停止を続けているからでしょう。

>健康社会学者の河合薫さんは今回、メルマガ『デキる男は尻がイイ-河合薫の『社会の窓』』で、その原因を世界の常識とは乖離した日本企業が続ける「超ガラパゴス採用」にあるとしています。

我が国では人手不足は叫ばれても、頭脳不足に陥ったことはありません。

>〇「低学歴化」が止まらまい日本の闇
>  日本の「低学歴化」が止まりません。

そうでしょうね。日本人は無哲学・能天気ですからね。事あるごとに ‘わが国は学歴社会である’ 事が強調されてきています。

>  世界の先進国では過去10年間「修士・博士号」の取得者数が加速しているのに、日本は1割以上減少していることがわかりました(東京大学渡辺安虎教授らの分析による)。

まさに逆コースですね。

>  特に米国と中国では博士号取得者が2割超増加し、修士号でも同様の傾向があるなど、進学意欲が高まっています。
>一方、日本では16%も減少。

外国では、高等教育機関で学ぶ内容がある。だが、日本にはそれがない。高等教育で学ぶことは、自己の哲学を組み立てることです。

>東大の修士課程では留学生が半数以上を占めるなど、日本人の「大学院進学意欲」が乏しいこともわかりました。>「大学進学率」は一貫して増えているにも、関わらずです。

高度な学問は資力・知力共に無哲学・能天気な国民には無理なのでしょうね。

>  その背景にあるのが、企業が求める「人材の質の違い」です。

そうですね。日本の企業の求める質は知的な内容ではないですね。

>世界は専門性を活かした高学歴社会に突入し、博士号や修士号を持っていないと入社できない企業が増えています。

それは当然のことですね。知的能力は宝ですから。

>ところが、日本では専門性よりコミュニケーション能力。

日本語にはコミュニケーション能力に関する深刻な欠陥がありますからね。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

>大学の成績より人柄を重視。

日本人には哲学がない。だから哲学に関する成績は重視されませんね。高等教育はないのも同然になっています。
非現実 (考え) の内容は哲学になる。考えの内容は、時制のある文章になる。時制のある文章は、各々独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) を示している。非現実の世界は、初めは白紙の状態である。年を取るごとにその白紙状態が誰にも気になって、自分自身でその空白を埋めていくようになる。これが、個人の世界観というものである。その内容は、何処までも展開が可能である。
歴史に関する考えは歴史哲学になる。政治に関するものは政治哲学、宗教に関するものは宗教哲学になる。科学は科学哲学、人生は人生哲学などなど。哲学は西洋人の学問である。
全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。
矛盾を含まない全ての文章は、正しい考えを示している。考えの内容は人様々であるから、正解は一つではない。幾らでもある。
矛盾を含む文章も、その矛盾を取り除けば正しい考えになる。そのためには、対話・議論が役に立つ。だから、対話・議論を盛んにすると良い考えが沢山出来る。

>おまけに、入社後の給料の差が極めて小さいのです。>  例えば米国では、修士の平均年収は学部卒の1.4倍、博士では1.68倍であるの対し、日本では修士・博士共に学部卒の1.25倍です。>学部卒の平均年収は418万円なので、博士号を取得していても525万円しか稼げないかっこうです(日経新聞「博士」生かせぬ日本企業より)。

わが国は、博士冷遇の国ですね。知的な内容には価値を認めない国柄を反映しているのでしょうね。


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通知表

2019-12-21 18:07:51 | 教育

>相対評価も絶対評価もどうでもいい
>通知表の付け方が変わり相対評価から絶対評価が主流になりましたが、こんなことはどうでもいいのです。>通知表の成績が良ければ「優等生」で、悪ければ「劣等性」などという馬鹿げた階級意識を子供に根付かせている現実は何も変わっていません。

そうですね。階級意識は、序列意識ですね。序列の存在を確認すれば、日本人はそれが何か有意義なものと思い込んでいるようですね。

>「成績=金」の幻想から覚めるべき

そうですね。序列は金。日本人にとって序列制度は金科玉条になっていますね。

(略)
>しかし私は通知表の評価方法云々などというもの自体どうでもよく、通知表自体が心底下らないものとしか思えない人間です。>通知表の成績が高いことが「良い」とされ、低いことが「悪い」とされているなどということは単なる等級付けに過ぎません。>そして、通知表の成績やテストの点が良かったかどうかなどという話題が活発に騒がれるのは学校という狭い檻(おり)の中だけです。>卒業してしまえば誰も話題になどしないでしょう?

そうですね。しかし、日本の国全体が序列社会であることを考えれば、日本人の考え方は至って小規模ですね。全世界 (global) でもなければ、万人 (universal) でもない。

>確かに大学生などは就職する間際になって成績の提示を求める企業も増えてきたと言われますので、就職先によっては重要になるかもしれません。>「それならやっぱり成績は大切じゃん!」 >・・・という考えの人もいるでしょうが、冷静に考えて見て下さい。>一度の就職活動のために良い成績を取り続けたとして、その会社に生涯残り続けることができる保証が有るでしょうか。

学問は、一つの会社のために存在するものではありませんからね。学問は、universal ですね。

>ましてや成績の開示を求められるのは新卒とよばれる卒業生くらいだというのが世間一般の風潮です。

日本人の成績は、しょせん付け焼刃のようなものでしょうね。
‘(略) しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー)

>自分が本当に将来なりたいもの・職業などに進むために成績を高くする必要があるのであれば、どんどんそうした方がいいでしょう。

そうですね。各人に哲学は必要ですね。Everyone needs a philosophy. 我々は、無哲学・能天気ではいられませんね。

>しかし、何の目的も無いような人間に対して相対評価だの絶対評価だのと訳の分からない基準を持ち出して、目の前の成績だけを上げさせればいいという風潮はおかしくないでしょうか。

おかしいですね。深刻なのは、その序列社会の風潮ですね。

>小学生・中学生・高校生などの学生たちが、目先の数字だけを高くしなさいと言われ続けて育つというのは明らかに異常だと考えます。

そうですね。日本人にはそれしかない。この事態が重大な問題ですね。

>「学校の成績がお金や将来の安定につながる」などという感覚で、学校の教育関係者らは子供たちを競争に追い立てます。

そうですね。学校での序列競争ですね。

>しかし、競争の中では必ず残れる人と残れない人が出てくることは誰もがわかることでしょう。

そうですね。我々は、Win-Win の関係にはなれませんね。

>そして、その競争に疲れ果てた子供たちは本来の学ぶ事の楽しさや素晴らしさなどに気が付くでしょうか? > 私にはとてもそうは思えません。

空しさでいっぱいですね。

>————————————
>学校の中だけでしか通用しないテストの成績による評価。>子供たちはこれが唯一絶対だと思い込まされて12年間を過ごしている、何と異常なことでしょう。>「成績=金」はすでに幻想。
>むしいい成績を取ることだけに特化した脳は、社会の変化についていけない「社会の落ちこぼれ」を生み出す可能性が大です。

そうですね。思考停止の状態ですね。

>成績信仰を捨て、本来の学ぶ楽しさすばらしさを感じ、社会で生き抜く力をつけていく教育へ、根本的な転換が必要です。

そうですね。成績信仰は日本語から派生する序列信仰の別名ですね。
日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。’上と見るか・下と見るか’ の世俗的判断に疎い人間は日本語の日常会話も満足にはできません。その上、日本人の礼儀作法は序列作法になっているので、世俗的な序列判断ができないと礼儀正しい日本人になることもできません。序列なきところに礼儀なしです。人を見損なってはいけないという想いが高じて強迫観念の域に達しています。ですから、日本人は堅ぐるしい生活を余儀なくされています。’頑張って’ とか、’お疲れ様’ とかお互いに声を掛け合って励ましています。’張り切るな’ (Take it easy.) とか、うまくやれ (Good luck.) などの雰囲気にはなれません。英米人を見習いましょう。


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